3 悦楽の副産物

 男は今日も廃墟前でパンを食べる。暗いものが腹の底に同居する優越感に飽きは来ず、悪趣味なそれを彼は”娯楽”と称していた。どのような暮らしをしていても、衣食住が整った時に設定される次の目標は物的または精神的な満足にある。男は飢える難民達の目の前で食べ歩き、そこで得られる優越感によって精神的な満足感を得る日々に没頭していた。

 「お兄さん、ありがとうございます」

 男の悪性はその”娯楽”で発揮されていたが、人間である以上善性も持ち合わせている。はきはきとお礼を言う少年に預かっていた手荷物を渡すと、男はどういたしましてと微笑んだ。

 数十分前、休日の商店街に買い物に出た男は、両手いっぱいに荷物を抱えた少年とすれ違う。前の見えない程の袋の山に少年がバランスを崩したのを見た男は、すぐさま体を支えて荷物を半分持ってやったという運びだ。

 「お兄さん、この前は無事に帰れましたか?」

 荷物に隠れる顔が男に問いを投げた。どこか聞き覚えのある声だったが、記憶の引き出しをいくつ開けても思い出すことはできなかった。

 「この前?」

 必然、男は聞き返すことになる。少年は傍らの扉、男が自宅の玄関だと予想したそれをくぐって荷物を奥のテーブルに置くと、もう一度顔を出して男に向き合った。

 「確か、雪が降ってました。倒れそうな程ふらふらで、お兄さんが歩いていたんです」

 「そんな日はしょっちゅうある」

 「肩を貸したんですけど、覚えてませんか?」

 そこまで言われて、男ははっと思い出す。いつかの夜に助けてくれた少年だった。元気よく手を振る姿が脳裏に蘇ると、男はなるほどと手を打った。じぃと見つめる少年の目に視線を合わせると、男は軽く頭を下げる。

 「ありがとう、あの日は助かった」

 少年は大人に頭を下げられたことが初めてだった。ぎょっとして固まってしまう。頭を上げた男はばつが悪そうに頭をく。少年はどうしていいかわからず戸惑うだけだった。

 「いきなり堅苦しかったか。助けてもらったから、ちゃんとお礼をしたかったんだが」

 少年は手を前に出してぶんぶんと振ると、「いいんですいいんです」と照れを隠す。その様子が何やら微笑ましかった男は、忙しなく動くこの少年をどこか気に入ってしまったのだった。

 「……あの商店街はよく使うのか?」

 治安は良いと言えず、扱っている商品も庶民向けの安物ばかりな商店街だった。子供一人で利用するのは危険がないとは言えない。男は純粋な心配からそれを尋ねると、手をぴたりと止めた少年はそれを知っていたように笑ってみせた。

 「使いますよ。皆さん、優しくしてくれますから」

 この町の人間も捨てたものではない。男は感心すると少年に優しく笑いかける。

 「そうか。じゃあ俺もそうしたいと思う。荷物が多い時は頼ってくれ」

 どこか冷たい口調だった男が見せた暖かい表情に、少年はなぜか胸を撃たれたような気分になった。も知らぬ誰かからの優しさが染みたのだろう。どこか上気じょうきした顔でにへらと笑ってみせた。

 「嬉しいです!」

 「そうか、それはよかった」

 男は商店街へきびすを返す。少年との用は終わったとばかりに背中を向け、「それじゃあ、また」と歩き去って行った。

 「ありがとうございましたー!」

 後ろからの大声に少しびくりとはしたものの、目線だけってにこりと笑顔を返す。少年はいつかの夜と同じように、元気よく手を振っていた。

 男はそれに今度こそ背を向けると、本来の目的だった商店街へと歩き出す。脳裏には少年との記憶とこれからの予定が浮かぶ。後者は言わずもがな、”娯楽”の予定だった。少年との暖かな記憶に頬を緩ませた男は、次いで暗い悦楽の想像に口角を歪ませる。

 (ただパンを見せつけるだけのくだらない娯楽だ)

 内心では止めた方がいいと理解していた男ではあった。人道的な問題ではなく、身の危険があるからだ。

 飢えて力が出ないとはいえ、難民達は一人じゃない。あまりに見せつけすぎると当然反感を買うだろう。そうなればいつ襲われてもおかしくはない。失うもののない人間だ。気持ちが決まるまでのハードルも低いだろう。男はそう見ていた。

 (この遊びは頻度を落とすか、あと何度かできっぱりやめてしまった方がいいだろうな)

 冷静な思考とは裏腹に表情は歪みを増していく。本人がくだらないと称したそれに対し、どうやら気持ちは思った以上に強く向いているらしい。

 (やめないとな、ああ、やめるさ。今日、今日で終わりにしよう)

 陰湿いんしつな虐めのような男の娯楽は、どこか中毒性を帯びている。その意識は先程のひと時を既に忘れ、自身の悪性に埋没まいぼつする。商店街で必要な食料や日用品と不要なパンを買い、急ぎ足で廃墟の近辺に向かった。

 既に何日も繰り返されたこの娯楽に、難民達はそれでも同じ反応を見せた。彼らがあり付ける食べ物は難民支援の配給食糧のみだった上、その量も多くはない。この国では難民の扱い自体も悪い。彼らが食べ物に飢えるのは自然な運びだった。

 (……不憫ふびんな話だが)

 くつくつと、それに対してすら優越感を感じる男だった。自分でもいやな男だとわかっていたし、そんな自分を好ましくも思っていなかった。それでも男には”娯楽”から得られるそれを感じたいという欲求が勝った。

 (ん、あれは……)

 荷物を抱えた男が薄く雪の積もった道を歩き、商店街から少し外れた空き地に差し掛かる。そこでは簡素なスープが配給されているのが見えた。何らかの木札と引き換えに、湯気の出るスープと一切れのパンを受け取っている。静かに列に並ぶ全員がその木札を持っていた。

 対照的に、配給を受け取った者たちは友人や家族と楽しそうに食事を摂っている。そんな賑わいを見せているそこでは、見せつけるために買ったパンもどこか空疎なものだった。男はそれが入った紙袋の口を折って閉じると、足早にいつもの廃墟へ向かった。

 (俺は飢えていない。俺はもう飢えない)

 言い聞かせるように頭の中で唱え続けること数分、男はようやくいつもの廃墟前に到達した。無意識に歩幅が狭まり、その回転も遅くなる。わざとらしさの出ないギリギリの範囲で、男は疲れた顔を装って紙袋を開けた。

 (……いるな)

 小麦の良い香りが鼻腔びこうに触れる。いくつか入ったパンの内一つを取り出してかぶりつく。焼きたてのパンの豊潤ほうじゅんな味わいは、しかし男にとってどうでもよいものだった。男は難民達をちらりと見遣る。

 (配給があるのに、なんでいるんだ)

 窓から見えるのはいつもの顔ぶれだった。老若男女問わずに男女が数人ずつ。子供は廃墟の部屋に隠れているのか、姿が見えなかった。いずれにせよ、何故か彼らはいる。配給をもらえない事情はきっと、何やら全員が持っていたあの木札だ。

 (なるほど。同じ難民でも、全員が平等公平ってわけじゃないらしい)

 廃墟に住む難民達にとっては災難な話だったが、その方が男にとっては都合が良かった。なにせ”娯楽”の目的は優越感の獲得にある。そのための前提条件が難民達の飢えである以上、男にとってそれは歓迎したい程であった。

 (その方が都合はいい)

 男は口元のにやけを隠すのに精一杯だった。ここの住人が配給をもらえる立場でないと分かったからだろうか。いつもより一段、得られる悦楽は大きいものとなった。腹の底に溜まるねばついた感情も、同時にその存在感を高めていく。

 (……気持ちがいいところに、なんだ、この邪魔する感覚は)

 腹の底でそれは渦を巻き、体の力を少しだけ奪っていく。脱力感と奇妙な焦燥感の入り混じるそれに、男はまたも覚えがなかった。男にとってその感覚は酷く不快であるということだけが重要で、だがそれを振り払う方法もまたなかった。

 (まあ、いい。多少不快感はあるが、心地よさは変わらない)

 男は割り切ると、いつも通りに口を小さく動かしてパンを食べ歩く。難民達の視線は変わらず注がれていたが、どうやらそれもいつもより熱量が高いようだった。いつもなら数人は見ない振りをする者もいる彼らだが、今日に限っては全員の目が釘付けになっている。

 (配給があったからか?やけに見てくるな)

 あまりに多い目線。男は少しの怯えを覚えた。窓の中の一人を睨みつけるが、視線が合うことはない。食べ物にだけ注がれたそれに、男は自分がいないかのようにすら思えてしまう。

 男の感じていた優越感は小さなものとなり、不快感がぶわっと広がっていく。気付けばパンを食べる手は止まる。誰がどう見ても固い表情のまま、男はその不快感に目を向けた。

 (気持ちが悪い)

 あまりの不快感に、男はとうとう食べていたパンを袋に戻した。すると難民達の目線は男から外され、廃墟の中を漂うものとなった。男の胸中にあった高揚感は最早、腹の底から上ってくる不快感に食い尽くされている。感じられるものは粘っこい嫌悪感のみとなっていた。

 (……止め時かもしれないな)

 底知れない不気味さを感じたことももちろんだが、男にとって特に不快だったのは腹の底からの感覚だった。優越感を自覚した時から一気に大きくなったそれは、今や快楽さえも打ち消す程に成長していた。

 (この感覚をこれからも抱くなら、間違いなくここで終わりにするべきだ。そもそも、この”娯楽”は悪趣味が過ぎるとは思う)

 難民の視線が向けられるかもと想像すると、やはり腹の底に不快感が渦巻いた。それに押されるように歩調を上げると、男はその日、もう難民達の方を一度も見なかった。

 自分が招いた不快感を感じた男は、帰宅後もその感覚に目を向け続けた。一度気になったことを捨て置くのは気持ちが悪い。男はそういう性分だった。

 (……なんだろうか。この感覚は)

 いつまでもそれが頭の中を巡る。シャワーを浴びていても、明日の支度を整えていても、興味深いと思う本を読んでいても。その感覚と向けられる思考は止まらなかった。

 (向き合わないといけない気がする)

 無根拠にそう思った男は、どこか居心地の悪さをも感じていた。自分で金を払って住んでいるこの自室が、どうにも居場所として相応しくないとでも言わんばかりに。何となく落ち着かない、胸がざらついている感覚。

 (……小さい時にも、こんな感覚があったな)

 男は読んでいた本にしおりを挟んで閉じるとテーブルに置き、ベッドに身を投げた。目を瞑り、過去を振り返る。両親のにやついた顔、死体の腐った臭い、鉄の冷たい感触。野盗に追われた夜。脳裏にそれらが蘇る。

 男の両親は戦場稼いくさばかせぎをしていた。文字が示す通りに、武勇をもってそうしていたのではない。戦場になりそうな辺境の町や村を転々とし、そこ戦いが起きると、死体の装備品や金品をくすねていたコソ泥である。売り払ったそれが家族の身銭みぜにとなっており、当然それは誰が見ても道徳的とは言えない、まさに戦場泥棒そのものだった。

 (あの頃は、うん、ひどい生活をしていた)

 両親は「旅感覚で楽しい」「死んだ兵士が襲ってくるわけでもない」などと言っていたが、幼い男には到底そうは思えなかった。悪いことをしていると自覚していたし、幼くも一人、その時暮らした場所での仕事を探したものだった。必然、両親と方針は乖離かいりする。

 (盗んで、売って。死にかけの兵士は殺して……。悪人だったな。俺の親は)

 一所ひとところに留まらなかった幼少期だったが、当然どの場所にいても最初は余所者よそものであった。だがそれ以上に、男はどこにいても居心地の悪さを覚えていた。きっとそれは、どこにいても道義にもとる行いをすることが前提な両親がいたからだろう。一言で言ってしまえば、幼い日の男は両親を恥じていたのである。

 (尊敬できない親だった。恥ずかしいと思っていた。だから、きっと、どこにいても俺は余所者だった)

 どこにいても、絶対に自分は悪人の息子なのだ。胸を張って新しい場所の一員になれない。そんな感覚だった。居心地の悪さは、たとえ家族と一緒でも感じていた。家族にさえ、自分とは違う人種なのだと思っていた。

 (似ている感覚だ。今感じているこれは、だからきっと……)

 その正体に手を掛ける。すると胸が大きく鳴った。寝ぼけていた頭が冴えていく。眠りかけていた意識がおののき、男はようやくその正体に気が付いた。優越感と共に得られる不快感の姿は、男にとって両親と同じだった。

 (……そうか。悪いことをしている気がする。そんな感覚だ。つまり)

 この感覚をどう説明するべきか。男は自分に対して言葉を持たなかった。だが、難民達に対しては明確な言葉を以て言うことができる。誰かに対して悪いことをした時、真っ当な道徳観を持っていれば誰しもが抱く。それはこう呼ばれている。

 「罪悪感、だ」

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