批判合戦

■アマネ

哲学の歴史を紐解けば判る事だが、哲学者と云うのは基本的に、常に過去の哲学者の云い分に対して批判を展開していくのだよ。

過去の哲学者はこう云っているが、これは違う、彼は間違っている、と云うような事ばかりを云っている。




■アマネ

これは一見、性格が悪いように見えてしまうだろう。

だがその実やっている事は、正しさを目指しているだけなのだ。

その為に、過去の哲学者の成果は、叩き台として利用し、それを乗り越える事でより正しさに向かおうとしているのだ。




■アマネ

哲学と云うのは、批判合戦だ。

だが、それは口喧嘩ではない。

互いの云い分を、丁寧に検討し、不備があったら修正しているだけ。

やっている事は、整備士やデバッガと同じなのだよ。




■アマネ

だから、哲学者が直ちに性格が悪いと云う訳ではないのだよ。

私の性格が悪いのは、私が個人的に性格が悪いだけで、哲学者だから性格が悪い訳ではないのだ。




■シン

自覚はあるんですね。




■アマネ

はて何のことやら。




■サトエ

論理的な奴は性格が悪いって云われる事もあるし、私も結構そう思ってるんだけど、これも誤解なの?




■アマネ

んー、まあ勿論人に依るだろうがね。

少くとも、論理的だから直ちに性格が悪いなんて事はない。




■アマネ

そして、当人が確かに性格が悪い訳でないのであれば、問題は、先の占いの例のように、主観範疇にまで論理と云う客観物を持ち込んでしまうせいで、人付き合いと云う主観範疇に不具合が発生してしまっているだけなのではないかな。

あの漫画の話をしているところにこの漫画の話を持ち込んだって仕方ないし、この映画の話をしているところにあの映画の話を持ち込んでも仕方ない。

何故ならそれらは、互いに全く別の話だから、噛み合うわけがないからだ。




■アマネ

論理思考ができると云うのは素晴らしい事だ。

だが、論理を無遠慮に主観範疇にまで持ち込むのは巧くない、それだけの事だ。

たとえ美味しい牛肉でも、アイスクリームを食べてるところに持ち込むのは適当でない、と云う事だ。




■アマネ

そして、情け深い心と云うのは結構な事だが、それを論理や議論に持ち込んで、人それぞれなんだから批判なんてやめましょう、なんて云うのは、これも巧くない。

客観範疇に主観を持ち込むのは間違っている。

何故なら、主観と客観は独立だから、それだけの事なのだよ。




■アマネ

主観と客観はどちらが優等かと云うと、どちらもなくそもそもその問の立て方が間違っているのだ。

どちらが上ではなく、独立なそれぞれの事実、なのだよ。




■アマネ

もし論理のせいで人付き合いをしくじったと思ったら、主観に対して論理を持ち込んだりしなかったか、と云うところを確認すると良いだろう。

もしそうしていたのなら、そこが問題であって、論理のせいではない。

そしてそうした分析ができるのが、論理の良さなのだよ。

論理的である事、批判できる事、これは反省するにも有意義なのだ。




■アマネ

自分が何を失敗したのか、まず事実をそのまま受け取る。

ここで使うのが読解力だ。

そして、何が拙かったのか、どうしたら良かったのかを批判検討する。

ここで使うのが批判思考力、分析力だ。

そして、じゃあこのようにしようと云う結論を明確に構築する。

ここで使うのが作文力だ。




■アマネ

言語化しないと自覚できないのでな。

これを十分にこなせば、人生はより良くなっていく。

国語力は中中、人生にも直結した重要な能力であろう?

何しろ、全ての基礎となる基本能力なので、何にでも応用の利くものなのだよ。




■シン

成程……。




■アマネ

そして何度も云うが、主観と客観は独立なのだ。

互いに関係がない、全く違う世界なのだ。

片方を他方に持ち込もうと云うのが間違っているだけなのだよ。




■サトエ

成程なあ。




■ユウコ

何か、色色誤解していたかも。




■サトエ

ねえ、この誤解も、読解不足って事なの?




■アマネ

いやあ、知らないものは知らないし、誤解は誤解だ。

十分な読解ができていないと云う意味では読解不足とも云えるだろうが、能力の問題と云うより、やはりただの誤解だよ。

誤解だったと気付いた時に、修正すれば良い。

修正しないままでは、不都合が続くだろうがね。




■ジュン

はーい。




■アマネ

さて、話を戻すが、批判思考と云うのはそのように、目の前の対象を分析する事だ。

と云う訳で、ものを考えるフローと云うのは、次のような事だ。

先程も述べたが、もう一度確認しよう。




■アマネ

解決すべき課題が目の前にある。

これを、読解力を駆使して、正確に受け取る。

そうして、読解して得た情報を、批判思考力を駆使して検討する。

そうして、結論を構築する。

そうして、構築された結論を、作文力を駆使し、言語を用いて明確化する。

そうすれば、解決策がそれだと自分の脳が認識できる。




■アマネ

後はそれを実践する事で、課題は解決される。

解決策が構築できるかどうかは判らないが、構築できる事を目指して勤しまねばならないのだから、そこは頑張るしかない。




■アマネ

このようにすれば、悩み事などに悩まされる事もなくなる。

悩み事は最早、解決すべき課題であって、論理思考に依って解決できうる。

そして論理で解決できない悩みは、そもそも思い悩む必要がない。

自力で空が飛べないと頭を抱えたって、まあ無理なので、諦めるしかないのだから。

だから、読解、思考、作文ができると、悩み事もなくなる。




■アマネ

……但しまあ、精神が苛まれる事がなくなるかと云うとそうではない。

何故なら、課題は課題であると云う客観事実と、それにしたって精神的に辛いと云う主観は独立だから。




■アマネ

飽く迄も、悩みのタネを解消できると云う意味で悩み事は無くなると云う事であって、解決されるまでは依然苦しみ続ける羽目にはなるかもしれない。

だが、解決もできないと云う、未来に希望が持てない状態よりも、論理に依って解決できると云う希望がある分、有意義ではないかな、と云う事だ。

まあ、参考になりそうだったらしてくれたまえ。

スタンスは人それぞれなので、役立ちそうなものだけ取り入れれば良かろう。




■サトエ

成程なあ……。




■アマネ

物事には必ず、それが成立する原因や原理がある。

だから、悩みを解決したいならその原因を取り除けば良く、その原因に至るには、読解して、批判検討すれば良いのだ。




■アマネ

同様に、どんな主張も結論も、論拠と云うものが絶対にあるはずなのだ。

論拠とはそれが成立する原因などの事であり、原因もなしに何かが起こる事はないからだ。

もしこう云う事実が成立している、と云うのであれば、そうなっている原因や原理に依ってそうなっている。

だからそこをも踏まえなくては、本当にそんな事実が成立しているかどうか、人間には認識ができないのだよ。




■アマネ

だから、何かを主張するなら、論拠を添えねばならない。

論拠のない主張はただのでっちあげで、どんなものでもでっちあげる事はできるから、採用などできないのだ。




■アマネ

だから国語の文章読解などでは、何故ならと云う接続詞が重要視される。

何故なら、この言葉は正に、今から論拠を示すぞと云う印の役割を持っているものだからだ。

この「何故なら」が添えられていない云い分は云い掛かりなので、基本的には無視して良い。

何故ならそれは、論拠のないでっちあげであるかもしれないから、採用しようがないからだ。




■ユウコ

ふむふむ、「何故なら」が大事なのね。




■アマネ

但し、注意してほしいが、理由らしきものが添えられていれば良いと云うものでもない。

それが確かに論拠になっていて、その結論が必然的に帰結される、と云う関係性が確認できなければ、それは論拠とは云えない。

今日は雨が降った、何故なら昨日空を飛んだからだ。

こんなものは、「何故なら」と書いてあっても論拠にはなっていない。




■アマネ

だから、ある主張が正当かどうかを判定するにも論理思考ができなければならない。

批判をする為には、論理の流れが解っていなくてはならない。

読解をするにも、そう云う理由でこの人はこう云う事を云っているのか、などを把握するにも、論理の流れが把握できなくてはならない。

また、自分の云い分を展開するにも論拠が必要なので、自論の論理の流れが把握出来てなくてはならない。




■アマネ

だから、読解も批判も作文も、入力も検討も出力も、論理が伴っていなくてはならない。

だから、論理力だか論理思考力だか論理の把握だかが必要なのだ。

そしてそれは主観的なものでなく、客観的なものなのだよ。

人間性の問題でなく、事実の問題なのだ。




■アマネ

ちなみに、「何故なら」と云うのは、先に結論が来ている場合に現れる語で、最初から、ああでこうで、依ってこうだ、と云う流れの場合は、「何故なら」と云う語は出てこないかもしれない。

だがその場合は、そのああでこうで、の部分が論拠になっている。

依って、その場合は、「よって」と云う言葉や「だから」「従って」に注目するのが良い訳だな。

飽く迄も、論拠を踏まえよと云っているのが本質なのであって、「何故なら」と云う単語があるかどうかが本質ではない事には注意してくれ。




■アマネ

本質的に述べるなら、どんな主張もその論拠が重要だ、と云う事だ。

それを多少具体的に云ったのが、「何故なら」だとか「だから」とか「依って」と云う語に注目せよ、何故ならその語らがそれらの意味合いを担っているからだ、と云う事だ。

論拠になっていない「何故なら」には意味がない。

論拠になってるかどうかの判定は、論理に従えば良い。

だから、論理と云うものの理解が必要なのだ。




■アマネ

そして言語と云うのは、そうした論理を言葉を用いて把握、処理するツールなのだ。

ものを考えるには言葉を用いる。

だから言葉には論理性が伴っている必要がある。

何故なら、そうでないと思考のツールとしては役に立たないからだ。




■アマネ

まあそんな訳で纏めると、国語力を鍛えたまえ。

そうすれば頭が良くなり、悩みも解決できるぞ。




■コウタロウ

はー、そうなんだ。




■シン

数学はやらなくて良いんですか?




■アマネ

数学もやった方が良いが、それよりも国語を優先すべきだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る