第13話 プラスチック・ガーデン
何度殴られただろうか。
錆びた鉄の匂いが鼻から離れず、口の中で溢れているであろう血の味を感じないのは舌を噛んでしまったからに違いない。
目の前の目の座った細身の男ははぁはぁと息切れしながら拳に巻いた布を交換しようとしている。
俺の顔面を殴りすぎ、返り血で真っ赤に染まっていた布がはらりと床に落ちる。
老人はずっとにこやかに殴られ、もう声も出なくなった俺を見つめながら笑みを絶やす事なく傍に立っている。
しばらくの休憩に入ったのか、細身の男に目配せすると、俺の近くに椅子を引っ張って来て座る、きぃぃ、と金属同士をひっかく音が部屋全体に響いた。
男は便所に行ってきます、とだけ言うと重そうな扉から出ていく、ちらりと扉の外が見えたが、廃墟のような、昼か夜かも分からない薄暗い空間が見えただけだった。
「私はねぇ、密殺協会で47位の地位にいるんだよぉ、日本全国の中で50人に入って、長年死なずにこうやって生きている事がすごい事なんだけどねぇ」
老人は床に落ちた血塗れの布を拾い上げると、スゥ…とわざとらしく音を立てながら鼻孔を広げる。
顔面の熱さが止まらない。目もまともに開かない俺へ邪悪な笑みを近づけて話す。
「正直なところ、地位なんてどうでもいいんだよ、私はね、ただ死のそばにいたい、それだけなんだ。」
ぐいっと俺のうなだれた頭に生える髪の毛を引っ張り上げ、強制的に前を向かせる。
「いいねぇ、死と向き合っているその表情、早く終わってほしいねぇ、もうイヤだよねぇ、でもねぇ、まだまだ続くんだ。」
「もう…ころせ…」
何とか喉から言葉をひりだす。
その言葉を聞くと老人はしばしキョトンとした表情を浮かべ、そして大笑いを始める。
風も入らない、窓もないこの部屋でキンキンと老人の甲高い笑い声だけが響いた。
「ほぉほぉほおおおおほほほほっ!ダメ、ダメ、ダメ!殺さないよぉ…懇願されて殺す事程つまらないものはない。たっぷりと死をねぇ、感じてほしいだけなんだよ。私は幼い頃からずぅぅっと死を感じたくて生きてきた。この仕事はねぇ、私にとって天職なのだよ、そしてそんな私と君は出会った、簡単には死ねないねぇ!!!」
一気にまくしたてると、ゆっくりと立ち上がって銀のトレーに乗っている見たこともない器具を手に取る。
「ある程度、私が軽く満足したらね、そしたらあの、3位をおびき寄せる」
まるで飼い猫を撫でるように器具を愛でながら老人は一人で話す。
「なんたって狼だ、鼻が利くだろうからねぇ」
老人は長めのコートを着ており、俺に向かい、まるで宝物を見せびらかすようにコートの内側を見せる。
えくぼが持っていたものとはまた違う形の短いナイフが何本も鈍く光っていた。
「初めて見たがあれをやるのには少々骨が折れる、せっかく3位にお目にかかる機会はないが…短く決めないとねぇ」
そう言うとぴたぴたと俺の腫れあがった頬に冷たいシルバーの機器を張り付ける。
「それが終わったらまた君の番だ、あの狼以上の声をわしに聞かせてほしいのだねぇ…」
そういうと掴んだ髪を離され、俺はまたうなだれる。
何度も殴られているうちに心が折れてしまったのだろうか、それとも折られた指の痛みが抵抗する力を奪っているのだろうか。
もしくは…えくぼが負ける?
このじいさんに。
あの綺麗で透明な白い肌に、見たことのない形のナイフが付きたてられ、薄い唇から真っ赤な血の泡が溢れる?
ふと脳裏に空き地で戦った時の映像が流れる。
なんだか笑えてきた。
ふ、ふふ
ふふふ
ふはははははははは!!!
唐突に笑い出す俺に老人は一瞬真顔になったが、またにやりと笑みを浮かべる。
「面白いかぁ?まだまだ夜宴は始まったばかりだからねぇ、狼狩りまでしばし君と遊んでもいいかもしれないねぇ」
俺はますますおかしくなり、目じりから涙と血がまじりあった筋を作ってしまうくらい笑う。
「ぼけてるのかじいさん、えくぼが…じいさんに殺されるとは面白すぎんだろ!!47位か何か知らないが、しばらくその地位にいてぼけて危機管理能力にカビでも生えたのかよ!!」
また目の前の老人はきょとんとする。
笑みをまた浮かべだしたが、今度は邪悪さはなくなり、怒りが露になる。
「わしを煽るくらい元気があってよろしいねぇ、でも指で10を数えられなくなれば笑いも出来なくなるねぇ」
老人が俺に近づく、その時フワァっと風が吹いた気がした。
窓のない部屋、血と熱気で満たされた暗く錆びた部屋をほんの少しの冷気が老人の横を、そして俺の頬を撫でた。
どこかで嗅いだような、そう、あの日、初めて女の子が俺の隣で寝た夜。
その時に嗅いだような花の香りがもう半分以上機能していない俺の鼻孔をくすぐった。
老人と俺の時が止まった後に今度はドンッという音と共に水音を従えた物体が床を転がる音がした。
びちゃびちゃと下品な音を立てながら転がるものを老人がちらりと目の端で捉える。
先ほどの細身の男の首から上だ。
細い目は半分ほど開いており、口はだらしなく開いたまま、ゴロゴロと転がりながら俺の足元に到着する、顔面を床に向いたままピタリと転がりを止めた。
しばらく男の頭部を俺と老人は黙ってみていた気がする。
その刹那、老人がコートをバッと広げる。
ドドッという音がしたと思うと、老人がまるで猫のように後方へ飛び跳ねた、俺の視界から消える。
音と同時に突然床から短いナイフが生える。
何本もクナイが放たれたようで、老人の動きが少しでも遅ければこの間の空き地の男のように体に金属を打ち立てられていただろう。
ギィィ…という音と共に俺の正面の扉が開く。
後光が差し影になっているが、その重苦しいマント。
口元のスカーフ。
そして―――天使の色をした艶やかな髪。
そこに、えくぼが立っていた。
老人の全身の残り少ない毛が一気に逆立ち、細くほぼ閉じているような目を思い切り丸く開きながら言う。
「来たねぇ…!思ったよりも早いねぇ!さすが狼、鼻が利くねぇ!!!」
キンキン、と更に甲高い声を上げながら老人は嬉しそうに、楽しそうに叫ぶ。
が
えくぼはただ悲しそうな目で俺を、俺だけを見ていた。
光が後ろから差し込み表情は見えなかった。
だがあの深い蒼い目が、今はやけに赤く輝いているような気がした。
潤んだ瞳で、俺をほんの一瞬、長く感じるような一瞬、見つめる。
そして老人へ視線をやる。
「…やったな」
なんだか久々にえくぼの声を聴いた気がする。
甘く丸い俺に話すような声ではない、深く響くような音で一言呟く。
ミチミチと音がした。
影になっていてよく見えないが、えくぼは手を強く握っているらしく、そこから音がするようだった。
「ほほぉっ!!もっともっとバラバラにして増やしておけばよかったかねぇ!?」
コートを身代わりにした老人は腰のあたりからバッと二本のナイフを出した。
両腕に携えるとえくぼに向かい一本を向け、もう一本は自身の胸辺りで構える。見たことのない独特な構えだ。
それに呼応するかのように、えくぼもマントの下へ手を伸ばす。
腰の辺りから俺が見たことのない、クナイの少し長い得物をズラッと抜き出す。
確かドキュメンタリー番組で見たことがある。
ククリナイフと言っただろうか。
まさにあの形のナイフを出すとえくぼの顔の前まで持ってくる。
ビリビリと音が出るほどの殺そうという気持ちが部屋を満たした。
お互いが、お互いを殺したくて疼いているのが素人の俺でもはっきりと分かるほどだった。
…そんなに長いもの、どこに隠してたんだよ。
こんな状況なのに、こんなにボロボロなのに突っ込まずにいられなかった。
「冥府で寝れると思うなよ―――」
えくぼがそう、呟いた。
こらっ!不殺って言ったでしょ!~最強暗殺者(アサシン)に一目ぼれされた俺の奮闘日誌~ 毘沙門河原ミシシッピ麗子 @0715daisukeabe
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