第12話 ソーン・ガーデン
亀裂のある安堵感。
ふと脳裏によぎる言葉。
平凡な人生、万人が歩む道を半歩だけ、いや、一歩処ではないな、もう5キロほどずれた地点にいるのかもしれない。
そんな道をずれた非日常の中の不安定な安心感がなんだか今、俺の心の中を包み込んでいる。
目の前でじゃれ合うえくぼと花鈴を見ているとそう思う。
本当は心のどこかで焦がれて、求めて、渇望していたのかもしれない。
刺激的な人生とやらを。
ふとえくぼにひとしきり頬ずりし終わった後の花鈴が俺を見て言う。
「何を笑っているんだ、気持ち悪い」
「…花鈴、そんな事言っちゃ、め」
あはは、つい声を出して笑ってしまった。
何だろう、えくぼと出会い、追われる身となった今、笑顔を浮かべている場合じゃない事は分かっている。
だがどうしても笑ってしまうんだ、この新鮮な時間に、これからの未来に。
「なんでもないって。ちょっとトイレ。」
そういうとまた後ろから花鈴がえくぼにちょっかいを出す声が聞こえる。
そう、もう走り出しているのだ。
神様からふいにプレゼントされた鋭利で、とてもキュートな俺の同居人(殺し屋)との日々は。
金木犀の香りのするお洒落なカフェはトイレまでお洒落に作られている。
広く作られた男子トイレはウッド調の木材が壁に貼られており、トイレという空間にいる事を忘れさせてくれる。
ふとトイレのドアが開き、品の良い老人がニコニコしながら鏡越しに俺と目が合った。
「とても雰囲気の良いカフェですなぁ、初めて来たのですが気に入りましたよ」
「えぇ、本当に。俺の連れも楽しそ」
ゴギ、という音と衝撃が用を足し終わりトイレを出る準備が出来た俺の後頭部に襲い掛かった。
感じた事のない感覚が頭の外側、そして内部へ一気に波のように広がり、そこで意識が途絶えた。
本当に良かったのは用を足している途中じゃなかったって事、その一点しかないな。
――――――
ゆっくりと瞼が自然と開く。
ぼんやりとしたまま少しずつ瞼が開いていく。
とは言っても覚醒はしていないのが自分でも分かる。
経験はないが酷く強い酒を延々と飲み続けた次の日はこんな感じなんだろう。
片目が開いていない事に気づいたのはしばらく経ってからの事だった。
意識が少しずつはっきりしていく、それと同時に驚く程の頭痛が一気に俺の脳内に広がり、そして脂汗が全身に浮かぶのを感じた。
え、何?
人はパニックになると漫画のような感想が出てくる、あながち間違っていない表現なのだと気づかされた。
どういう事だ?
どこだ?
部屋、にいる事は確かだ。
だが薄暗く、裸電球が1つ、ゆらゆらと揺れている以外は何も情報がない。
動こうとした。
だがそれを括りつけられた足と腕が許してはくれなかった。
椅子に両手、両足を革製のベルトでガッチリと締め付けられている。
ご丁寧に両指はしっかりと特殊な器具のようなもので一本ずつ開かれており、微動だにする事が出来なくなっていた。
一体何がどうなってる?
さっきカフェで、トイレに入って、出ようとした…
次々に記憶を海馬から拾い集め、そして軌跡をたどる。
そうだ、えくぼと花鈴は…
ここは…
そこでようやく周りを見渡す。
片目が開いていないのは頭から血がしたたり落ちているからなのだとその時はっきりわかった。
徐々に思考が現実に追いついてくると、得も言えぬ不安が心をぎゅぅっと締め付ける。
ジンジンと痛みを引きずる脳が囁いた。
本当に、ヤバい状況にいる。
「おや、お気づきかな?おはよう」
声がする、そう、気を失う直前に聞いた声だ。
先ほどの老人が暗闇の奥からゆっくりと顔だけ出している。
鏡越しでしか見ていなかったが立派なヒゲを蓄えた老人だ。
長く、両端がくるっと上がったヒゲ、これも漫画や歴史の教科書でしか見た事のない、確かカイゼル髭と言っただろうか。
そのヒゲの老人がにっこりと笑顔を携えたまま歩いてこちらに向かってくる。
裸電球しかないせいだろう、老人の顔に深い影をあちこちに残し、不気味な笑みを作っている。
「あぁ、ゆっくりで大丈夫だよ、すまないねぇ、薬品でも良かったんだが時間がなかったものでね、あんな狼の傍で仕事をしたらすぐに気づかれてしまう。」
老人がニコニコと笑顔で俺に話し続ける、色々と質問は喉まで出かかっていたが量が多すぎてつかえたまま、口からは乾いた空気しか出なかった。
そんな俺に構わず老人が話し続ける。
「平穏は毒なんだよ、気付かずに人を麻痺させる、気付かないまま心身を侵食し、怠惰な人間を構築するんだ。」
「痛みはそれを中和してくれる。これから君の中に溜まった毒を、私が綺麗に抜いてあげるからねぇ」
カラカラ…と奥からまた音がする。
金属の嫌な音と共に白い布が掛けられた銀色のカートが運ばれてきた。
この老人以外にも人間がいるのだろう。
細身でやけに目が座った人間がカートを老人の横に置くと、老人は嬉しそうにカートの淵を指で撫でる。
「これから24時間かけて君の全身、それこそ隅々だ、その怠惰という毒を覚えた体に痛みを与えて毒抜きをしてあげよう」
カートの布を一気に引く老人、カートの上には見た事のない、だが明らかに医療でしか使われないであろう様々な『器具』が乗っていた。
「痛みを与えている間、君が知っている事は全て教えてもらうからねぇ、あぁ、気にしないでくれ。君が黙秘しようが、全てを吐こうが、関係ないんだ、関係ないんだよ。苦痛こそが安寧という全身に回った麻痺を解いてくるのだからねぇ」
老人の話を聞きながら、俺はまだどこか安全な場所にいると思い込んでいた。
まだ他人事だと思っていた、だがその考えが間違いだったとようやく気付かされた。
えくぼは、こんな深く暗い世界でただ一人、生きていたのだ。
そしてもう、僕もその世界の一員だという事を。
「や、やめ…」
止めて、というのが精いっぱいだった。
これほどの恐怖心を味わった事がない俺は、完全に怯えた子猫のようになっていた。
こんな風に言われて止めてくれるとは思わないのだが、止めてとしか言いようがない。
老人はうんうん、と笑顔を少しも崩さない。
「まずは、挨拶をしないとねぇ」
そういうと拘束された手の平の少し下にある、小さなクランクのようなものに手を掛け、それをゆっくり回し始めた。
どんな仕組みかは知らないし、考えたくもないが、クランクを回すのと連動して、左手の中指が自分の意思とは関係なく、ゆっくりと上がっていく。
やめろ、やめて、お願いします、やめてください、なんでもします。
脳の中ではそう叫んでいるのだが、声にならない。
こひゅ、こひゅ、と短い息が出るだけだ。
そうしているうちに、短い小枝を何本か集めて真ん中からへし折った時のような音が左側から聞こえる。
「がぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁ!?」」
さっきまであんなに声を出そうとしても出なかった喉の底から叫び声が出た。
「ほぉぉぉほおほおほおほお!!!!それが聞きたいんだよぉ!どう?自分は大丈夫だと思っていただろう?あの小娘に助けてもらえると思っていただろう?ざあんねえんだねぇええ!!痛いねぇぇぇ!!!」
俺の叫び声と共に老人が大喜び、いや、もはや狂乱と言うような姿で喜ぶ。
「夜は、まだこれからだからねぇ」
俺の目の前で老人がニィ、と出会ってから一番の笑顔を見せる。
夜はこれから、という言葉を聞いて俺は失神しそうになる。
痛みとともにえくぼと花鈴のじゃれあっている姿が浮かぶ、痛覚で自然と痛みで涙が出て、情けない声、鼻水と涎でぐしょぐしょになりながらも、そんな状況に相反してこんな風になるほんの少し前の何気ない日常を思い出していた。
そうして俺の恐怖の一夜の幕が開けた。
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