第10話 聞け、醜悪なる狼の咆哮を
風見浜大学
俺、多々良暁の通う大学だ。
5800人程の学生が通うこのキャンパス。
俺はここの自然人類学部という学部に通っている。
単位をしっかり取りつつ、アルバイトや、たまの飲み会に顔を出して、卒業して、どこかの企業に拾ってもらって…
全てが蜃気楼のごとく消え去った。
哀しみがあるわけではない、それに平穏を楽しみつつも心のどこかで刺激やちょっとだけ横道に反れた経験が欲しかったのかもしれない。
でも…
でも……
反れ過ぎだよぉ。
ねぇ、皆見てるよ。
すごい注目。
だってそれはそうだろう。
俺でもそうする。
こんな何の変哲もないキャンパスの中に
冴えない大学生一人と
口元にスカーフを巻いた金髪ボブの小さくて可愛らしい女の子が一緒になって歩いてたらさぁ!
変だよねぇ!
横道に反れた経験…なんて言ってる場合じゃないよねぇ!
ほんの少しだけ時を戻そう。
それは数時間前、朝の事だ。
「はぁ、結局昨日もほとんど寝れなかった…そりゃそうだよな、アドレナリン出まくり、初めてあんなもんみたし」
「ん…んん…」
「…この子が、本当に戦ってたんだ…」
俺の隣で寝るえくぼを眺めながら、朝日の差し込む部屋の中でふと考える。
あの後男はどうなったのだろう?
またあの空き地に行く気持ちにもならないし、第一あそこはこの家からそこまで離れていない、もしかしたら…
組織、とかいう団体に俺の家がもう見つかっているんじゃ?
いずれ…えくぼと出かけて帰ってきて、誰かが部屋にいて…
いや、もしくは特殊部隊のような連中が窓から割って入ってきて…
いや、えくぼと別行動している俺の後ろから知らない男が刃物で…
考えると体の奥底から震えが来た。
もちろん武者震いではない、ただの恐怖から来る震えだ。
思わず寝ているえくぼに抱き着きそうになる。
いや、止めておこう、またクナイを喉元に付きつけられるのがオチだ。
俺はふやけた脳を頭の中に携えたまま、また朝飯を作る事にした。
「んにゃ…んむ…」
むくり、と起きるえくぼを眺めながらコーヒーを飲む。
「おはよう、えくぼ」
「…おはよ」
そういう彼女の金色に艶めく髪はあちこちに方向を定めずぐしゃぐしゃになったままだ。
そういえば…俺の家で暮らすって言っても、女っ気が全くない人生だった、必要なものもあるだろう。
「えくぼさ、思ったんだけど、その、女の子だから色々いるだろ?化粧水とかもないし、それにブラシとか…なんか、よくわからないけど俺の家、何もないからさ」
「…特に問題は、ない」
「えぇ…でも年頃の女の子なんだから、何かこう…そう、下着とか…」
「…それは、必要」
「でしょ?まぁ…俺が代わりに買いに行くのも変だし」
「…買ってきて」
「はぁ!?無理だろ!変質者だよ、俺が下着なんて買いに行ったら。捕まっちゃうよ?」
「でも、私は…分からない」
「分からないって…」
「いつも、支給品を使ってたから」
「そ、そうなの…支給されてたんだ」
頷き、自分の体を見つめるえくぼ。
うーん、えくぼは確かに美少女だが、こう、ガッツリと出るところが出ているタイプではない、むしろ幼さを残しつつも成長途中という感じの体つきだ。
俺のスカウターではさすがにどれくらいのサイズか、なんて分からない。
…これだけはしたくなかったが…えぇい、もう昔の日常には戻れないんだからな。
だったら先に進んでやろう。
どうしても頼りたくなかった人間が一人いる。
――と言うわけで、大学にえくぼを連れてきたわけだが…
もう完全に注目の的になっている。
えくぼが所属していた組織じゃなくても一発で分かってしまうんじゃないか…?
居場所を露呈しているのとほぼ同義だろう。
だが俺の心配をよそにえくぼはキラキラとした目で辺りを見わたしていた。
「ここが…あかつきの…」
「そうだよ、大学。今日は授業は大丈夫だから、ちょっとある人に会おう」
足に鉛でも付いているかのように重い、そして気持ちも一歩進む毎に暗くなっていく。
会いたくねぇ、俺の中の本能がそう叫んでいる。
階段を登り、窓から外の風景を眺め、学食をえくぼに案内し、出来るだけ遠回りをしながら…
俺にとってはそう、とてつもなく重い、鉛のような扉に感じる。
まるで空間が歪んでいるかのような…その教室の前には「自然人類学研究室」の文字。
俺はえくぼの方をチラッと見る。
不思議そうな、どこに連れて行くのか疑問を持っているような、そんな目で俺を見つめている。
…頑張るからな、えくぼ。
心の中でそう呟くと意を決してドアを開ける。
「不躾だねぇ、ノックという作法を知らないのかい」
…厭味ったらしい口調だ、俺はわざとらしく開け放ったドアの縁をコンコン、と叩いた。
「花鈴ちゃ、じゃなくて、班目教授…ちょっと相談があるんですが…」
「ふふ、お前が相談?私に?単位の相談以外なら受けてやろうじゃないか」
ギィ、と古めかしい椅子をこちらへ向き直すと、部屋の主であり、風見浜大学自然人類学部の教授、斑目花鈴が口角を上げながら話しかけてきた。
…俺の母の妹であり、そして俺の通う学部の教授、班目花鈴(まだらめかりん)だ。
昔から名前で呼んでいる癖もあり、どうしても班目教授、というのに違和感がある。
年齢は37歳だっただろうか、年齢よりも確かに若く見え、何より妖艶な雰囲気というのがあるらしい、俺からすると妖艶というよりも妖怪めいた部分を感じるが。
それに何よりその豊満な体に20代前半の生徒たちは心奪われるようだ。
俺と花鈴の関係を知った人間の第一声は決まっている。
「じゃあお風呂一緒に入った事ある?」だ。
入った事はあるが、そんな薄い本のような展開は俺には待っているはずもなかった。
彼女は…生粋の、本当の、科学者なのだから。
俺は小さい頃からこの女性に散々な目にあわされてきた。
「幼少期の人間は非常に興味深いサンプルだ、色々実験させてもらうよ」
「じっけんってなぁに?」
「人類の歩みを更に進める為の挑戦だ」
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
「ふむ…ここまでは耐えきれるか、これは?」
「ふむぎぎぎぎぎぎぎぎ」
「やはり人間って…面白い」
親戚だからと大義名分を振りかざし俺に悪逆の限りを尽くしたこの女…
俺からすると教授であり、叔母である。
だがしかし、トラウマ量産機という悪魔の面も持っている。
何度実験と称して花鈴の戯れに付き合わされた事か…
幼少期の頃は一度どれだけの重さに耐えきれるかという実験と称し思い切りのしかかられた事がある。
今思い返せば性癖を捻じ曲げられそうなこの行為、ガイドライン違反を優に突破しているだろう、本当に死ななくて良かった…
でも今は…このバフォメットに頼る以外はないのだ。
何故なら!!俺には!!女友達というものがいないから!!!!
「ええと、忙しい所すみません。実は…ええと、何ていうか…ちょっと女の子の事で…そ、相談したく…」
一瞬班目教授は目を丸くし、次の瞬間に大きなデスクを乗り越える程の勢いでぐっと俺に近づいてきた。
教授とは思えない程開いた胸元、ずっしりと重量級な規格外のバスト…デスクを乗り越えようと前かがみになっているのだから当然いけない箇所が露わになってしまっている。
他の生徒だったらどうするんだ…というか狙ってやっていないのだからこの女の恐ろしい所でもある。
「お前が!?女の子!?私に!?ははははは!これは愉快だ、昼行燈のお前が異性の相談を…しかも…くく…私に…」
「わ、笑うなって!マジで困ってるんだ、だって…」
「…?」
「今ここにいるし…」
俺の体の影からひょっこりと顔を出すえくぼ。
花鈴の時が一瞬止まる。
えくぼはただじっと花鈴を見つめている…が、昨日のような、あの刺客に向けていたような殺気は感じられなかった。
むしろ照れているというか、恥ずかしがっているようなそぶりでチラ、と上目遣いで花鈴を見つめていた。
と同時にデスクをぬるっとまるで蛇のように乗り越えながらえくぼを凝視し、近づく花鈴。
しばし無言の時間が続く。
俺はこの子の事をなんと説明しようかと脳内をフル回転させ言葉を紡ごうとしていると
「…可愛い…」
と一言呟くと物凄い速度でえくぼを抱きしめた。
えくぼは驚いた様子だったが声を上げる間もなく抱きかかえられる、と同時に花鈴の大きな二つの豊満な胸の谷間に顔を押し付けられていた。
「一体どうしたというのだ?お前のような人類の進化に出遅れてしまった男がこんなに愛らしく可愛さの究極進化系の先にいるような女の子を捕まえられるはずがない」
…だから嫌だったんだ。
よくもまぁこんな風に短時間で人を傷つける言葉を並べられると感心しながら
「…まぁ、紆余曲折あってな、それでその子に必要なものを色々見繕ってほしいなと思って…」
「…ふぅん、姉さんは知っているのか?」
「…いや、まだ言ってない…って言うか知り合ったばかりだからな」
「まぁいい、お前がどんな道筋でこの子にたどり着いたのかは知らないが、それでもこんなに可愛らしいお嬢さんを目の前にしてしまえば全てどうでもいい事で片づけられる。」
花鈴は女性としてはかなり身長が高い方だ。
ひょい、とえくぼを子供のように抱え上げながら問いかける。
「お嬢さん、お名前は?」
「…えくぼ」
まるで人形のように無抵抗で抱え上げられるえくぼ。
にぃ、と花鈴は口角を上げながら俺に振り向きこう言った。
「今日は気分がいい、早速買い物と洒落込もうじゃないか。」
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