第8話 殺しちゃ、めっ
ぶつっ
大男が自身の分厚い手を貫通する鈍く光るクナイを抜き取る。
肉が盛り上がり、あっという間にどす黒い血が手の平からあふれ出した。
うっ、と俺はその光景を見ながら酸っぱいモノが込み上げてくるのを我慢した。
男は手の中にある短い血まみれのクナイをじっと見つめると、憎々しく地面へと投げ、突き立てる。
顔色一つ変えずにえくぼへと視線を映す男。
一般人では考えられない程太く血管だらけの腕がググ、と盛り上がった。
ブシュッ!と鋭い音と共に血が噴き出す。
どうしてだろう、苦痛の表情一つ見せない。
普通であれば、いや、俺であれば女性のような短い悲鳴をあげ、涙を流し、転げまわっているだろう。
男は首をゴキッと鳴らすと、また深く構え出すだけだった。
ただ額、首筋、至る所に血管が浮き上がり、明らかな怒りと憎悪を感じた。
気が付くとずっと鳥肌が立ちっぱなしになっている。
あんな生物は見た事がない、映画やドラマ、マンガは全て作りものなんだと初めて知った。
それほどの気迫…いや、殺意だった。
明確な殺意を持ってえくぼを殺めようとしている。
えくぼは、あんなに素早く動いたにも関わらずに息を切らす事なくただじっと冷たい目で、見た事のない程冷酷な目で男を見つめていた。
青い殺意、えくぼを見た瞬間に脳裏によぎった言葉だ。
可愛いと思っていた女の子が、こんなに冷酷な視線を人間に送るなんて。
自分の中で発汗できる部分全てから嫌な脂汗が止めどなく溢れている事すら気づけなかった。
「くだらん、こんな子供騙しの技で数々の暗殺者が沈んだと言うのか」
そういうと無事なもう片方の手に鉄球の鞭を持ち変える。
先ほどよりも筋肉の盛り上がりを感じる、ギュギュギュ、と上腕二頭筋の辺りが引き締まる音が聞こえてきそうだ。
鞭の先端は音速を越えると聞いた事がある。
バイトのない暇な夜、寝られずに動画を見続けていると関連で鞭使いの女性の動画が流れてきた事を思い出した。
鞭を振り回し、ろうそくの火を消したり、リンゴを吹き飛ばしたりする動画。
通常の鞭であれほどの破壊力なのだ。
この鉄球の鞭であれば…リンゴどころか設置している台も跡形なく吹き飛び、地面すら抉るのだろう。
それに加えてこの鉄球の質量が加われば…鞭を振るう先端に音速以上の破壊力が宿るのは素人の俺でも安易に想像できた。
「…死ね…っ!!!」
男が鞭を大きく振り回そうとした瞬間…
またあの音が聞こえる。
どっ、どっ、と質量あるものに刃を突き立てるいつまでも慣れないあの音。
しかも今度は連続で。
ぐっ、と男のくぐもった声が聞こえた。
見るといつの間にか男の左胸筋近くに深々とクナイが二本刺さっている。
全く見えなかった。
モーションもなく、えくぼはクナイを放ったと言うのか?
男がふと視線を自身に突き刺さるクナイへ落とす。
その、ほんの一瞬、しまったと言った表情を浮かべ、えくぼが「元居た」場所へ視線を戻すが…
そこにはえくぼはいなかった。
代わりにボッ!ボッ!と短く、何かを抉るような音と共に二度、三度、小さな土煙が上がる。
もう俺の目では到底追う事が出来なかった。
恐らく――えくぼ。
高速で移動しながら、立ち幅跳びの原理でジャンプしつつ男へ近づいていたのだった。
足元を蹴る瞬間の音が俺の耳に届いていたのだった。
男に焦りが見え、それと同時に腕を振りかざす、が遅い。
それに加え、胸筋に深く付けられた傷の影響か先ほどまでの勢いもなく鞭を振り上げる事もままならなかったようだ。
俺の焦点が合った時、男の真下辺りにえくぼがいた。
深く屈んだ状態で。
そしてまたノーモーションで音がする。
ヂュドッ!!ドドドッ!
今度は男もたまらずに「ガッ…」と声を漏らす。
男の脳に痛覚が届く前に、深く、あの太く常人の何倍もあるような腕に三本、綺麗に整列しながら刺さっている。
そして腕の反対側から鋭い刃の先端が皮膚を切り裂き、はみ出ていた。
どれほどの発射速度、筋力をもってすればこんなに太く逞しい腕を貫通出来るのだろうか。
あんな細く糸のようなえくぼの腕からは考えられなかった事が今目の前で実現されている。
だがそれだけでは終わらなかった。
ボッ!とまた土煙が散る。
だが今度は男の攻撃だった。
えくぼを蹴り上げようと思い切り足を振り上げる。
太ももは更に腕の倍の太さはあるだろう。
あんな足で、しかもあんな力で蹴り上げられたら…
内臓は圧迫、簡単に潰されてしまう。
えくぼは一撃で死んでしまうだろう。
そんな事、そんな光景、絶対に見たくない。
だがそうはならなかった。
えくぼはまた土煙の中、いつの間にか男の右後ろへ移動していた。
移動していたと同時に、ほぼ同時に――
男が膝をつく、一体何が起こったと言うのだ?
またひらりと枯れ木から零れる枯れ葉のようにえくぼは大きくジャンプし、男から距離を取りつつ着地する。
男が憎々しそうに後ろを振り向くが、憎悪と同時に困惑も見て取れる。
そうだろう、俺も思った。
えくぼの腹部にめり込むはずだ、あの強い蹴りが。
大の男でも肋骨は簡単に折れ、胃の内容物をまき散らしながらうずくまり、無事では済まないだろう。
だがあの激しい蹴りがえくぼに当たらなかった理由はすぐに分かった。
大男が一番理解していただろう。
左足のアキレス腱の辺りがぱっくりと割れていたのだ。
つまりえくぼは腕に三本のクナイをお見舞いするのと同時に、もう一本を左アキレス腱を断絶するのに使用していたのだ。
えくぼの目論見は見事成功、蹴りも当然当たらないだろう、軸足の腱が切れているのだから。
ふーっ、ふーっ、と男の額、首筋にどっと汗が噴き出してきた。
痛みが今になって脳内と全身をかけまくっているのか。
もしくはこれから起こる事を、結末を想像したからこそ噴き出した汗なのか。
「がぁっ!」
短く男が声をあげる、それと同時に残った右足でえくぼの膝を狙う。
当たれば細いえくぼの足が逆の方向へひしゃげる程のスピードと強さで。
当たればだが。
しかし膝をついた状態ではいくら虚を突いたとは言え軽くえくぼに躱されてしまう。
そして痛みの応酬がまた男を襲った。
男の右足に三本のクナイが生える。
まるで野生獣のような唸り声をあげると男は急に大人しくなる。
「…全部腱を狙った。もう動かせない。」
そういうと男にじりじりと近づく。
男はとっくに鉄球の鞭の重さに耐えきれなくなって武器を手放していた。
だらんと手を伸ばしたまま、左手は上げられない様だった。
右手はかろうじて、という所だがいかんせん手の平のど真ん中に空いた穴がある。
全力を出したところでまた身を躱されるのがオチだろう。
ハァハァと言う荒い息遣い、男はただえくぼを睨みつけていた。
「はは…これが日本三位の実力か、クソが、聖痕なんて大層な名前を付けやがって」
男が口汚く罵る。
「手足の自由を奪って嬲り殺すんだろうが、趣味の悪りぃ…この変質者が」
「…あかつきの前で汚い事、言わないで」
ジャラ、と長いマントの内側から一本のクナイを取り出し、えくぼは表情一つ変えずにゆっくりと振りかざす。
「ダメ!!!!!!!!」
ピン、と空気が張り詰める。
命を奪おうとしている者、奪われようとしている者
両方同時に俺を見た。
「こ、殺しちゃ、ダメ」
膝が震え、立っているのがやっとの俺が唯一絞り出せた声。
キョトンとしながらもえくぼはこちらを見ている。
だがその刹那――
ゴッ!!!
短い音がして、男の全身から力が抜け、地面に倒れた。
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