第4話 チョコレート・ビターナイツ

はっきり言おう。


女性経験がない。


未経験である。


いや、いい機会だ、胸を張って全世界に向けここに声高らかに宣言させて頂こう。




俺は女性経験がない。





そんな俺の顔、数センチ先に見た事もないほど長い睫毛、薄く淡い色の唇。


俺の眼前に完璧と言っていいほど美しい造形の顔がある。


どうしてこうなったんだ?


数時間前まで話を巻き戻そう。



「あぁ!これからよろしくな、えくぼ!」


俺はえくぼに抱きしめられたまま同居に快くOKした。

だが次の瞬間にぞっとする程後悔した。

俺は『平穏』を完全に捨て去ってしまったのだ。

あれほど俺の中の本能が叫んでいたのにも関わらずだ。

いやぁ、女の子の体ってすっごい柔らかいんですね。(20代男性)


あんなに恐ろしい体験をし、殴られすらしたのにも関わらず目の前の女の子の柔らかさに負けてしまった。

いや、何より…えくぼの愛らしさというか、純粋さに心を掴まれてしまったというのが正しいかもしれない。


たった一つの行動。

当たり前の行動でここまでしてくれるのかという気持ちが大きかったのだ。

当たり前じゃないか、怪我をしている人にハンカチを差し出す、だがその行為が彼女からしたら初めての行為だったのだ。

だとしたら…これまでの彼女はどんな人生を歩んできたというのだ。

ハンカチを一つ差し出されただけで、見ず知らずの男に抱き着く程喜ぶ…


待てよ、もしかして。


これが噂の美人局というやつでは?


あの大男たちも全てが演者で、俺から大金をせしめる為に家まで来て…


いやいや、あの血しぶき、見た事はないが本物に違いない。


ふと暗闇に慣れた目線を下に下げる。



あ、これはいけませんね。



完全にいけませんよ。



小ぶりで、だが確かにしっかりとある。



本物は見た事がない、だが俺には分かる。



これは「本物」であると。



ゴ、ク、リ…


喉が鳴らない様にゆっくりと何度かに分けて唾を飲み込んだ。

そうだよ、何やってるんだ暁。

どうせお前の平穏は壊れ、崩れ去り、これから決して良くはならないであろう毎日が待っているんだ。

今のうちに触れ、バチは当たらない、それに殴られただろう?

人の人生は、悪い事があれば良い事もある、今は良い事のターンだ。

触れ。




触れぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!




「ん…んん………」




「すっぅぅぅぅぅーーーーぐぅぅぅぅぅーーーーーー」




危ない、というよりも俺は何をしているんだ…

寝る直前。


「あかつき、鼻…」

「あ、鼻…いてて、そう言えば殴られたんだった、大丈夫だよ、殴られるのなんて高校生の時以来だけど」

「ん、待って」


そういうとキョロキョロと部屋を見渡し、台所を見つけるとタオルを濡らし、俺の元まで持ってくる。


「あ、大丈夫…」

「だめ、冷やしておく」


あ…また顔が近い、それになんだろう、このふわっとした花のような香り、頭がよりクラクラとする。


「…ごめん、なさい」


突然えくぼが謝る。


「な、何、謝らなくてもえくぼ…ちゃんのせいじゃないよ」

「えくぼ」

「え?」

「えくぼで、いいよ」


あぁ、なんだこのやり取り、俺が寝る直前にする稚拙な妄想以上の会話じゃないか、って言うか恋人ルート確約時に発生する会話じゃないか。

こんな事がリアルであるのか。

徳だ、徳に違いない、これまで平坦な毎日を過ごしてきた俺が溜めてきた徳が今解放されているのだろう。


思わずニヤニヤしてしまう、えくぼが不思議そうに首を傾げる


「あ、ごめ、でも本当大丈夫だから!そ、それじゃ今日は大変だったし、そろそろ寝ようか…」

「ん、睡眠、大事」


そういうと俺はソファに掛け布団を持っていく。


「じゃあえくぼ…はベッドに寝て、俺はソファで寝るから」


そういうとソファに横になり足を延ばす、同時にどっと全身に疲労感がのしかかってくる。

無理もない、何事もなく、争いに巻き込まれないで過ごしてきた男が突然大男に殴られ、得体のしれない見た事もない武器を使う女の子に助けられ、気絶までしたんだ。

そうだ、バイトだ。

完全に忘れていた、でも…それどころじゃないか。

今日の所は当欠…しかも無断当欠…ん…まぁまぁやばいけど、仕方ない…

明日言い訳を考えるとして…今日の所は寝る…


「………」

「うわぁぁぁっ!なになに!?」


目の前にえくぼの顔があった。

驚きながら飛び起きる。

えくぼは相変わらず口元のスカーフを外さずに俺の顔を至近距離で見ていたのだ。


「ん、ただ、見てた」

「距離感よ距離感、すごい近くてびっくりしちゃった」


にしし、と少しだけ笑うえくぼ。

なんだ、女の子らしい所があるじゃないか、少し安心した後にえくぼが言う。


「一緒に、寝る」




……………そうしてこの状況に至るというわけだ。

本当に、経験のない成人男性には体にポイズンな状況だ。

はぁ…と少しため息を漏らしながらふと部屋の隅を見る。

彼女の着用していたマントのような大き目なアウター、ずっしりと重そうに鎮座している。

そういえば…チラ、と視線をえくぼの体に送る。

ここ最近は気温が上がってきている為タオルケットのみをお腹にかけ横になっているえくぼ、疲れていたのかすぅすぅと寝息を立てている…


小柄な体にシンプルな黒のキャミソールに短パン、今流行っているのか太ももの辺りに革のベルト、そしてそこに刺さる鈍く光っている短剣。

柄の部分は女の子らしく十字が模られている。

どこを切りってもその辺りにいるような普通のお


待とう、待とうよ。


一部分のみ殺し屋成分が強いんだよ。



心の中で突っ込みながらも俺自身に睡魔が襲い掛かってくる。



まぁ…可愛いから…ありでしょ…


そう思った刹那、俺の瞼は深く閉じ、意識を彼方へと追いやった。






じんわりと汗がにじむ、おそらく日が差し込みじりじりと部屋の中の気温が上がっているのだろう。

ふと寝にくさに目が覚める。

徐々に意識が覚醒するのと体がまだ睡眠を欲している、その拮抗する狭間にいた。

あぁ、朝…起きなきゃ、大学、今日何時から行きゃいいんだ…?

まだぼんやりとする脳内、そして視界が一瞬にして覚醒状態へ持っていかれる。


「え、く…ぼ…」


部屋中が真っ赤に染まっている。

生臭い鉄の香り、カーテンに飛び散った赤黒い液体、粘着質なグチャグチャとした音。

ベッドからその音の方向を見る。

えくぼだ、いや、えくぼなのか?

昨日の大男数人がえくぼらしき少女を囲んでいる姿が見える。

荒い息遣い、そして下卑た笑みを浮かべながら何度も少女の体に鋭い刃を突き立てている。

凌辱の限りを尽くされた、最低の宴の後の様だった。

ドっ、ドっと音がするたびに小刻みに少女の体が揺れる。

口元が動く、ごぼ、とこちらも黒い泡を口角から吹き出しながら

あ、か、つ、き

と俺を呼んでいた。


あ、あぁ…と声にならない声を絞り出そうとした時、ふと大男たちが振り返った。


喉に、首に、目に


えくぼが持っていた短く鋭いナイフのようなものが突き刺さっている。


おかえし、に、きたよぉ


そう言うと大男たちが一斉に笑い出す。




「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」



自分の叫び声で目が覚めた。


汗びっしょりで、張り付く衣類の感触が気持ち悪い。


ドッドッド、と鼓動が四気筒バイクのように動いたまま元に戻らない。


ふと横を見ると心配そうに少女が青い目で俺を見ていた。


「あかつき…」


えくぼだ。

飛び起きて体中を触る、冷たい、だが確かに生きている人間だ、どこにもナイフを突き立てられ、傷つけられた様子はない。


「あっ…怪我、刺されて…昨日の男たち…」


言い終わる前に、昨日のようにぎゅっと俺の頭を胸元まで持っていく。

そして強く抱擁した。


「大丈夫、もう、大丈夫、私がいるよ」


昨日のような下心は湧いてこない、そして少しずつ心臓の鼓動が収まるのを自分で感じた。

大丈夫、を繰り返すえくぼの声に安心した、緊張の糸が切れるとはこのことだろう、自然と涙が溢れ出ていた。

知らない間に震えていたのだろう、まだ小刻みに震える手は、意識とは裏腹にえくぼにしがみつく様に背中に回っていた。





こうして俺とえくぼの初めての夜は終わった。





流れる涙はちょっとだけ、ほろ苦かった。



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