第2話
「
俺はそうやって呼びかけながら襖を十センチほど引いた。
「!」
その瞬間、廊下に凄まじい臭いとともに煙が流れ出してきた。まずい、火事かと、慌てて襖を一気に全部開け放つ。
そして、俺は編集者の身分で世界で初めて葦之原先生の部屋へと飛び込んだ。
するとどうだ。火の手なんかどこにも上がってはいなかった。
人の肩口の高さまでうず高く積み上げられた何百冊もの本が林立し、その奥に座卓を構えたいかにも『最後の文豪』らしい部屋で煙を上げていたのは――
「なんだこれ、蚊取り線香……?」
そう、蚊取り線香だった。俺が浴びたのは、部屋のあちこちに置かれたそれらが各々上げる煙だったのだ。よくよく嗅いでみれば、この臭いは確かに蚊取り線香のものだ。 なぜ、こんなにも大量の蚊取り線香を焚いているのだろうか。とにかく、部屋を閉め切っていては危ないから、窓も開けて換気したほうがいいだろう。
俺は本の林を抜け、窓にたどり着いた。窓は明かり採りのための滑り出し窓がひとつだけで、おまけにテープでぐるりと目張りがされている。どうしてこんな真似を、と思いながら必死にテープを剥がし、窓を開け放つ。よし、これでいいだろうと思ったその時、
「な、な、何をしているんだ貴様は!」
背後から聞こえた叫び声に振り返ると、着物姿の老人が部屋の入口でわなわなと震えていた。
「窓を閉めろ! すぐにだ!」
葦之原先生はそう怒鳴りながらぱあん、と音がするほど勢いよく襖を閉めた。
そして、驚くほどの身のこなしで本の林を一気に抜けてくると、窓を閉め終えた俺の胸ぐらを見た目からは想像もつかないほどの強い力で掴んだ。
「貴様、なんてことをしてくれた!」
「ですが、閉め切った場所でこんなに蚊取り線香を焚いていたのでは……」
俺は殴りかからんばかりの勢いにすっかり気圧されて、思わず上体を少しのけぞらせた。すると、近くにあった本にぶつかって積み上げられた本の柱がひとつ崩れた。
その瞬間。 積み上げられた本のページの間から、真っ黒な煙が一斉に噴き出した。同時に、耳を塞ぎたくなるような蚊の羽音そっくりの音が部屋のあちこちから聞こえだした。
そうしている間にも黒い煙は本からどんどん出てきて、意志を持っているかのように部屋の中を右左に漂っている。 音と相まって、まるで本から蚊の大群が現れたかのようだった。
「ああ、駄目だお前たち!」
葦之原先生はそれを見ると血相を変えた。俺を掴んでいた手をぱっと離し、煙を追ってどたどたと部屋を駆け回った。まるで虫を追いかける子供のように。
「儂の文字が、文章が飛んでいってしまう! 今まで大事に閉じ込めておいたのに!」
――文字が、飛んでいってしまう?
その言葉に疑問を抱いた時、左頬に何かが触れる感触がして、俺は反射的にぱん、と平手で叩いた。
掌を見てみると、何か黒いものが丸まった状態で付いている。爪でそっと解くと、『ね』の活字だった。
部屋中を飛び回っていたのは、紛れもなく文字だったのだ。
明朝体の平仮名や、小塚ゴシックの漢字、リュウミンのカタカナ……とにかくありとあらゆる書体の文字が、この部屋を埋め尽くす大量の本の中から飛び出し、蚊のような音をたてて飛んでいた。
そして、文字たちはしばらく好き勝手に飛び回った後、示し合わせたように群れをなすと、窓に向かって勢いよく何度もぶつかり始めた。
窓ががたがたと揺れ、鍵を閉めていなかった窓がゆっくりと開いていく。
「駄目だ、やめろ!」
葦之原先生の断末魔のような悲痛な叫びの中、文字たちは開いた窓の隙間から外へと一斉に飛び出していった。
「ああ、ああ、待ってくれ。儂はお前らがおらんと何も書けんのだ、行かないでおくれ、行かないでおくれよ」
へなへなと力なく畳に座り込み、葦之原先生は窓を見上げた。そこに先程の勢いはすでにない。目には涙を浮かべ、怒りで紅潮していた顔は今や青黒い絶望一色だった。
部屋から文字がすべて飛び出してもなお「行かないでおくれ」と繰り返す先生の姿を、俺はただ見ているだけしかできなかった。
結局、その日は葦之原先生の原稿を受け取って帰ることができた。 完成原稿が入った封筒を部屋の奥の金庫から取り出して、
「ほら、原稿だ。持って行きたまえ」
と渡してきた葦之原先生の目は虚ろで、抜け殻のようだった。
その時俺の脳裏では直感がこう告げていた。「とんでもないことをしでかしたぞ」と。
その直感は正しかった。
この日受け取った原稿は最後の文豪の最後の作品となったのだ。
『私の想像力の源は今や完全に失われた故、この先自分の人生に作品たりうる文字が現れることは二度とありはしないだろう』
出版社宛にそんな一文で締めくくられる絶筆宣言の手紙が届いたのは、原稿を受け取った次の日のこと。その後、退院したタザワさんをはじめ、社長までもが必死に説得したが、先生の意志は固かった。
俺は『葦之原先生の原稿を受け取る』という仕事は無事こなしたことになるが、葦之原邸で何があったのかは上司から尋問のような聞き取りを受けた。
あの日俺が見たことを話したとして、誰がそれを信じるというのだろう。俺はところどころ言葉を濁した。すると、処分こそなかったものの、社内では「あいつのせいで葦之原先生が筆を折ってしまった」という見方が大多数になった。
実際、それは間違いではない。俺があの時、ただ先生を待ち続けていれば、窓を開けたりしなければ、作家・葦之原幻蔵はまだ存命していたはずだ。
あの部屋から飛び去った文字たちは、きっと先生の思考や直感の支え、もっと言えば頭の中そのものに等しかったのだろう。
俺は一時の焦りとお節介で、大作家の筆を折った。そして、それがなぜなのかは誰にも話すことができないのだ。
結局、俺はあの日から半年ほどで出版社を辞めた。毎日自分のしたことを考え、最後に見た葦之原先生のあの顔を思い出すのが辛かったし、社内で露骨な嫌がらせに遭うことが増え、疲れてしまったからだ。
今はたまたまネットで募集を見た造園会社に採用され、そこで働いている。今日も公園で植栽の整備だ。 とにかく何も考えずに体を動かせる仕事はありがたい。鬱々とした思考を太陽の光で蒸発させて、外の空気を思う存分吸って――
「!」
右頬に何か触れた気がして、俺は軍手のまま平手でぱん、と叩いた。 掌を見てみると、そこには筑紫明朝の『恨』が貼り付いていた。俺は努めて冷静にそれをそっと花壇の土に埋めると、作業に戻ったのだった。
ぶんのむし あまたす @amatasu
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