ぶんのむし

あまたす

第1話

「サワヤマ君。申し訳ないんだが明日葦之原あしのはら先生のお宅にうかがって原稿を受け取ってきてくれないか」


「え、あ、葦之原先生ですか!?」


 上司のその言葉に俺は椅子から転げ落ちそうなほど驚いた。


「あの、担当はタザワさんですよね? その、俺には無理ですよ、だって……」


 突然のことに頭が働かない。自分がその仕事にふさわしくないことを全力でプレゼンしなければいけないのに。 壊れた音楽ファイルみたいに「だって、あの、その」を繰り返す俺の言葉の先を待たず、上司は続けた。


「さっきタザワから連絡があって、帯状疱疹で入院したらしいんだ。退院を待っていたら原稿が間に合わない。なに、原稿を受け取ってくるだけだから、それほど心配することはないよ。ただ……」


「ただ?」


「100年前の貴族に謁見するくらいの心構えでいてくれ」


「えぇ……」


 たぶんこの世が二度ほど終わったような顔をしている俺の肩を笑顔で叩くと、失礼のないようにな、と捨てぜりふを残して上司は帰っていった。





 最後の文豪、葦之原あしのはら幻蔵げんぞう

 その格式高い筆致もさることながら、パソコンを毛嫌いし、未だに名入の原稿用紙に万年筆で原稿を書くことで有名だ。加えて、度を越した気難しさに泣かされた編集者は数知れず。そこでいつしか『最後の文豪』というあだ名がつけられた。

 彼の作品をデビューから出版してきた我が社で彼の担当を許されるのは、ベテラン中のベテラン、エース中のエースの編集者だけ。そして、担当が交代するときには代々の編集者が書き記した申し送りを綴じた辞書並の分厚いファイル、通称『取扱説明書』が渡されるのだ。

 要は、本来だったら俺のような入社一年目の半人前は会うことはおろか、話をすることもできないような大作家だということだ。

 おそらく、皆でこの役目を押し付けあった末、何かあっても「新人のしたことですから」と言い訳できる俺に白羽の矢が立ったのだろう。


「どう考えたって人選ミスだろ……」


 隣のタザワさんのデスクを見る。完璧に整理整頓されたデスクの上で、『葦之原先生』と書かれたボロボロのファイルが異様な存在感を放っていた。

 俺は手垢にまみれたそれを恐る恐る手に取ると、ゆっくりと最初のページから読み始めたのだった。





 次の日、俺は都心から少し離れた閑静な住宅街の一角にいた。

 目の前には美しく整えられた槇の生け垣に囲まれた立派な日本家屋がある。さながら高級料亭の佇まいだが、もちろん違う。ここはかの葦之原先生の邸宅だ。

 取扱説明書は深夜までかかって大体読んで来たが、それでも不安で仕方がなかった。

 俺は空を見上げて大きく息を吸い込むと、覚悟を決めて正面を向き、玄関へと歩き出した。


 インターホンを押し、用件を告げる。しばらくして出てきたのは上品な雰囲気の老婦人だった。取扱説明書によると彼女が葦之原先生の奥様だ。


「あら、昨日お電話頂いた通り、いつもの方ではないのね」


「はい。実はタザワが体調を崩しまして。私、本日代理で参りましたサワヤマと申します」


 名刺を渡すと、葦之原夫人は確認するように名刺と俺の顔とを代わる代わる見た。


「そうだったの。タザワさんにお大事になさるようお伝えください。主人はちょうどお手洗いに行ってしまったようなの。部屋まで案内しますから、その前で待っていてくださるかしら」


「はい。それでは失礼致します」


 夫人に案内されて家の中を歩く。外見に違わぬ立派な内装だった。磨き上げられた廊下を歩いた先に、葦が茂る川辺が描かれた襖が現れた。ここが葦之原先生の部屋だ。


「それではこちらでお待ち下さい」


「はい、ありがとうございます」


 夫人が去っていくと、俺はカバンからノートを取り出した。取扱説明書の一部をメモしたものだ。部屋の前での注意事項は……これだ。


・部屋の前では、静かに待つ(くしゃみや咳は我慢)


・絶対に自分から襖を開けない


・原稿を受け取る際は部屋の中を見ないよう注意


・受け取ったら最大限の礼を述べた後、速やかに立ち去る


 よし、特に難しいことはない。部屋の中を見るなというのが少し気になるが、まあ自分の部屋を他人に見られたくない気持ちはわかる。

 大丈夫だ。今のところ順調に進んでいる。この緊張もあと少しで終わる。





 だが、一時間以上待っても葦之原先生は現れなかった。

 取扱説明書を読んだ限りでは「トイレが長い」なんて記述はなかったように思う。


 ――たまたま腹の調子が悪いだけだろう。

 ――実はもう部屋に戻っていて、気づいていないだけなのではないだろうか。

 そんな相反する考えを数分おきに繰り返し、時計を見ては落胆するのを5回ほど繰り返す。 そして、原稿を受け取らなければならないという緊張感と、早く帰りたいという焦りとが揃って限界に達した瞬間、俺はとんでもない行動に出た。

 襖に、手をかけたのである。

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