エピローグ

1.渋いより甘いほうが、ずっと

「お、おい宏慈、大丈夫か?」

「ぜんぜんだいじょばないですまじできもちわるくてはきそう」


 五月七日日曜日。

 大型連休最終日の池袋は、俺にとって地獄にも等しい場所と化していた。


 どこを見ても人、人、人。

 地面が全く見えないほどの人込み。

 嫌でも伝わる熱気と、二五度を優に超える気温。

 不快指数上昇値が留まることを知らない。


 何が悲しくてこんなとこまで来なきゃいけないんだよ。

 永遠に家で引きこもっていたい。


「でも、これくらいの人数で音をあげていたら、夏冬の有明になど到底行けないぞ」


 行かなくていいよそんなの。

 いくらオタク活動だからって、絶対行かないからな。

 時代はデジタルだ。同人誌は通販で買ってくださいよ先輩……。


 このように否定的な意見を言いたくて仕方ないが、口にできない理由が俺にはある。

 本来今日は、オンリーイベントにサークル参加して、同人誌を売っているはずだった。

 俺が二次創作小説を書いて、先輩が製本し、参加者の方々に読んでもらうはずだった。


 ところが、俺が原稿に一切取り掛かれなかった結果、頒布物が一冊もなくなり。

 やむなくイベント運営に当日欠席の旨申し伝えたのだった。


 全部俺の責任なんだけど。

 でも、原稿を書く時間的余裕は、俺には与えられなかった。


 断腸の思いで改稿したラストシーンを十代さんにメールした翌日。

 再び飯田橋まで呼び出された俺は、その場で出版契約を結んだ。

 書籍化のことを学校に伝える許可をもらうと、そのまま学校へと飛び、教員室に鎮座する貝口に向かって出版契約書をバン! と叩き付けてやった。

 ……まではよかったのだが。


 文書偽造や詐欺を疑った教師陣が春雷ノベルズ編集部に電凸したり。

 直々に説明にきた十代さんと、ラノベという単語すら知らない高齢の学年主任を交え、気まずい三者面談をしたり。

 何人かには、素晴らしい功績だから六月の朝礼で表彰しようと言われ、必死で辞退したり。

 せっかくの大型連休だというのに、毎日登校して、教師達への事態の説明に追われていた。


 まあでも、そのおかげで、要求していたものは手に入れることができた。

 現役高校生作家のために、放課後黙々と執筆にあたれる個室を、学校は用意してくれたのだ。


 もちろん、そんな用途は建前で。

 入学してからずっと、放課後のんびりとオタクライフを送っていた部屋を、俺は取り戻すことができたのだ。


 俺と、先輩と、誰にも内緒だけど色芸と。

 三人でサブカルチャーを研修――もとい、嗜むための空間だ。


 他にも、俺がまだ未成年だからと、十代さんは俺の家までやってきて、両親に出版の許可を取り付けたり、直しの直しを一日でやってくれと言ってきたり、とにかく休む間もなかった。

 ようやく一息付けたのが昨日、六日の夜になってからだった。


 オンリーイベント前夜。

 もはや原稿を書く時間も、製本する時間も残っていなかった。

 先輩に指定された締切をぶち破り、二八日以降連絡も断っていた俺は、反省と謝罪の意を伝えるため、メールではなく、先輩に電話をかけた。


 ひたすらに謝り続け、事情を説明し、小説家になったことを明かし、部屋も取り戻せたことを告げると、先輩は三時間くらい祝福し続けてくれた。


 そして今日。

 同人誌即売会に参加できなくなった代わりに、俺のお祝いをするから池袋まで来い、とのことだったのだが。


 とりあえず映画に行こうだと?

 なんで映画を見ることがお祝いに繋がるんだよ。

 これ絶対先輩が俺と一緒に映画見たいだけだろ。

 例の思い出作りのために。


 などという愚痴を漏らせるはずもない。

 予定を変更させてしまった原因は、間違いなく俺にあるのだから。


「――遅れてすみません、妻館先輩、水納くん」


 そのとき、今日映画を共に観賞するもう一人の少女が、改札から現れた


「問題ないよ、色芸さん。それより、ご両親には今日のこと、うまく話せたのか?」

「はい。友達に映画に誘われたと言ったら、特に詮索はされませんでしたよ」

「それはよかった! まあ高校生にもなって、アニメ映画に誘われるとは思わないよな普通」


 今日観る予定のアニメ映画は三本。

 嵐を呼ぶ幼稚園児のヤツと、死神名探偵のヤツと、あとオリジナルアニメムービー。


 キッズアニメである二本はともかく、オリジナルアニメのヤツは、青春群像劇の雰囲気をこれでもかと醸し出している作品で、観る前から嫌な予感がした。

 推しが負けそうな気配がした。


「すまないが、宏慈がまだグロッキー状態でな。少し公園で休んでいこう」


 先輩が先導し、映画館近くの公園へと移動する。

 公園の中も人は多かったのだが、駅や大通りよりは遥かにマシだった。

 俺達は三人でベンチに座り、生ぬるい風にあたった。


「宏慈、何か飲むか? いちごオレなら持っているが」

「いや普通に緑茶買ってください」

「わかった、緑茶だな。……って、残念、緑茶は売り切れだ」


 自販機の前に立った先輩は、品揃えを確認しながら告げる。


「ええ……じゃあ水でいいです」

「水なら、わたし持ってるわよ、水納くん」


 Bプランを頼もうとしたところで、色芸が口挟み、バッグから無色透明な液体が入ったペットボトルを取り出して、俺に渡してくれた。

 飲んでいいものか一瞬迷ったが、封は切られていなかったので、ありがたく頂戴することにした。


「ありがとう、色芸さん」


 キャップを外し、中身をぐっと飲み込む。


「――!? んっぐ、何これ!? 甘っ!?」


 思わず吹き出しそうになった。

 完全に水だと思って飲んだものから、想定外の甘い味が口一杯に広がった。


「当たり前でしょ、桃水なんだから」

「桃水?」


 言われてラベルを確認してみると、桃の天然水と書かれている。


「わたしはいつもそれを飲んでいるのだけれど、水納くんは甘いの苦手だったかしら?」

「苦手っていうか、ただの水だと思ってたからびっくりしたっていうか……」


 一度口を付けてしまった以上返すわけにもいかず、俺は水もどきの液体を飲み続けた。


「……ん? ……意外とこれ、おいしいかも」

「でしょう?」


 俺の感想に、色芸は満足そうに微笑んだ。

 ほのかな甘みが口から全身へと行き渡る。

 頭がすっきりと覚醒し、人込みでへろへろになった身体がしゃきっと回復していくような感じがした。


「……憬先輩、いちごオレも、もらってもいいですか?」

「え? ……も、もちろんだとも! ほら!」


 先輩が差し出した紙パックを受け取り、ストローを挿して飲み込む。

 桃水よりもずっと甘い液体。でも、あとを引かない優しい甘み。

 これは、うまい。

 二つの異なる甘みを楽しんでいると、精神的にも肉体的にも、活力を取り戻していった。


「疲れたときは甘いものって、本当だったんですね」

「だから、わたしはいつも言っていただろう!」


 先輩の言うことは聞くものだと、俺は改めて認識した。


「……なあ、宏慈。サブ研の、部屋のことなんだが」


 話題を変えた先輩は、ぐっと表情を引き締めると、


「取り戻してくれて、本当にありがとう」


 俺に向かって、深く頭を下げた。

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