2.お別れ

 俺達を遥かに上回る大声で先輩が一喝し、場をいさめた。


「宏慈、他人の趣味に勝手に価値をつけるんじゃない。……自分が同じようなことを言われたらどんな気持ちになるか、知っているだろう」


 冷静に、諭すように先輩は俺を指導する。


 漫画、ラノベ、アニメ。それらを否定され、怒りを覚える気持ちは、俺にはよくわかる。

 オタク的なものは徹底的に嫌悪されるこの世界。

 だから俺は三次元の連中が大嫌いなんだ。


「……すんませんした」

「……まあ、わかればいいんですよ、わかれば。御石様は寛大ですので」


 俺の謝罪を石田三成はそっぽを向きながら受け入れ、またしても眼鏡の位置を直した。


「行こう、宏慈。片付けを手伝ってくれ」

「え? で、でもまだ……」

「石研さんの言う通り、私達は二人。これ以上、弁解の余地はないよ」


 先輩は貝口に軽く頭を下げると、くるりと反転し、教員室の扉を開けて退室していった。

 慌てて俺もその背を追う。

 校舎の一階から中庭を抜けて文化部部室棟まで、先輩は早足で一気に歩いていく。


「いいんですか憬先輩!? 俺達、活動できなくなるんですよ!?」

「私だって悔しいさ。だが、もうどうしようもないよ。人数不足は事実だ」

「そんな……」


 つかつかと俺を振り返ることもなく歩き続ける先輩の姿に、思わず俯いた。


「前から思っていたことだが、君はもう少し感情をコントロールするすべを覚えるべきだ」

「感情?」

「そうだ。喜びや楽しいといった、ポジティブな感情まで抑えろとは言わないが、怒りや悲しいといったネガティブな感情にとらわれたとき、君は口が悪くなる。自覚はあるだろう」


 前だけを見ながら、先輩は続ける。


「言葉使いのせいで君の感情が相手に誤って伝わったら、君の主張が誤解されてしまったら、勿体ないだろう。……あのままでは、君は教員会議行きか、最悪停学だったぞ」


 停学? 俺が?

 悪いのは嘘をついたあの教師だろう。

 なぜ俺に非があるように処理されなきゃならない。


 先輩だって、抗議の声をあげていた。

 多少口が悪かったからって、なんだというんだ。


「……あまり、私を悲しませないでほしい」

「悲しむ? なんで憬先輩が悲しむんです?」

「だってそうだろう。君が怒りをあらわにするのは、君がどこまでも優しい人間だからなのに……それを私しかわかってあげられないのは、凄く悲しいし、凄く悔しいじゃないか」


 ようやく足を止めた先輩が、顔を振り向かせた。

 じっと俺を見つめる先輩の大きな目が、いつも以上に潤んでいる。

 その瞳にゆらゆらと反射する自分の姿を見て、俺は何も言えなくなってしまった。


「……もっとも、それも宏慈の魅力の一つなんだけどな」


 すんと小さく鼻をすすってから、先輩は微笑んで言い加えた。


 二人静かに部室棟の廊下を歩き続け、サブ研の部屋を目指す。

 その部屋の閉じ切られた扉の前で、色芸が一人、俺達を待つように佇んでいた。


「あ、妻館先輩、水納くん。よかった、来たら開いてなくて、どうしたのかと」


 ほっとしたように笑う色芸。

 彼女を見て、先輩はぎゅっと唇を真一文字に結び、現実を告げる。


「……色芸さん、すまない。学校から、この部屋を退去するよう命じられた」

「……え?」

「新しい同好会ができるらしい。人数不足のサブ研は、早々に明け渡せとのことだ」

「人数、不足……」


 通達を知り、色芸は茫然とその場に立ち尽くす。

 色芸にとっても、ひた隠しにしてきた嗜好を他者に口外できる、人目を気にせず漫画の練習ができる、ようやく見つけた隠れ家を、わずか半月で奪われることになってしまった。


「……それなら、わたしが転部していれば。せめて兼部でもできていれば、こんなことには」

「よすんだ。色芸さんにそれができないことはわかっている。君が責任を感じる必要はないよ」

「ですが!」

「悪いのは全て私だ。去年、宏慈一人しか勧誘できなかった。それが全てだったんだ」


 先輩は鍵を取り出して、扉の鍵穴に挿入する。

 施錠を解除し、一気に開いた。


「部屋の片づけをしなければならないんだ。すまないが、色芸さんは美術部に戻ってくれるか」

「……わたしも手伝います」

「いや、これはサブ研である私と宏慈の仕事だ。美術部の色芸さんがやるようなことじゃない」


 先輩は色芸の手を振り払う。

 所属の違いを明確に口にする。


 それは、色芸との関係を断ちたいからではない。

 この部屋の中に残る色芸の痕跡を、一つ残らず消し去り、彼女の秘密を守り切るため。

 クソ教師と違って、先輩は約束を破ったりしない。


 美術家である色芸絵描は、低俗な漫画になど興味はない。

 漫画の絵など、描くはずもない。

 だから、半月という短期間で高々と積み上げられたスケッチブックの山を、色芸の努力の結晶を、先輩は人知れず処分する。

 一切合切、闇へと葬り去る。

 その残虐な行為を、色芸自身の手でさせるわけにはいかなかった。


 だって先輩は、俺なんかより遥かに、比べ物にならないくらい、優しいのだから。


「………………では」


 色芸は何かを言おうと言葉を探していた。

 けれど、何も出てこなかったのだろう。

 一礼し、俺達の元を去っていく。

 彼女がいるべき場所へと帰っていく。


「――色芸さん」


 数歩歩いたところで、先輩が呼び止めた。


「あと、四ページだったのにな。君の初めての漫画を、最後まで描き切らせてあげられなくて、本当にすまなかった。きっとまたどこかで……好きなものを描ける場所が見つかるといいな」


 お別れの言葉。

 それを聞いた色芸の顔が一気にくしゃくしゃになり、俺達に背を向けると、部室棟の廊下を走りながら中庭へと消えていった。

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