第5章 二次元だけの人生

1.乱心の姫

「――おはよう、水納くん」


 いつも通り、目立たぬよう教室の後ろ側の出入口から登校した俺に、いつもならあり得ない出来事が降りかかった。

 おはよう、という朝の挨拶である。


 そんなものが俺に投げかけられるわけもなく。

 別の誰かへの挨拶がたまたま耳に入っただけかと一瞬思ったが、最後のほうで間違いなくミズノくんと言っていた。

 背中に毛虫でも落ちてきたかのように身体を震わせた俺は、ばっと周囲を見渡して声の発信者を探った。


 果たしてそれは、廊下側最後方の机に座る、色芸絵描によるものだった。

 俺が教室に入るのと同時に、色芸は「おはよう」と言ってくれたのだ。


「え? あ、はい、お……おはよう、しき、さん」


 誰かに挨拶されるなど全く想定していなかった陰キャは、挙動不審MAXな応対で一応返事する。


「え、ちょ……つーかエガちゃん、何言ってんの?」


 色芸の前の席に座る鬼童が、怪訝な表情を浮かべながら彼女の真意を問いただした。


「何って、挨拶しただけよ」

「いやだから、なんで水呑百姓に挨拶なんかしてんのって」

「挨拶は誰とだってするものよ? 真姫さんとわたしだって、毎日するでしょう?」

「そ、そうだけどさ……」


 色芸の回答を聞いても、鬼童は全く腑に落ちていない様子。

 美術部のエースが陰キャオタク水呑百姓に挨拶なんかしたら、鬼童でなくたって驚くだろう。

 俺が一番驚いてるよ。心臓バクバクだもん。


 他のクラスメイトにも異変が伝わったらしく、視線が俺へと一斉に突き刺さった。

 いたたまれなくなった俺は慌てて自席へと座り、教室の空気の一部と化すべく、机へと突っ伏した。


(……何を考えているんだ、色芸のヤツ!)


 これから漫画好きの同士として交流していこうとは昨日話したが、それはあくまで放課後、サブ研の部屋の中だけの話だ。

 教室ではこれまで通り、身分の違う生徒として、一切の関係を断つ。

 でなければお互いにデメリットしかない。

 クラスメイトの好奇の眼差しに晒される。


(それくらい、わかるだろ!)


 頼む、俺は誰からも目を付けられたくないんだ。

 察してくれ。一人でいさせてくれ。


 そんな俺の切実なる願いを、あろうことか色芸は、とんでもない爆弾発言で消し炭にした。


 四時間目の授業が終わり、昼食に購買で何を買おうかと考えていたら、色芸が俺の席に歩み寄ってくるのが見えた。

 そのまま俺の横に立つと、


「水納くん、今日のお昼、一緒に食べましょう?」


 両手を机に突いて寄りかかりながら、にこりと柔らかな微笑みを浮かべたのだ。

 そのとき、教室全体が固まったのを感じた。

 空気が変わるという表現が確かに実在するのだと、俺は身をもって知ることができた。


「外のハンバーガー屋に行きましょう。わたし、先に校門で待ってるから」


 俺の返事を待つことなく、用件を告げた色芸は教室を去っていく。

 昼休みに入ったとは思えない重苦しい静寂が、二年五組の空間を支配していた。


「…………ミイイイズウウウウウノオオオオオオオ!!」


 沈黙を打ち破って、怒声を発したのは鬼童だった。

 韋駄天の如く俺の元へと駆け寄ると、両の拳をダン! と机に叩きつけた。


「つーかミズノ!! あんたエガちゃんに何したんだよ!!」


 水呑百姓と呼ぶのも忘れ、鬼童は地獄の鬼もかくやという歪んだ表情を俺へと向ける。


「な、なにも……俺は、ほんとになにも」

「嘘つくんじゃねーよ!! なんでエガちゃんがアタシを差し置いてあんたをお昼に誘うんだよ!! つーか、あり得ねーだろが!!」


 滝汗を流しながら弁明する俺の返事など完全に無視し、ドスの聞いた声で俺を詰問する。

 怖い、鬼童マジ怖い。

 泣いちゃう。てかもう瞳が潤んできてる。


「エガちゃんの弱みとか握って付け込んじゃねーのか!?」


 鬼童の手が俺のブレザーへと伸び、襟元を掴んでぐっと引き寄せて揺さぶる。

 違う。確かに色芸の秘密を知ってるけれど、付け込んだりしてない。

 むしろ俺も迷惑なの、こういう扱いを受けることになるから。

 だから助けて。許して。殺さないで。


「まあまあ、落ち着けよ真姫。誰が誰とメシ食ったって自由だろ? オレだって一昨日は宏慈と一緒に食ったしな。今日はオレとメシ食おーぜ?」


 そろそろ土下座を考え始めたところで、意外なヤツが助け舟に入ってくれた。

 地貫が鬼童の背後から近づき、中学時代バスケ部で勤しんでいた筋トレの成果を活かして、鬼童を持ち上げるようにして俺から引き離してくれた。

 筋肉は裏切らない。助かった。


「放せテツ!! アタシのエガちゃんを男なんかに取られてたまるかよ!!」


 暴れる鬼童を体格差で完全に制圧し、そのまま二人で教室から出ていこうとする。

 ……と、俺のほうを向き直り、親指をぐっと立てながら「Guts!」と意味不明なスマイルを送ってきた。


 ……なんか、地貫も地貫で妙な勘違いをしている気がしてならない。

 嫌だなぁ、これだから女の尻ばかり追ってるヤツは。


「アタシのエガちゃん! アタシだけのエガちゃん!」


 その後しばらく廊下から鬼童の叫び声が聞こえていたが、やがてそれも消え失せ、教室には再び静寂が戻った。


 しかし、俺に平穏な昼休みが戻ったわけではない。

 クラスメイトからの視線は未だにびしびし感じ続けている。

 この状況から脱出するため、何か行動を起こさなければならない。


 さりとて選択肢は二つしかない。

 色芸の誘いに乗るか、無視して購買に行くかだ。


 もちろん俺の今後の学校生活を考えれば、無視するのが得策。

 妙な勘繰りやら余計な嫉妬などを受け続けるなんてごめんこうむる。

 ……それは、本心なんだけれど。


 結局、色芸からみんなに釈明してもらわなければ、この妙な雰囲気は残り続けるだろう。

 貸した金を返してもらってただとか、掃除当番を変わってほしいだとか、でっちあげでもいい。

 クラス全員が納得する理由を色芸が宣言しなければ、俺の平穏は戻らない。

 ああやっぱり。色芸さんが望んで水呑百姓をお昼に誘ったりするわけないよね、と。


「……あー、やらかしたなー。やっぱり色芸さん、怒ってたかー。弱ったなー」


 布石をぼやきながら、俺はかったるそうに立ち上がった。

 頭を掻き、さぞ困り切っているかのように見せかけながら、教室を後にする。

 廊下に出ると、急いで校門へと向かった。


 ――昼食のついでに、教室では俺に話しかけないようきつく言ってやらなければ。

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