7.絵描きの選択
彼女がソファから腰を上げる寸前、俺は抗議の声をあげた。
「漫画はリスクでしかないだって? 違うね! 漫画は、楽しいものなんだよ。このつまんねー現実から脱出して、ありとあらゆる世界に導いてくれる夢の扉なんだよ。何度推しが負けたって、好みに合わない地雷を踏んだって、それでも三次元の世界で唯一俺の興味を引いてやまないものなんだ。色芸みたいな高尚な美術家様達にはわかんないかもしれないけどさ!」
口を動かす度に、怒りの感情が湧き上がっていく。
色芸は、呆気にとられたように俺の叫びを聞いていた。
「色芸の家の事情なんて俺にはどうしようもできないけど、漫画と関わるのをやめんなら、せめて自分の意志で決めろよ! 漫画のこと何も知らない老害の妄言なんか忖度してないで、もっとシンプルに。まだまだ漫画を読みたいのか、もう満足したのか、はい色芸、どっち!?」
雑誌を掴み、見せつけるように色芸の顔の前に掲げてみせた。
「……すまない、色芸さん。宏慈は、熱くなると少しだけ言葉遣いが乱暴になるんだ」
額に手を当てた先輩の言葉に溜息が交じる。
熱くだってなる。
漫画を、日本が誇るサブカルチャーを、リスク呼ばわりされたんだから。
「答えろよ色芸! メロが主役の漫画描きたかったんじゃねーのかよ!? 好きなものなら好きって、もう一度公言してみせろよ!! オタクを舐めるな!!」
色芸は瞳を揺らしながら雑誌を見つめ続ける。
沈黙が部屋の中を支配し、無音状態が続くにつれ俺の脳内も徐々に冷静さを取り戻していった。
「……あー……ちょっと言い過ぎたかもしれないけど……」
「……そうね。水納くんの言う通りだわ」
ぽつりと、色芸は俺の言ったことを肯定した。
「ホーリーを読み始めてから、わたしはとても充実していた。毎週月曜日が楽しみで仕方なかったわ。今日はメロが出るかしらって期待しながら、ページをめくっていたの。……あの瞬間は、決して避けるべきリスクなんかじゃないわ」
ようやく定まった視線で雑誌のことを見据えた色芸は、手を伸ばし、俺から受け取る。
己の手に戻ったそれを愛おしげに抱き締めながら、呟く。
「わたしはまだ……漫画を読んでいたい。漫画のことを学んでみたい。……大好きなメロを可愛く描いて、わたしの中だけでも、主役にしてあげたい」
「……だったら、潮時にはまだ早いだろ」
というか、潮時なんてきっと未来永劫訪れることはない。
一度はまり込んだオタク沼は底なしだ。
簡単に抜け出せると思うなよ。
推しができた時点で、色芸はもう、俺達の同類なのだ。
「ありがとう、水納くん。あなたが怒ってくれなかったら、わたし……とても大切なものを捨ててしまうところだったわ」
「べ、別に説教するつもりで言ったわけじゃないから」
というか、熱くなりすぎていつの間にか色芸のことを呼び捨てにしてしまっていた。
それどころか彼女の両親を老害呼ばわりして……あああ何やってんだよ俺は! 厄介オタク!
「だから言っただろう。宏慈は、優しい人間なんだって」
「……やっぱり、誤解してました」
誇らしげに胸を張る先輩に、色芸は微笑みを返した。
「なあ、色芸さん。難しいのは百も承知だが……サブカルチャー研修会に転部する気はないか?」
「……転部?」
先輩は、昨日俺に語った希望を色芸に伝えた。
「こうして二人で活動してはいるが、サブ研はもう廃部になっているんだ。人数不足が原因でな……。けれど、色芸さんが入ってくれたら、同好会として復活できるかもしれない。色芸さんも、ここでなら自由に漫画が読めるだろう」
「……お申し出はありがたいのですが……わたしは美術部を離れるわけにはいかないので」
「……うん、そうだよな、無理だよな……」
美術部を退部したことが色芸の両親に知られたら、缶詰が待っている。
先輩もそれを理解しているから、肩を落としながらも色芸の意思を尊重した。
……まったく、先輩は真面目すぎるんだよな。
優等生らしく、全部綺麗にやろうとしすぎだ。
「別に転部なんかしなくたっていいでしょ、憬先輩」
「なに?」
「美術部のエースの色芸さんには、他の部員から離れて一人で絵を描く権利が与えられている。なら、美術部の活動場所として、この部屋を使わせてあげればいいんですよ」
色芸は普段美術準備室を個室のように使っている。
ならばそこを抜け出して、この文化部部室棟の一室に足を運ぶことも容易なはず。
現に、二日連続でここに来てるしな。
「ここで美術的な絵を描いて、終わったら、漫画を読むなり、漫画的な絵の練習をすればいいんです。別に毎日来る必要もない。来たいときにふらっと来て、美術部に集中したいときはそうすればいい。サブ研は復活できなくなりますけど……それは俺達の都合ですしね」
「た、確かにそれなら、色芸さんは人目を気にせずに漫画を楽しめるな」
「まあ、憬先輩がこれを許可してくれるかどうかですけど」
「何を言う! もちろん許可だ!」
鼻息を荒くして、先輩は大きく頷いた。
「というわけで、好きなときにここ来ていいから。漫画の絵を描いたってこの部屋に隠しておけば、こわーい両親にもバレないよ。ホーリー以外の漫画も、この部屋にはたくさんある。ラノベやアニメだってある。それを見て、楽しんだり研究したりすればいいんじゃないかな」
「……どうして、水納くんも妻館先輩も、部外者のわたしのためにそこまでしてくれるの?」
色芸は問う。
なぜだろう。色芸がサイに似てるから?
彼女の家庭環境に同情したから?
――俺と色芸は、似通った人間なのかもしれないから。
そう思うのは恥ずかしかったので、もっと単純な、俺のいつもの思考回路が原点にあると結論づけることにした。
「漫画を楽しめない人がいる世界なんて、クソ食らえって思っただけだよ」
「……そう」
俺の下品な回答を聞いて、色芸はふっと口元を緩める。
「本当にありがとう。――嬉し過ぎて、涙が出そうよ」
サブ研の再興は叶わない。
けれど、この部屋に足を運ぶ仲間が一人増えた、その瞬間だった。
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