6.苦悩

 小さく手を挙げた先輩に、色芸は首肯する。


「色芸さんは、漫画を描きたいとか、漫画家になりたいとか、そういう願いを持っている……のか?」


 俺が雑誌の書き込みのことを教えたときに抱いた推測を、そのままぶつけていた。

 色芸は即答はせず、顎に手を当てて、しばしの間考え込み、


「その質問からは逸れますが……一度だけ、メロのことを描いてみようと思ったことがあるんです」

「メロを?」

「漫画のキャラクターを描いた経験はありませんでしたが、一応絵には自信があるので、描けるだろうと。美術準備室で一人のときに、描いてみたんです」


 そりゃー国内外様々な賞を獲った絵描きの卵なら、それぐらい描けるわな。

 むしろ作者より遥かに高い画力のメロが描かれたんじゃないだろうか。


「……ですが、わたしにメロは描けませんでした」

「え? な、なぜだ? 色芸さんほどの人が……」

「……水納くん、わたしが描いた『川辺の乙女』って絵、知ってる?」

「かわべ……? いや、ごめん、知らない……」


 ていうか、色芸の絵なんてほとんど知らない。


「検索してみて。……妻館先輩は、覚悟があるなら見てみてください」


 言われるがままにスマホを取り出し、【色芸絵描AND川辺の乙女】で画像検索する。……と、


「うおっ!?」

「ひゃっ!?」


 表示された絵を見た途端、俺の驚き声と先輩の息を呑むような悲鳴が重なった。


 タイトル通り、川辺に少女が立っている絵だった。

 それだけなら何も問題はないのだが、少女の身体には、服が一切描かれていなかった。

 つまり、まごうことなき全裸だったのだ。


 川で水浴びでもするつもりなのか、それとも単なる露出狂なのかは観覧者の想像に委ねるとして、この絵を色芸が描いたというのか?

 描いてて恥ずかしくなったりしなかったのかな……。


「水納くん、どう思った?」

「ドッキリもいいところだよ!」

「そうじゃなくて。その女の子、可愛いと思う? エロいと思う?」


 色芸に感想を求められ、やむなくもう一度スマホの画面を見返す。


 ……まあ、当たり前だけどまず絵がうまいよな。

 色使いとか? 素晴らしいと思う。知らんけど。


 で、なんだっけ、女の子をどう思うか?

 それを答えるには凝視しないといけないよな。

 別に見たくて見てるわけじゃないんだよ。

 色芸に求められたからやむなく。そう、やむなく。


 俺は全裸の少女の姿を瞳に宿す。

 女性の裸なんて漫画やラノベのサービスシーンでしか見たことないから、これがうまく描けているのか、俺にはわからない。

 ……けれど、


「可愛いとかエロいとかってよりも……まず、美しいって言葉が出てくるかなぁ」

「本当に? 実は性的興奮が生じているんじゃないの?」

「しつこいな! この絵で興奮なんてできるわけないだろ! 綺麗すぎるんだよ!」

「そうね、そう言うと思ったわ」


 三次元の女に興味のない俺は、二次元の美少女のサービスシーンなら普段ありがたく拝見させていただいているのだが、同じ二次元の美少女でも、この絵に描かれている女の子を、可愛いとか、エロいと思うことは全くできなかった。


 緩やかな胸の膨らみも、その先端の突起も、くびれた腰つきも、お尻の曲線も、男と異なる下腹部も、何一つ興奮できる要素がない。

 ただただ、美しいものだとしか思えなかった。


 これが美術のなせる業か。

 全裸なのにド健全。

 表現規制推進派もこれにはだんまり。


「妻館先輩は……やっぱり、刺激が強すぎましたか」

「だっ、ダメだぞこんなっ! こういう絵はっ! 一八歳以上になってからでないと……!」


 先輩は顔を真っ赤に染め、首をぶんぶんと振る。


「美術の世界にそういう決まりはないので」

「そ、そういうものなのか……」

「見ての通り、わたしが描く女の子は、美しいだけで全く可愛くないの。裸を描いたって、漫画のキャラクターの服がはだけたときみたいにドキドキしたりしない。……当たり前よね、初めて筆を握ったときからずっと、美術的な絵の指導しか受けたことがないんだから。わたしが描いたメロには、漫画的な可愛さが丸っきり欠けていたわ。それではもう、メロとは言えないの」


 美術家ゆえの帰結。

 絵が物凄くうまいのに、愛する漫画のキャラクターを思い通りに描けないという色芸の苦悩は、いかほどのものだったのだろう。


「妻館先輩の質問の答えに戻りますが、だから漫画の分析や研究を始めたんです。わたしも、可愛い絵が描けるようになりたかったから。可愛いメロを描いてあげたかったから。そしていつか――拙い出来でも、メロが主役の漫画を描いてあげたかったから」


 先輩の見立ては、少なからず当たっていたのかもしれない。

 色芸が話した希望は、彼女はその単語すら知らないだろうけれど、二次創作と呼べるものだ。


 推しのために二次創作をする。

 それはまさに、俺が一昨日サイを救済しようと行ったことだ。


 文と絵の違いはあれど、俺と色芸は、推しのために同じようなことを考えている。


「そうだったのか。ありがとう、教えてくれて。メロへの愛が、すごいな」

「……でも、いくら研究を重ねたところで、描かなかったらなんの意味もないんです。可愛い女の子の描き方も、漫画の描き方も、わたしが身に付けることはないのでしょうね」

「描けばいいじゃないか……とは、気軽には言えないんだろうな」

「そうですね。美術部で描いたものは全て、師として両親の目が入りますので。わたしが漫画なんて低俗なものを描いていると知られたら、両親の反応は容易に想像できます」


 アトリエ缶詰の刑に処す、か。

 絵画も漫画も同じ絵だというのに、どうしてそこまで格付けするんだ。


 まるで、スクールカーストと一緒だな。

 同じ学校の生徒だというのに、外見や言動、趣味嗜好の違いだけで、否が応でも階級を付けられる。

 学生の間も、いい大人になっても、そんな考えの人間が世にはびこっているというのなら、やっぱり三次元の連中はクソ野郎ばかりだ。


「今日はホーリーを受け取りに来たわけですが……そろそろ、潮時なのかもしれませんね」

「潮時?」

「わたしはもう、漫画など読むべきでない、買うのをやめるときが来た、ということです」

「な、何を言っているんだ!?」


 色芸の言葉に、先輩はうろたえる。


「わたしにとって、漫画はリスクでしかないんです。見つからないように周囲に気を配りながら読むのは結構疲れますし、自分なりに研究しても、実践する場所はありません。それなら、いっそのこと読むのをやめてしまったほうがいいのではないでしょうか」

「そんな……」

「メロが出ていた漫画も終わってしまいましたし、ここがいいタイミングな気がします」


 色芸は伸ばした指先で雑誌に触れ、俺達のほうに押しやった。


「やっぱりこれはお返しします。私は絵描きの娘。嗜むべきなのは美術で、漫画ではないのです。そういう家庭に生まれたのも、わたしの運命なんでしょう。水納くんに見つかってしまったのも、ゴッホやダ・ヴィンチが『いい加減目を覚ませ』と伝えてくれたのかもしれません」


 姿勢を正し、俺達に向かって深々と頭を下げる絵描きの娘。


「つまらない身の上話を聞かせてしまって申し訳ありませんでした。普段、まわりの人達には話せないことを聞いていただいて、少しはしゃいでしまったようです。漫画のことも、メロのことも、お二人にお話しできてとてもよかったです。……好きなものを他人に公言できると、とても嬉しいものなんですね。最後に、いい思い出ができました」


 憐れむように目を潤ませながら、先輩は苦しげな表情を浮かべる。

 先輩の心情を察してか、色芸は強がるように笑い、もう一度頭を垂れた。


「それでは、失礼しました」


 挨拶と共に、色芸の手がスクールバッグへと伸びる。

 雑誌を残したままこの部屋を去り、絵描きの卵へと戻るために。

 師匠である両親の顔色を窺い、低俗な大衆娯楽と決別するために。


 漫画というリスクを、色芸絵描は人生から切り捨てていく。


「――いまのは聞き捨てならねーよ、色芸」

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