5.初めての愛
俺が望みを答えると、色芸は少しだけ目を大きくした。
そして、それから徐々に口元を緩ませていった。
「いいわ、教えてあげる。……でも、笑わないでね。恥ずかしいから」
頷く俺と先輩を確認してから、色芸は腕組みを解き、語り出す。
「水納くんとぶつかる前、わたしはトイレでホーリーを読んでいたの。……言っておくけれど、いつもトイレで読んでるわけじゃないわよ? 普段は美術準備室でこっそりと読んでいるの」
「美術準備室……って、それ、美術の先生の部屋なんじゃ?」
「本来はそうね。でも、わたしには絶対的な絵の実績があるから。集中して創作にあたるために、他の部員とは離れて一人で描かせてほしいと言ったら、喜んで取り計らってくれたわ」
はー、特別待遇ってわけか。
個室贈呈とは、さすがは美術部のエースというか。
「でも、この時期は新入生の勧誘とかで準備室もごちゃごちゃしててね。仕方ないから、場所を移して読んでたのよ」
まあ、プランBとしては悪くない選択だ。
トイレの個室ってマジで学内最強のプライベート空間だからな。
ソースは俺の中学時代の昼休み。
「学校で人目を気にして読むくらいなら、家に帰ってから読めばいいんじゃないか?」
「妻館先輩、わたしの両親のこと、お忘れですか?」
「……そうだったな、すまない」
漫画嫌いの両親がいる手前、色芸は家で禁書を開くという危険を冒すことができないんだ。
雑誌は一週間で処分すると言っていたのもそのためか。
きっと色芸は、自分の部屋に漫画を置いたりなどできない。
口を閉じたスクールバッグの中だけが、彼女が漫画を隠し持っていられる本棚なんだ。
学校にいる間、それも放課後の部活動の時間に一人こそこそと、誰にも知られないようにページを開く。
それが、色芸に許された唯一の漫画の楽しみ方。
放課後はこの部屋で先輩とのんびり、帰宅後は自室で悠々とオタクライフを満喫する俺と比べたら、なんとも不憫に思えて仕方なかった。
「作品を一つ読んで、その分析をして、また次のを読んで。いつも通りの読み方をしていたのだけれど、一昨日は少し違ったの。……これ」
色芸はすっと人差し指をテーブルの雑誌へと向けた。
「今回の表紙になってるこの漫画、水納くんは読んでる?」
「もちろん。約二年間、ずっと楽しみに読んでたよ」
指し示したのは、今週号で最終回を迎えた、例の作品。
俺の推しキャラであるサイが最後に主人公と結ばれることを願い、無残にも負けヒロインとなってしまった、非業のエンディング。
それでも、ファンとしてしっかりと最後まで見届けた。
「なら、この漫画に出てくるメロって子、覚えてる?」
「え? メロ?」
想定してなかった名前が急に出てきて、俺は面食らった。
「覚えてないかしら? それも仕方ないと思うけれど」
「いや、覚えてるけど……」
当然、ファンなのだから覚えている。
覚えてはいるけれど……正直に言って、印象は薄い。
この作品にはキコとサイのダブルヒロインの他に、サブヒロインと呼べるキャラが何人か登場した。
だけど、メロはそれにカウントしてもいいのか迷うほど、出番の少ないキャラである。
そもそも初登場が遅く、連載一周年を過ぎた頃、キコがメインとなった一シリーズのゲストヒロインのような形で出てきたのが最盛期だった。
その後はメロが大きく取り上げられることもなく。
何話かに一度ちらっと登場するような、サブヒロインというには不遇の扱いのまま作品は進行し、最終回でも最後のほうに小さく描かれていた以外は目立った出番もセリフもなかった。
そんなメロが、一体どうしたというんだ。
「メロはね、わたしが一番好きなキャラクターなの」
「へえ、メロが」
「ええ。初めて買ったホーリーで、一番可愛らしい子だと思ったわ」
もちろん、誰がどのキャラを好きになるか、それは自由だ。
あまりにもニッチだが……。
「じゃあ、色芸さんはメロ推しってことだね」
「おし?」
「あ、ええと、〝推し〟って、好きとか応援してるって意味で使うんだけど」
「へえ、知らなかったわ」
やべぇ、カタギ相手にナチュラルにオタク用語使っちまった。
だから俺は気持ち悪いんだよ。
「最終回、主人公とキコが結ばれて終わってしまったでしょう? もちろんそれはそれでよかったのだけれど、わたしとしては、メロが幸せを掴めなかったことが心残りで。メロの気持ちを想像していたら、だんだんと涙が溢れてきて、止まらなくなってしまったの」
「……え……じゃあ色芸さんが泣いてた理由って、メロのことを考えてたからってこと……?」
「そう。悲しくて、しばらくの間泣いていたわ。完全下校のチャイムが聞こえて、美術室に戻らなければと思ったのだけれど、感情の整理がつかなくて。思わず、走り出してしまったの」
その結果が、俺との衝突。
呆気にとられる俺に、色芸は続ける。
「バカみたいな理由でしょう? 漫画のキャラクターが報われなかったから、泣くなんて」
自嘲するように、色芸はせせら笑う。
何もおかしいことではないのに、バカみたいと自虐する。
それはきっと、色芸にとってこれが初めての経験だからだ。
推しが負けて泣く。
幸せにならなくて泣く。
そんなこと、俺にとっては日常茶飯事なのに。
「――そんなことはないぞ、色芸さん!」
そんなことはないよ――と口を開きかけた俺より一瞬早く、先輩が叫んだ。
「キャラクターの人生に一喜一憂するのは、漫画好きとして当然の反応だ! それが推しキャラであればなおさらだ! 色芸さんの反応は何一つおかしくはない!」
「……そうなのですか?」
「そうとも! 何を隠そう、この宏慈だって、一昨日は推しのサイが報われなくて怒り、昨日はアニメで別の推しが死ぬや否やビービー泣き出したものさ!」
「ちょっ、憬先輩!?」
「私にはわかるよ。色芸さん、君はとても優しい子だ。そしてこの宏慈も、二次元の存在にまで寄り添うことができる、心優しい人間なんだ。君達は、よく似ているんだよ」
「わたしと水納くんが、似ている……?」
信じられないといった表情で、色芸は先輩の言葉を復唱した。
「……本当なの、水納くん?」
「え?」
「本当に、わたしがメロを想って泣くことは、おかしくないことだと思う?」
瞳を揺らし、首を傾けながら、答えを求める色芸はすがるように俺に問うた。
色芸はまだ何も知らない。
それは彼女がオタクの域には達していないから。
もし色芸がこれからたくさんの漫画やアニメに触れれば、二次元の世界にどっぷりと浸かれば、いずれ彼女も理解することになるだろう。
それでも、いますぐ答えが欲しいのなら……俺は、彼女と同調してみせる。
「当たり前だよ。ていうか、それが俺の日常。俺の推しキャラは、いつも負けてるからさ」
「……そう、なのね。……わかったわ」
目を閉じ、色芸は俺の返事を咀嚼する。
飲み込み、味わい――やがて、薄い笑みを見せてくれた。
「メロは、報われることはなかったけれど、与えられた役割を、最後まで演じ切ったのね」
「……演じる、っていうのは、俺は違うと思うよ、色芸さん」
「どう違うの?」
「だって、キャラクター達は、作中でお芝居をしていたわけじゃないでしょ。それぞれの人生を精一杯生きて、それを作者が描いてくれたんだよ。だから、演じてたわけじゃないと思う」
キコが結ばれたのも、サイが負けたのも、演技なんかじゃない。
そりゃ、世界観もストーリーも全部作者が考えたものだろうけれど、作中の世界は、確かに雑誌の中で存在していたんだ。
次元の向こうに実在する世界で、みんな、それぞれの青春時代を謳歌していた。
それが、俺の譲れない考えだ。
「……不思議ね。水納くんや妻館先輩に言われると、それが正しいことのように思えてきてしまうわ」
「別に正しいことなんてないよ。漫画をどう楽しむかなんて、人それぞれだし。だから、色芸さんが楽しみたいように楽しめばいいし、感じたいように感じればいいんだよ。それが正解」
「だったら……わたしは、水納くんと似た者同士みたいだから……水納くんと同じような楽しみ方をするのが、一番合ってるのかしら、ね」
や、それはどうだろう……。
二次元のことを考えすぎるあまり、現実世界に支障が出ちゃうぞ。
「メロが報われなかったから。わたしが泣いていた理由は以上だけど……これで気が済んだ?」
俺の疑問に、色芸は素直に答えてくれた。
謎を全て解消させてよかったと思う。
俺の中に残っていたしこりは、完全に消え去っていた。
まさか色芸が、漫画のキャラのことで泣いていたとは、予想外もいいところだったが。
色芸の身に何かあるような嫌な理由じゃなくてよかったよ。
「……すまない、色芸さん。わたしからも一つ、訊いても構わないだろうか?」
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