4.絵描きの秘密

「……二つ、気になってることがあるんだ」


 切り出した俺に、色芸は頷く。


「一つは、俺と憬先輩共通の疑問なんだけど、どうして色芸さんは漫画のことを隠したいのかってこと」

「……まあ、当たり前の疑問よね」

「も、もしかして色芸さんは漫画が好きなのか!?」


 乗っかるようにして、先輩が質問を付け加えた。


「……好きか嫌いかで言えば、好きです。ただし……」


 色芸は一度言葉を切り、視線を俺の背後に向ける。

 そこには、漫画やラノベが詰め込まれた本棚がある。


「お二人ほど熱心に情熱を傾けているかというと、そうではありません。わたしが漫画を読み始めてからまだ七、八か月程度。それも、読んでいるのはホーリーだけですから」

「そうなのか。それでも漫画好きには変わらないぞ。いやー、よかった!」

「よかった?」


 先輩の感想に、色芸は首を傾げた。


 あまり気にしないでくれ。

 先輩は、俺以来の同好の士と出会えて、ご機嫌なんだ。


「じゃあ、色芸さんが漫画のことを隠したい理由は、漫画好きなのを鬼童とか美術部の友達とかに知られたくないから、ってことでいいんだね?」

「少し違うわね。別に、生徒に知られる分には全く構わないのよ」


 ……あれ?


「けれど、生徒が知れば教師に伝わる。教師に伝われば保護者の耳にも入るわ。わたしが知られたくないのは、わたしの両親。二人とも画家なのだけれど」

「ああ、ウィキに載ってた」

「……わたしのこと、調べたのね」

「……すみません」


 身辺調査を同級生の男子にされるのは、気分が悪いだろう。


「まあいいわ。そう、二人とも日本人有数の画家。娘に『絵描』なんて名付けるくらいの美術探究者。……そんなお似合いカップルは、揃って漫画が大嫌いなの」


 皮肉めいた笑みを浮かべながら、しかし色芸は吐き捨てるように話す。


「漫画だけじゃなくて、アニメとかもかしら。とにかく、そういう低俗で品格に欠けるサブカルチャーは、彼らの価値観では忌むべきもの、見たら目が腐るようなものなのよ」

「そ、そんな……ひどい……」


 ハイテンションから一転、先輩は青ざめながら呟いた。

 自分の好きなものを低俗だ品格に欠けるだ言われたら、誰だってショックを受けるだろう。


 俺だってそうだ。

 同時に、俺の場合は怒りさえ覚える。


 高尚な画家様がなんだってんだ。

 一般庶民の楽しみが、あんたらにはわからないんだ。

 俺達凡人にだってな、美術の素晴らしさなんか一個もわかんねーぞバーカ!


 ……これ何も罵倒になってないな。

 と、とにかく、オタク舐めんなよ!


「娘が隠れて漫画を読んでいたなんて知れたら、間違いなく大目玉を食らうわ。それどころか、わたしはしばらく家のアトリエに缶詰めにされるでしょうね。学校にも行かせずに、朝から晩までひたすら絵を描いて、正気を取り戻させるように」

「そ、そんなの虐待じゃないか」

「いいえ、鍛錬よ。だって、わたしは絵描きの娘だもの。そんなことは幼い頃に何度もあったわ。……もっとも、わたしは絵を描くのが大好きだから、なんの罰にもならないのだけれど」


 すました顔でそう言い切る色芸に、俺は背筋が冷たくなった。


 鍛錬?

 家から出さずに一日中絵を描かせ続けることが?


 画家になる人間が毎日どれほどの時間絵を描くのかなんて、俺は全く知らない。

 ……知らないからこそ、色芸の家庭は異常だと思った。


「でも、学校を休むのは嫌だし、自由時間が一切なくなるのも嫌だから、両親には漫画のことは知られたくないの。……だから、水納くん、妻館先輩、どうか、誰にも言わないでください」

「い、言わない。絶対に言わないよ」

「私もだ。必ず秘密を守る」

「ありがとうございます。……お二人がいい人で、本当によかったわ」


 いい人以前に、こんな話を聞かされて言いふらすヤツがいたら、悪魔だよ。

 むしろ、色芸の両親こそが、何も知らない俺には悪魔に感じられる。


「一つ目の質問は、これでいいかしら。もう一つは?」

「……そっちは、もし言いたくなかったら、答えなくてもいいんだけど……」


 こちらのほうが本題だ。


 漫画なんかより遥かに他言したくないことかもしれない。

 地雷を踏むかもしれない。

 俺如きに追及されるなんて、迷惑極まりない余計なお世話かもしれない。


 それでも、色芸が俺に善人であることを求めるのなら、俺は、彼女との間に一点のわだかまりも残すべきでない。

 俺と色芸は、フェアな関係でなければならないと思った。


「色芸さんは、なんであのとき――泣いていたの?」

「……そう。水納くん、やっぱり気付いてたのね」


 色芸は、まず肯定した。

 俺の見間違いという可能性が消え、一気に緊張感が高まる。


「……変な話だけど……色芸さん、いじめにあってたりなんか、しないよね……?」

「な、なんだと!?」


 俺の言葉に、先輩が表情を急変させた。

 先輩は色芸が泣いていたことも知らないのだ。

 俺の口から発せられた陰惨な単語に、さぞかし驚いていることだろう。


 俺だって、それが全くの憶測、杞憂であると信じたい。

 だから、この場ではっきりと色芸に否定してもらいたのだ。


 そんなことはない、泣いていたのは違う理由だ、と。


「…………もし、そうだと言ったら、どうするのかしら?」


 しかし、色芸は否定ではなく仮定を返してきた。


「わたしがいじめを受けていると知ったら、水納くんは、わたしのことを助けてくれる?」

「そ、れは……」


 色芸の質問に、俺は即答できなかった。


 俺はサイをいじめから救ったようなヒーローではない。

 たとえいじめの存在を認知したとしても、悪に立ち向かう勇気など俺にはありはしない。

 被害者を救うことなんて、俺にはできない。


 わかっている、俺は自分の身のほどを知っている。

 自分自身に火の粉が飛んでくるのを恐れ、見て見ぬふりをするだろう。


 ……だけどもし。

 もし色芸が、俺に助けを求めてきたら。

 漫画のことを誰にも言わないでと頼んできたときのように、目の前で頭を下げられたなら。


 ヒーローじゃなくたって、卑屈な根暗オタクだって、彼女を助けたいとは思うのだ。


「……俺には、助けられないけれど……先生に言う、と思う……」

「……へえ。優しいのね、水納くん」


 俺にできるであろう唯一の行動を聞いて、色芸はふっと頬を緩めた。


「どこのどいつなんだ! そんな卑劣なヤツは! 私がガツンと言ってやる!」

「大丈夫ですよ、妻館先輩。ただのたとえ話ですから。わたしはいじめになど遭っていません」


 否定した色芸に、先輩はほっと胸を撫で下ろした。

 俺も同じだ。否定してくれて、本当によかった。


「心配してくれてありがとう、水納くん。……でも、意外ね。水納くんは普段、他人のことになんてまるで関心がないような人に見えていたのだけれど。また誤解してしまったわ」

「や、それはまあ……」


 その認識は合っている。

 俺は三次元の人間や出来事になんの興味もない。

 二次元の世界だけが俺の人生。

 色芸がサイに似てさえいなければ、いじめを疑ったりなんかしなかったよ。


「わたしが泣いていた理由がいじめではないとわかったけれど、まだその質問を続ける?」

「い、いや、もう安心したから。色芸さんも言いたくないだろうし……」

「言ってもいいのよ? バカにされるくらい、本当にくだらない理由だから」


 色芸は腕を組むと、俺を挑発するように下目遣いで続けた。


「どうなの、水納くん? わたしが泣いていた理由を知りたい? それとも、どうでもいい?」


 それは俺を嘲るような高圧的な視線にも思える。

 そういう視線を、俺はいままでクラスメイトになった連中から長年に渡って送られ続けてきた。

 まさに、見慣れた目だ。


 ……だが一方で、何か俺を試すような視線であるようにも感じられた。


 色芸絵描という少女が、水納宏慈という男を、自分のコミュニティーに入れてもいいのかどうか、今後交友関係を持っていいものかどうか、裁定を下すための判断材料として。


 一昨日までの俺であれば、そんな判断はこちらから願い下げだった。

 俺が色芸と釣り合うような、対等な立場に立てるような人間でないことは百も承知だ。

 わざわざテストを受けなくたってわかっている。

 俺は落第生だ。それで全く構わない。


 ――けれど、色芸の秘密を知ってしまったいまとなっては。

 色芸が、実は俺と近しい趣味嗜好の人間なのかもしれないと思ってしまったいまとなっては。


 彼女に善人であることを求められたからだけじゃない。

 去年、熱心にサブ研の勧誘をする先輩の姿に心惹かれたときのように。

 俺は、色芸の側に近づいてみたいと、淡い願いを抱いたのだ。


 三次元の存在だとしても、色芸絵描は、もはやどうでもいい人間ではない。

 …………と、思った。


「……教えて、ほしい」

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