5.推しを救いたい 2

「――――で、きた……」


 最後の一文を打ち終わると、俺はどっかりとソファの背もたれに背中を預けた。

 天井を見上げ、深く長く息を吐く。

 数時間呼吸を忘れていたような感覚だ。


「お疲れ、宏慈」


 先輩の声に反応し、顔を正面へと正す。

 テーブルに肘をつき、頬を両手で支えた先輩がにこにこと笑っていた。


「サイを、幸せにできたか?」

「……多分」

「そうか、よかった」


 慈しむような笑顔を浮かべる先輩。

 一体何がおかしくて笑っているのだろう。


「このまま力作を読ませてもらいところだが……実はな、宏慈。あと五分で完全下校時刻だ」

「……え?」


 言われて腕時計に目をやると、一八時五五分を指していた。


 二時間半近くも書き続けていたのか。

 先輩ルールで定められたノートパソコンの使用時間を越えてしまっている。


 時間の感覚が全くなかった。

 この部屋に窓がないのも原因かもしれないが、それ以上に集中していたんだろう。

 文章作成ソフトに表示された総文字数を見ると、一万五千字に迫ろうとしている。


「こ、壊れなくてよかった……」

「安心するのは後回しにして、片付けを始めてくれ」


 テーブルにあった単行本は既に本棚へと戻されていた。


 俺は急いでUSBメモリを取り出すと、その中に書き上げたファイルを保存する。

 ノートパソコンをシャットダウンし、電源コードと共に備品棚へと片付けた。


 漫画雑誌をスクールバッグの中にしまう時間も惜しみ、小脇に抱えて立ち上がる。


「帰宅準備、オッケーです」

「よし、急ぐぞ」


 扉の前で待機していた先輩が、ガラリと音を立てて開いた。


「……一雨来てしまったようだな」

「え、マジですか?」


 部屋の電気を消してから先輩に続いて廊下へ出ると、すっかり暗くなった空から雨粒が降り注ぐ様子が確認できた。


 先程屋上から空を見上げたときに怪しいと思ったが、やはり降り始めてしまったか。

 傘を持っていないので、濡れてしまうのは避けられない。


「さっさと鍵を返して帰ろう」


 先輩は部屋の鍵を閉めると、校舎一階にある教員室に向かって歩き出した。

 文化部部室棟から校舎へ戻る渡り廊下を、先輩の背中を見ながら歩く。


 完全下校時刻を迎えた学校は不気味なくらい静かで、ばらばらと雨が校舎に打ち付ける音だけが耳に残った。

 びゅう、と中庭から渡り廊下に一陣の風が流れ込む。


「さむっ」


 思わず首を縮こまらせた。

 陽が落ち、雨も降ったことでだいぶ気温が下がったのだろう。

 もう桜も散ったというのに、まるで冬に逆戻りしたかのようだ。


 足元から下半身へ冷えが広がっていく。

 ……と、俺は下腹部に急激な違和感を感じた。


「憬先輩」

「ん、どうした?」


 振り返った先輩に、精一杯格好つける。


「どうやら、さっき飲んだ緑茶には人間の原始的欲求に作用する危険な物質が含まれていたようです。津波の如く押し寄せる衝動に、俺はもう抗えそうにありません」

「ええ!? だ、大丈夫か!?」

「早い話がカフェインの取り過ぎで膀胱がデンジャラスゾーンです」


 てか、もう歩くのもヤバい。


「……鍵は私一人で返してくるから、早く行ってこい」


 呆れたような顔をした先輩を追い抜き、俺はトイレへと急いだ。


 二次創作の執筆中は没頭していたおかげか全く催さなかったけれど、緊張の糸が切れた途端に急に来た。

 そりゃ緑茶を一リットルも飲めばこうなる。バカなことをした。


 ここからだと校舎一階の美術室横のトイレが近いはずだ。

 一分もあれば余裕で着く。


 均衡を崩さないように慎重に、かつなるべく急ぎ足で、目的の場所を目指す。

 完全下校時刻を知らせる一九時のチャイムが鳴り響く中、俺が乞い願った聖地はあと数メートルのところまで迫っていた。


 ありがとう神様。これも日頃の行いが良いためか。

 それとも、中学時代昼食をとる場所として真っ先に選んでいたおかげか。

 きっと俺にはトイレの神様の加護プロテクションが授けられているんだ。

 そんな柄でもない中二病的発想をしつつ、俺は駆け出した。


 ――刹那、俺の目前で女子トイレの扉が開き、中から一人の少女が飛び出してきた。

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