6.接触
廊下を走るんじゃなかった。
そんな後悔が頭をよぎる間もなく、俺と少女は交錯した。
二人の身体がぶつかる寸前、なんとか相手をかわそうと必死に俺の身体を捻った結果、真正面から激突する事態は避けられた。
もしまともに衝突していたら、男女の体格差故に少女のダメージは少なくなかっただろう。
俺の鳩尾と少女の肘が接触する。
疾走中に無理やり身体を捻ったことでバランスを崩した俺は、突き飛ばされたかのように廊下へと倒れ込んだ。
「ぐうううおおおおおおあああああああ!!?」
腹に受けた肘打ちと、転んだ際の衝撃が強烈な勢いで膀胱に刺激を与える。
俺は呻き声をあげながら必死に下腹部を押さえ、のたうち回るように廊下を転がった。
なに!? なんで急にトイレから飛び出してくんの!? 危ないでしょ死角なんだから!
漫画の王道ともいえる、食パンを咥えたヒロインが「ヤッバ~い遅刻遅刻~☆」って言いながら曲がり角で男子とぶつかるシチュエーションは恋の予感をこれでもかと押し上げてくれるけど、浪漫の欠片もないわこんなの。
いまの俺は「ヤッバ~い恥骨恥骨~☆」って言いながら尿管をこれでもかと押し上げることしかできない。
我慢の尿道ともいえる。
バカ! くだらんこと考えてたら決壊する!
トイレの神様助けてええええ! 俺にプロテクションをおおおおお!
極限状態で揺れる俺の瞳に、呆然と座り込んでいた少女が腰を上げる様子が映った。
「……ごめんなさい」
少女は悶絶中の男に向かって軽く頭を下げると、何かを拾い上げ、そのままトイレ横の美術室へと消えていった。
(――もう無理だ。我慢できない)
俺は最後の力を振り絞って立ち上がり、ラグビー部員顔負けの勢いで男子トイレへと突進した。
脂汗で滑る指で社会の窓を開きながら疾走する。引っ張り出す。
便器の前に立った瞬間、己の精神力の限界を迎え、体内で抑圧され続けたものが一気に解放された。
至福の瞬間。とめどなく溢れ出るものは、陶器さえも穿つのではないかと感じさせるほどの勢いで放出されていく。
男の身に生まれてよかったと心から思う。
もし俺が女であったならば間に合わなかったに違いない。
人生最長の時間をかけて、溜まっていたものを一滴残らず出し切った。
用を足し終えた俺は手洗い場へと移動。手をしっかりと洗ってからトイレを出た。
廊下には俺のスクールバッグと、教科書やノートなどが散らばっている。
少女とぶつかったときに、衝撃で落としてしまったのだ。
バッグの口を閉じておけばよかったと後悔しながら、しゃがんで拾い集めていく。
(つーか、誰だったんだあいつ……)
一冊一冊回収しながら、俺は先程の事故を思い浮かべた。
確か黒髪でショートヘアの女子生徒だった。身長は女子の平均くらいだったか。
その程度の情報だけじゃ、学内で該当する女子は多数いる。
(……いや、待てよ)
あの女子は俺とぶつかったあと、美術室へと入っていった。
完全下校時刻を過ぎて、一般の生徒がそんな場所に用があるとは思えない。
美術部の部員であると考えるのが自然だ。
黒髪ショートで、美術部部員。
美術部に知り合いはいないが、思い当たる生徒を俺は一人知っている。
まさか、いまのって……。
「
顔を上げ、目と鼻の先にある美術室を見つめながら、その生徒の名を呟いた。
彼女とは同学年で、現在クラスメイトだ。
でも、別組だった一年生のときから、俺はその名前を知っている。
というか、全校生徒が知っている。記憶せざるを得なかっただろう。
毎月月初に体育館で行われる全校集会。
校長先生のクソ長いご高説が終わったあと、お決まりのように彼女は登壇し、教師陣と生徒達から賛美と拍手を送られていた。
――皆さん、大変喜ばしいことに、美術部の
毎月毎月そんな紹介を聞かされていたら、嫌でも覚える。
てか、名前にインパクトがありすぎだ。
しきえがく。色芸って名字はまだいい。
絵描って。えがくって。
人名にする単語じゃねーだろ。キラキラネームも甚だしいわ。
彼女の親は何を考えているんだ。
とはいえ、名は体を表すとも言うべきか、彼女は大層優れた絵描きらしい。
一回の受賞だけを何度も紹介されるはずもなく、毎月のように何かしらの賞を獲っているんだろう。
そんなわけで、俺は一切関わりのない彼女のことを、一方的に知っている。
その色芸が、おそらくいま、俺とぶつかったのだ。
(……だからなんだって話だけど)
強いて言えば、彼女は謝ったけれど、俺はまだ謝っていない。
トイレから飛び出してきた彼女も悪いが、廊下を走っていた俺も当然悪い。
こちらからも謝るべきだろう。
美術部のエースとも言える彼女は、きっとスクールカースト最上位の人間だ。
最底辺の俺が話しかけるなんてのはおこがましいし、向こうにとっても迷惑かもしれない。
だが、ぶつかっておいて謝りもしないのはさすがに道徳に欠ける。
彼女は美術室に入っていった。まだ中にいるかもしれない。
俺は立ち上がり、美術室の扉の前に立った。
ガラス越しに室内の様子を窺うが、部屋の電気は消され、中に人が残っているようには見えなかった。
俺がトイレに入っている間に下校してしまったのだろうか。
念の為確認しようと扉に手をかけたが、しっかりと施錠されていた。
仕方ない、明日教室で謝ろう。
そう決意し、スクールバッグを肩に掛ける。
……と、足元に漫画雑誌が落ちているのに気付いた。
「あっぶね、教科書なんかよりずっと大事なものを……」
危うく回収し忘れるところだった。今週号はまだ全部読んでいないのだ。
ゆっくりと雑誌に手を伸ばし……指が触れる寸前、止まった。
(色芸のヤツ――泣いてた?)
頭の中で、事故の追蹤が続いていた。
尿意に抗うのに必死で、認識の外にあった記憶をなんとか辿る。
脳内のドライブレコーダーを繰り返し再生し、色芸の顔を目一杯ズームする。
この記憶映像が正しければ、あのとき、色芸の頬には確かに涙の跡があった。
俺とぶつかったのが痛くて、泣かせてしまったのか。
……いや、違う。
接触する前、女子トイレから飛び出して来た時点で、色芸の頬は濡れていた。
トイレの中で、隠れるように一人泣く。
このシチュエーションから類推される言葉は、ひらがな三文字で表せる。
――いじめ、だ。
俺はいじめを受けたことはない。
気持ち悪い根暗のオタク野郎としてクラスメイトから疎まれ、軽んじられ、遠ざけられたことはあるが、その程度ならいじめに分類されないだろう。
日本中、世界中のスクールカースト最下層の人間にとって、それはただのありふれた日常だ。
最下層の中でも運の悪い一部の生徒が、いじめという陰惨で卑劣な行為の被害者になる。
……その運の悪い生徒が、まさか、あの色芸絵描だというのか?
なんの証拠もない憶測。
たまたま目薬でもさしたあとだったのかもしれない。
お通じが来なくて苦しんでいるだけかもしれない。
そもそも俺の見間違いだったのかもしれない。
第一、毎月表彰されるような優秀な生徒である色芸がいじめの対象になんてなるわけないし、むしろ日々友人が増えているだろう。
……それでも、俺がいじめの可能性を捨て切れない理由は、目の前の漫画雑誌にあった。
今日最終回を迎えた漫画のヒロイン二人が表紙に描かれている。
そのうち一人は、俺の推しであるサイ。
物語の序盤、サイはいじめを受けていた。
その描写のリアルさに、読んでいて思わず眉をひそめてしまうこともあった。
そんな最悪な状況からサイを救い出してくれたのが主人公だった。
俺がサイ推しになったのも、この境遇が大きく影響している。
そして、サイの髪型は黒髪ショート。
どことなく、色芸はサイと雰囲気が似ていた。
……いや、全っ然似てないけど。三次元の女なんて二次元の足元にも及ばないけど。
それでも、俺はうっすらと、サイと色芸絵描のことを重ね合わせてしまった。
「……バァ~カじゃねーの、俺」
自分の発想がおかしくて、一人で薄く笑った。
サイがいじめを受けていたから、色芸もいじめられている?
バカバカしい。二次元と三次元を同一視するなんてどうかしている。
きっと、色芸の目にゴミでも入ってたんだろう。
もしも、仮に、万が一、色芸がいじめ被害者だったとして。
俺とは何一つ関係がないし、俺にはどうすることもできない。
俺は、サイを救った主人公のようなヒーローじゃないのだ。
(ていうか、あいつ最後の最後でサイのこと泣かせたしな)
俺からしてみりゃ主人公も加害者だ。
(――もう余計なことを考えるのは止めよう)
俺は俺らしく、二次元の世界の出来事だけを考えてればいい。
三次元など、どうでもいい。
明日教室で、ぶつかったことを謝って、それで色芸との関係は終わりだ。
今度こそ俺は雑誌を拾い上げ、スクールバッグの中へとしまった。
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