沖縄で見た坂の話
人には、ふとした時に思い出す景色というものがあると思う。それは例えばヨーロッパにある華やかなステンドグラスで彩られた教会だったり、雲の上にある山頂から見た壮大な景色だったり、はたまた昔よく通っていた駄菓子屋の曲がり角のようなノスタルジーを感じるものだったりと、人によって様々だろう。きっとその人生の中で格別に心に残っているものが、なにかしらのきっかけで心の表層に現れるのだ。
私にもそういう、心に深く残っている景色が2つほどある。
一つはかつて私が通っていた大学の農場から見える夕景である。私が在学中通っていた北部キャンパスには南北に伸びる大きな道路が存在しており、その北側に道路を挟むように農学部の農場があった。大学の所在地が学生街であることもあって周りには比較的建物が多く、それゆえ農場の前を通ると急に景色が開けるのだ。建物の明かりや街灯がすこし離れ、次第に暗くなっていく場所で、太陽が周りを赤く照らしながら降りていく。私はよく、その一種のノスタルジーを含んだ美しい風景を数秒眺めてから帰路についていた。
そして、もう一つの景色が沖縄で見たとある坂である。
コロナによる緊急事態宣言の直前、ほどよく暖かい3月の初旬に、私は数名の友人と沖縄に旅行に来ていた。私を含め半分ほどは沖縄に来るのが初めてであったのでさほど冒険することはなく、ダイビングを楽しんだり、美ら海水族館に行ったりと沖縄定番観光地を満喫していた。そして私がかの坂と出会ったのは首里城を周り終え、国際通りへ向かう道中であった。
首里城は沖縄の中心部から少し離れた丘の上にあった。国際通りまで歩くには少々遠い場所にあったが、せっかく沖縄に来たのだから時間もあるしと私たちは街並みを眺めつつゆっくり歩いて帰ることにした。時間は正午を少し回り、天気は晴天で、少し汗で滲んだ肌をさわやかな風が撫でていた。澄み切った青い空に雲が2,3ほど流れていたのを覚えている。
友人たちは次はどこに行くだとか、サータアンダギーを食べようだとか浮かれた様子で話していたが、私はというと首里城を歩き回ったことで体力を消耗し、友人たちの数歩後ろで周りの景色をぼうっと眺めながら道路を下っていた。この辺りは町の喧騒から少し離れ落ち着いた住宅街となっていた。いかにも沖縄らしい石垣をこさえた一軒家が旅気分を搔き立てる。どうも沖縄には野良猫が多いようで、車の下や家の影で涼んでいるのがよく見られた。
気持ちよさそうに寝る猫に癒されつつ歩いている時、ある景色が目に留まった。住宅の間に少し広めの道路が伸びており、その奥に沖縄の中心地がわずかに見えていた。行ってしまえばただ家と家に挟まれた下り坂である。しかしなぜか私はそのなんて事のない景色に心惹かれ、気持ちそのままに、ゆっくり坂に近づいて行った。
ふらふらと、しかし何か確信を持ったように進む足がぴたりと止まる。
その下り坂から見える景色は、あまりに綺麗だった。晴天の空の下、遠くには東シナ海が広がっており小さくなった港が見える。手前には首里城のある丘の緑、少し奥に国際通りやらの中心街があるのがわかる。坂は思ったよりも急で、階段状にはなっておらず白い道路が太陽光を強く反射していた。遮るものがなくのびのびと吹く風が軽妙に木々を鳴らしている。
改めて言うが、ただの坂である。海の見える町ならばどこにでもあるような光景だろう。きっと以前にも違う場所で、似たようなものは見ているはずである。それでも私は、この景色に魅入られた。今まで歩いていた沖縄という空間を跨ぎ、何か別の、ここではない場所にいる気分だった。その空間の、その瞬間の、この風景の中にいることが心地よかった。
私はこの瞬間をカメラに収めようとポケットのスマホに手を伸ばした。だが、すぐにやめた。何となく、写真に収めた途端、この美しい景色は絵の具で塗り固めたような汚い色に変わってしまう様な予感がした。そしてそれは写真の中だけではなく、今見ているこの景色も、心の中に残り思い出す景色も同様に変わってしまう気がした。
だから、私はただこの中にいることにした。この隔絶された空間を今の私だけのものにした。他人にも、未来の私にも渡したくなかった。
「おーい、何してんのー?」
友人の声で私は沖縄に戻ってきた。どれくらい佇んでいたのか、友人たちははるか先まで進んでしまっていた。
急いで彼らに追いつこうと思い走り出す直前、もう一度あの景色を見たくて後ろを振り返った。しかしそこにはただの沖縄の景色が広がっていた。
私は多少の寂しさと思惑がうまくいった喜びを感じつつ、友人達に向き直る。この後町に戻ったら、彼らとサータアンダギーでも食べながら猫の話をしようと思った。
徒然魚(つれづれうお) 石魚 @sakanakanadayo
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