二人
真夜中。工場街から抜け出すまでは、人こそ轢かなかったものの、何度も壁や鉄柱に車体を擦り、そのたびに隣でクロタエがワアとかギャアとかへんな声をあげ、運転変わって、と叫んでいた。その反応が妙に面白くて、わたしは笑いながらハンドルを切った。
街の外にはほとんど建物がなかったので、走りやすくなったのもあるだろうけど、しばらくすれば運転にも慣れた。アクセルやブレーキやレバーについて必死に語っていたクロタエが静かになり、眠ってしまうくらいには。
エデンビルバンから遠ざかるにつれて雨も止み、やがて日が昇った。窓を開けると清涼な空気が流れ込み、クロタエの髪がゆらゆらと揺れる。
「……気持ちいい」
目を覚ましたクロタエの唇が動く。殴られた時に切れたのか、血が固まって痛々しい。風に煽られた髪で表情は隠れているけれど、痣になっているだろう。それでも、生きている。
「よく眠れた?」
「うん……家よりずっと」
クロタエはわたしを見ようとしない。頭を窓べりに傾け、また眠るのかと思ったけれど、小さな声で話し出した。声をひそめる理由なんてないのに。
「夜中のうちに車を盗んで、迎えに行こうと思ってた」
廊下に放り出された車のキー。殴られたクロタエのうめき声が耳の中で繰り返される。
「シロネ、乗り気じゃなさそうだったから……一人でやって、最後に、着いてくるか決めてもらおうと思ってたんだ」
「わたしは絶対一緒に行くだろうとか言っておいて?」
「だって、ぼくがああ言えばきみは迷ってくれるもの」
「……どうして泣くの、クロタエ」
鼻血のあとを残したままのクロタエは、ひどく弱々しく見えた。音もなく、透明な雫が絶え間なく溢れる。こんなに小さくてあわれな生き物をわたしは他に知らないし、泣き顔すら綺麗なんて怖い。涙が鼻血を緩やかに溶かしていく。片手をハンドルから離して、クロタエの目元を拭う。クロタエの頬はあたたかい。
「……来て、くれて……ありがとう」
それからわたしたちは、お互いについて思っていることをつらつらと話した。話し続けて、会話が止まることはなかった。嬉しかった言葉や、腹立たしかったこと。あの時クロタエが見つけた缶のように、わたしたちの間にはたくさんの愛しいものがころがっていて、その一つ一つに気づいて拾い上げることができているか、答え合わせをしているみたいだった。
「シロネ、あれ」
唐突に、クロタエの意識が窓の外に向いたのを感じる。わかっている、わたしも同じだ。汚れたフロントガラスの向こうに伸びた、緩やかにうねる道。視界を塞いでいた木々がまばらになり、流れる景色が高さのない草に変わっていく。広がるのは青空と、草原だ。
結局、半日以上走ってたどり着いたこの景色について、わたしもクロタエもなにひとつ言葉にできなかった。道のど真ん中に車を停めて、ドアも閉めずに飛び出した。靴の裏に伝わる柔らかな草の感触。最初はおっかなびっくり歩いていたはずなのに、気づけばわたしたちは靴を脱ぎ捨て、走って、走って、声をあげて笑っていた。前を行くクロタエに抱きついて清々しい緑に倒れこむ。また笑う。街では聞いたこともない声で、見たこともない表情で笑うクロタエ。これは産声だと思った。
「ここ、草原? 草原だよね?」
「多分……いや、違ってたって別にいいよ」
だって、こんなに美しいのだから。
エデンビルバンのくすんだ空とは違う。ハミオンの中庭で感じた陽光よりも優しく温かい。ここは誰の手も入らない、ただの草原。それがとてつもなく巨大な喜びとなって胸を満たす。
「クロタエ」
「なに?」
何度も考えたことがある。例えば、初めて出会ったあの日、腕を折って路地でうずくまっていたのがクロタエでなくても、わたしは助けたのだろうか。クロタエ以外を大切に思ったのだろうか。もしわたしに兄や姉がいて、エデンビルバンに落ちてきたのがわたしでなくても、クロタエは一緒に両親の遺体を運んでくれたのだろうか。答えは出ないが、考えずにはいられない。けれど、それだけの可能性の中で出会ったのがわたしたち二人なら、ここに至る道中がどれだけ苦しかったとしても、今この現実だけでもう十分だと思った。
「好きだよ」
ずっと言えずにいた言葉が、驚くほど簡単に口から零れ出た。クロタエが笑う。その顔をこの先ずっと見ていたい。わたしはお前みたいに綺麗じゃないし、この手は汚れきっているけれど。
「ぼくも好きだよ、シロネ」
殻の中で眠る命を直前で摘み取るように、街に、大人に、人生を搾取されるはずだったわたしたち。唇を寄せて笑って、こんなに幸福なことはない。こうも簡単だったのか。いや、簡単ではなかったか。けれど今となっては、思っていたほど困難でもなかった気がする。そうだろ、クロタエ。
「これからどうしよう」
クロタエは空を仰いだまま、少し上ずった声で言う。
「なんだってできるよ。金はあまりないけど。ここらの街に住んでもいいし、車でいけるとこまで行ってもいい」
「旅しながらその日暮らしとか?」
「そういうのもいいね」
「草原に家を建てる?」
「まともな家はできそうにないけど、クロタエとならいいよ」
わたしはクロタエがいればあとはどうだってよくて、どこにいたっていい。クロタエが望むなら、最初からなんだってよかった。
「なにがしたい、クロタエ」
風が吹き抜ける。頭上を飛び去る鳥のさえずりが聞こえる。
クロタエが、わたしの手を握る。
バロットにはならない。 古海うろこ @urumiuroko
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