孵化

 ミドリと車は、騒ぎを聞きつけてやってきた中央区の人々に任せることにした。ハミオンの人間だと教えたので、車の部品から身につけた靴まで、もうあの場にはないかもしれない。もしかすると、ミドリも。

 雨の真夜中とは思えない喧騒を背に、わたしは一度診療所に戻った。扉に手をかけた時、背後から「先生」と呼ぶ声がした。振り返ればキトヨさんが立っている。南区の工場地帯は昼夜問わず動いているから、騒ぎを聞いて駆けつけたのだろう。クロタエはしばらく日勤だから家か、と耳鳴りが響く中で考えた。

「すみません、キトヨさん。これからは別の医者に罹ってください」

「……そう。ねえ先生、これを持って行ってちょうだい」

 彼女は首から下げた紐を服の中から引っ張り上げる。傷んだ紐とは対照的に、よく手入れされた石のついたネックレス。

「別に高価なものじゃないけれど、お守りよ。この先、たくさんの幸福がありますように」

 それはまるで、わたしではなく、過去のキトヨさん自身に投げかけたかのような言葉だった。喧騒の中に立つ彼女だけが妙にはっきりと、静かな存在感を持っていた。軽く頭を下げて、扉を閉める。体のあちこちが痛み、しばらく床にうずくまっていた。まだ夜明けは遠い。荷物をまとめて、これからのことを考える。わたしは、クロタエを助けたかった。わたしの人生はクロタエに救われたのだから、その全てを捧げたい。ここに居てはだめなのだ。

 寝室の床下から青い缶を取り出す。錆びついた缶の中には束になった紙幣。クロタエの話を聞いて、私も少しずつ金を貯めていた。紙幣を鞄に突っ込めば缶の底から黄ばんだ薬包紙が現れる。中身を膿盆に出す。あの日、手のひらに握った両親の骨。その上に二人の遺書を重ねて火をつけた。じりじりと端から焦げて崩れ落ちる。

 白状しよう。わたしはハミオンの第一王子を殺した。そして、クロタエの実父も殺した。あれはわたしがやったんだよ、クロタエ。渡したのは睡眠薬どころか薬でさえなかったし、お前の父親は粉塵で肺を患ってこの診療所に通っていただろう。簡単だったよ。クロタエは、エデンビルバンに落ちてわたしが見つけた唯一の光だ。変わらずきれいでいて。そしてわたしを導いてくれ。

 手紙が燃え尽きる頃、診療所を出る。





 クロタエの家に行ったことがない。なんでも頷くクロタエが、唯一嫌がったことだった。住所は知っている。南区十二番五号に建つアパートの一階だ。エデンビルバンは南に下るほど違法建築と犯罪が増える。クロタエの家は中央区に近い位置にあったけれど、それでも診療所の周りとは空気が違った。

「このクソガキ、住まわせてやってる恩を仇で返しやがって!」

 クロタエの住む部屋の前に着くと、こんな真夜中にも関わらず中から激しい物音と怒声が聞こえた。閉まり切っていない玄関の戸を開ける。狭い廊下でクロタエは義父にのしかかられ、仰向けに押し倒されている。手元に車のキーが転がっていた。荒い息遣い、次いで人間を殴打する鈍い音。怒りはそのままに、思わず上げそうになった悲鳴だけを飲み込む。クロタエのうめき声がやけに大きく耳に残った。これ以上クロタエを傷つけて一体どうしたいの。

 わたしのことなど見えていない無防備な男の背に寄って、鞄から包丁を取り出す。こいつがクロタエを刺した包丁だ。この時のために、ずっと大事に仕舞っていた。男の肩越しにクロタエと目が合う。かわいそうに、鼻血が出ている。クロタエが目を見開く。何か言おうとしているのがわかったけれど、わたしは言わせるものかと包丁を思い切り目の前の背中に突き刺した。びくんと大きな体が揺れて、首がわたしの方を向く。驚愕と苦痛の表情。引き抜いて、もう一度刺す。もう一度、もう一度。人体のことはよく知っている。繰り返すたび血が頬に跳ねる。そのうちクロタエに被さるように倒れた男の体を押しのけ、白衣の裾でクロタエの顔を拭ってやった。

「……シロネ、なんで、それにその怪我」

「行こう、街から出るんだろ」

 はじめから、こうすればよかったんだ。男の体から、だらだらと血が流れていく。キーを拾ってクロタエを引き起こし、赤い川を跨ぐ。車は、アパートのすぐそばに停めてあった。あちこちにへこみのある、塗装の剥げた車体。ミドリの動作を思い出しながらエンジンをかける。ぼんやりとした知識はあれど、車を運転したことはない。それでもハンドルを握り、アクセルを踏んだ。


 わたしたちはきっと、まだ産まれてすらいない。こんなひどい現実は嘘だ。本当の生誕は少し先で、けれど確実にやってくる。もうわたしたちを邪魔するものはない。さよならエデンビルバン、さよなら大人たち。

 わたしたちは、バロットにはならない。

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