天上都市

 芝生の手触りを知っている。草原とは違うのだろうか。それはわからない。

 男の子がわたしの正面に座っている。青みの強い髪が太陽に当たって、きらめく。きれいな子だ。わたしより一つ年上の彼には、五歳の弟がいた。けれどこの景色にはわたしたち二人だけで、広げたレジャーシートの上で遊んでいた。春になると大ぶりの花が咲く、緑のアーチが好きだった。

 おもちゃも食べ物も、望めば大抵のものは用意された。木編みの箱に入った焼き菓子と、つやつやと光る水筒を並べればティータイムが始まる。わたしはポケットから小瓶に入った砂糖を取り出した。上等なものらしく、紅茶に入れればそこらの角砂糖よりも上品に甘く美味しくなるから王子にあげなさいと言われた。貴重だからわたしは絶対に食べてはいけないとも。

 六歳だ。わたしはまだ六歳で、純粋で、愚かだった。世界から与えられるもの全てが、愛に包まれて見えたのだ。





 診療所の扉を叩かれて目が覚め、眠っていたことに気がついた。頭が痛い。昔の夢を見るといつもこうだ。白衣のいたるところにしわがついている。二時を指す時計。枕元に投げ出された手紙。

 財産を失い途方に暮れるクロタエを落ち着かせ、泊まっていくかと聞いたけれど、いつか一緒に住もうと持ち掛けた時のように首を振られた。その背を見送ってすぐに、わたしは両親の手紙を引っ張り出して何度も読んだ。そこに書かれた内容について考えていた。

 こんな時間に、と思いながらものろのろと起き上がって扉を開けると、外套を着た見知らぬ男がいた。目深に被ったフードから水滴が滴っている。雨が降るのは一か月ぶりだ。外は暗い。

「こんばんは、君がシロネ?」

「……あなたは」

「おれはミドリといいます、どうぞよろしく」

 ミドリと名乗った彼は、こんな夜更けに申し訳ないと謝罪し、フードを脱いで手を差し出した。物腰の柔らかな男で、わたしよりも十ほど年上に見える。雨に濡れた手は冷たかった。わたしは、ミドリの微笑みを見た瞬間、この男を知っていることに気がついた。彼は忘れているのかもしれない。昔、彼を乗せた車のハンドルを握っていた運転手の腕には、橙色の腕章が着いていたのを覚えている。

 用件は、と尋ねる前にミドリの口が動いた。

「ハミオンに来てくれ」

 瞬間、内臓が引き攣ったように震えた。咄嗟に扉を引いたが、ミドリの右手が素早く動いてそれを防ぐ。成人した男の力だった。諦めて扉から手を離し、室内に後ずさる。ミドリはゆったりとした足取りで敷居を跨いだ。

「なぜわたしが天上へ? 話が見えない」

「君の医者としての評判はハミオンにまで届いているよ。王様が君をお呼びだ」

 耳鳴りがする。足が古い回転椅子に当たり、がらりと音を立てて回る。父の代から使っているアルミの机に、鉗子が置いてある。

「君のご両親が宮廷医師だったと知っているんだろう?」

「わたしはこの街で育った。ハミオンになど縁はない」

「それは間違っている。君は六歳までハミオンに住んでいたし、これはお願いじゃなくて命令だ」

 ご両親と並んで、ドレスを着た君の写真があるよ。

 ミドリの声は変わらず穏やかだったけれど、有無を言わせない力があった。関係ない、関係ないと繰り返す。医務室の椅子に座る父と、銀のトレーを持つ母の姿、芝生の温度、紅茶のことを、覚えているからなんだというの。クロタエと出会った、ここが、わたしにとっては。

「君はこの街にずっといるつもりなの?」

 その一言で鉗子を握り、ミドリの目を狙った。クロタエの言葉がフラッシュバックする。シロネ、きみはずっとこの街にいるの?

 ミドリは素早かった。一人で平和なハミオンから中央区の端まで下りてくるくらいなのだから、護身術なんかを身につけているのかもしれない。無駄のない軽やかな動きで鉗子を持つ右手を捻られた。骨が軋み悲鳴をあげる。クロタエの告白を思い出す。腕の折れる音とはどんなものだっけ、クロタエ。ひやりとした机に上半身を倒される。九十度回転した視界の隅で、ミドリの外套が揺れる。クロタエに会いたい。

「王子が病気なんだよ。ハミオンの医者たちはお手上げだ、もう君しかいない」

「わたしは、その王子の兄を殺してる。同じように毒を盛るとは思わない?」

「なんだ、知ってるのか」

 捻り上げた手を掴む力は緩まない。この街にわたしを、わたしたちを助けてくれる人はいない。では、ハミオンにはどうだ。ずっと考えていた。

「答えは思わない、だよ。君はそんな愚かなことはしない。クロタエだっけ、君の友達? それとも恋人かな」

「な、に……」

「元気でいてほしいよね」

 アルミの天板は冷たい。指をほどいて、鉗子を捨てた。ミドリが床に落ちたそれを蹴る。

「それに、あれはご両親が悪い。だから、追放後に真相が分かっても君には自決を勧めたりしなかった。王様はそれほど悪い人ではない」

 君のせいじゃないよ。

 ミドリの言葉に慰めや同情は含まれておらず、事実の温度だけが感じられた。何度もなぞった遺書の文字がまぶたの裏を滑る。二人の息子、後継争い、くだらない派閥、逆らえない権力。シロネ、ごめんなさい。私たちは悪人なのです。王室の争いに愛する我が子を利用した。ごめんなさい。許してとは言わない。貴方は素晴らしい医者になる。だからいずれ、ハミオンの人間がやって来るでしょう。その時は。

 抵抗しないと分かると、ミドリはいたって紳士的にわたしの手を引いた。診療所を出てすぐの道を少し歩いた先、運搬用のトラックが出入りする通りに、車が停まっているのが見えた。工場街に似つかわしくない黒く艶のある車だ。雨天の真夜中でなければ、もっと目立って騒ぎになっていたかもしれない。

 雨音の中、助手席のドアが開かれる。地獄の釜かと思うほど暗い。どうぞ、とミドリが手を広げた。

「……クロタエも、一緒に連れて行ってと言えば、叶う?」

「そんなに大事なの」

 目を細めて笑う顔を黙って見返す。ミドリはあっさり、かまわないよ、と言った。

「まあ、王様もそれくらい許してくださるだろうね。なにせお子の命がかかっている。王子が生きながらえたら、絹のドレスに加えて住むところだってくれるかも?」

 夢みたいだよね。

 ミドリの口がまた柔らかく曲がる。

 そうだ、夢みたいなことだ。わたしがおとなしくハミオンへ行って、病床の王子を診れば、それだけでおしまいだ。治せなかったとして、わたしはどうなるかわからないが、クロタエをここから連れ出せる。ハミオンに行けば他の土地へ向かうトラックや船がある。おそらくハッピーエンドに一番近いだろう。


(本当に?)


 助手席に乗る。続いてミドリも運転席に座った。キーを差し込む動きをじっと見る。サイドレバーを引き、アクセルが踏まれ、ワイパーがガラスの上で踊る雨を切った。ヘッドライトが光る。この車は天上都市へ向かう。

「その子はあとで迎えに行ってあげるよ」

「……ありがとう」

 唸りを上げて車が動き出す。その瞬間、幼少期の記憶を鮮明に思い出した。これと似た黒い車で、清潔な街の中を。

「でも、必要ない」

 わたしの手のひらに、一つの筒が滑り落ちる。細く、触り慣れたそれは左袖に仕込んでいた注射器で、中は麻酔薬だ。護身用だから、濃度は医療用の比ではない。

「自分で迎えに行くから」

 ハンドルを握ったままこちらを向いたミドリの首に突き刺した。少しずれたかもしれないと思ったけれど、すぐに麻酔を注入する。

「お、おまえっ、何を、なんて、ことを」

 ミドリがわたしの手を払う。そのまま、ボールのように片手で頭を掴まれて、背後の窓ガラスに叩きつけられた。ひどい痛みに視界がぐらつく。頭が熱い。

「ここじゃ子供だって、ナイフのひとつは持ってるよ…」

 ただしクロタエは例外だ、とは教えてやらない。クロタエは優しいから、どれだけ酷くされたってやり返すことがない。そうやって、無垢なままで生きてきた。クロタエ、わたしもそうありたかった。人を傷つけることなく生きたかった。ミドリ、存在を把握していたなら、狙うべきはクロタエだった。クロタエを人質にされたら、わたしはどこへだって、黙ってついて行くしかなかったのに。

 ミドリの体がずるりと滑る。緑青に似た目玉がまぶたに隠れる。足はアクセルを踏んだまま、腕が弛緩し、座席の横に垂れた。わたしは、咄嗟にミドリが踏んでいない方のペダルに足を伸ばす。猛スピードでフロントガラスに近づく工場の壁。浮いた錆の模様がやけにはっきりと見えた。あの缶の方が美しい。クロタエの目になりたい。心を知りたい。

 轟音と衝撃、跳ねる体。





 異国の音で表すならpaに近い。どこで習ったのかだって? そんなこと明白だろう。

 鳴り響くそれのけたたましさに目を開く。額を切ったのか、たらりと血が流れてきたけれど、四肢が無事ならクロタエのところへ行くには十分だ。エアバッグと意識のないミドリを押しのけて、幸運にも潰れていない足を引き抜く。ブレーキが効いてよかった。それでも車は大きく破損して、使い物にならないが。

 受け入れてもいいと思った。わたし一人なら、きっとハミオンへ行っただろう。けれどクロタエの望みは違う。

 クロタエは、わたしと草原へ行きたいと言ったのだから。

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