草原

 クロタエが動けるようになった頃、久しぶりに二人で市場へ行った。工場街の中央に陣取った市場は、いつも人で溢れている。そこそこ繁盛しているらしい家庭料理店の、軒下に置かれた丸椅子と塗装の剥げたテーブルを確保して、わたしたちは遅い昼食を選んだ。

「何にする?」

「んー安いやつ。肉あると嬉しい」

「ちゃんと料理名を読んで答えて」

 クロタエは手書きのメニュー表をひっくり返しながら唸り、並ぶ字を目で追っている。クロタエに文字を教えたのはわたしだ。自分の名前とわたしの名前、その他の簡単な言葉は読み書きできるが、文字を追うことは得意ではない。シロネは賢いね、と事あるごとに口にしたクロタエは、無知ではあったが馬鹿ではなかった。

 ほどなくして、注文した料理が運ばれてきた。葉物とよくわからない肉の炒め物が、クロタエの口に放り込まれていく。わたしも油の絡んだそれを箸でつまんで食べた。不味くはない。そして劇的に美味しくもない。ハミオンにはもっと素晴らしい料理があると知りながら、もうずっとここの食べ物しか口にしていないわたしたちには、この安い味が馴染む。

「明日から工場に戻るね」

「そんなに急いで復帰したら傷が開く」

「でも、お金貯めたいから」

 来る日も来る日も働いて得た少ない給料から、生活費を差し引いて残る金額なんてたかが知れている。それでもクロタエはこつこつと蓄え続けていた。何のためかと聞くと、未来のためと言われた。この街で未来を見据える人間なんて。

「あのさ、ぼく、草原に行きたいんだ」

 クロタエが、わたしの白衣の袖口を掴んで言った。見たこともない草原に思いを馳せるには、あまりに安っぽくて病的なグリーン。わたしたちが草原について知っていることは少ない。脳裏に薄く張り付いた小さな草原の画。吹く風の匂いは、日差しの加減は、草の感触はどうだ?

「それ、夢で見たやつだろ」

「違うよ。調べたんだ。いろんな人に聞いたりしてさ。街を出てずっとずっと西に行ったところに草原があるって。ねえ、キトヨさんっているでしょ、南区の工場長。あの人、西から来たって言ってた」

「……馬鹿げてる。なんでわざわざ西からこんな最低の街に来るんだ。大自然に囲まれて平和に暮らしてればいいだろ」

「そんなの知らないけど、向こうから来られたならこっちからだって行ける」

 クロタエの、夜のように深い目がわたしを射抜く。クロタエはいつだって真っ直ぐで、わたしにはないものばかり持っている。どんなにぼろぼろになっても、明らかな不幸の渦中にいても、クロタエさえいれば進んでいけると思うほどまばゆい。果たしてクロタエにとってのわたしが同じかは、わからない。

「どれくらい遠いかも知らないで?」

「車だったら四時間くらいだろうって」

「無理だ。まず車がないだろ。街のトラックだって西にはいかない。仮に着いたあとは? 住む場所はどうする?」

 言い訳を探すようにそう言って、車でたった数時間の距離すらわたしたちには夢なのか、と絶望的な気持ちになる。虫や鳥ですらどこへだって行けて、私たちの知らない世界を見ているというのに?

「だからお金貯めてるんだけど。ねえ、実はさ、そんな正攻法じゃなくたって、シロネがいてくれたらぼく、それでいいんだよね」

「はあ?」

「たとえば、そう……車を盗んで一緒に逃げる」

「……待って。そもそもどうしてわたしが一緒に行くことになってる?」

「きみはぼくと一緒に来るでしょ」

 息が詰まる。これは本気の言葉だ。思いつきにしろ、クロタエには今、明確に未来が見えているのだとわかる。わたしにはそんな目はできない。わたしは何も返せない。

「義父の車がある。かなりボロだけどね」

 義父、と聞いてわたしの頬はひくりと痙攣する。それはお前の腹を刺した男だ。殺そうとした男だ。お前に愛のかけらも与えてやらない、この世のほとんどの大人と同じクズだ。クロタエ、どうして自分から危険に飛び込む真似をするんだ。今度こそ殺されてしまったら? そんなことになればわたしは生きていけない。わたしがお前を好きだって、何より大切だって知ってるくせに。

「シロネ、きみはずっとこの街にいるの?」

 そんな聞き方はずるい。わたしはうまく言葉を吐き出せないで、クロタエを睨んだ。肉が冷えていく。硬くて飲み込めなくなってしまう。クロタエの目は揺らがない。わたしはしばらく魚のようにはくはくと唇を動かして、やっとの思いで、脳にこびりついて離れない記憶をすくい上げた。クロタエの手がわたしの手を握る。幼児みたいな体温をして、わたしの緊張を解く。

「……昔、この辺の……どっかの店に入った。メニュー表を見て、父親に聞いたんだ」

 ねえお父さん、バロットってなに?

 クロタエは脈絡のないわたしの話に、何も言わず耳を傾けてくれた。小さな頃から屋台や家庭料理店で売られ、特に珍しくもなかったバロット。それが孵化寸前の卵を茹でたものだと知った日の夜、わたしは眠ることができなかった。何度も寝返りを打ち、殻を破って外に出ることを夢見たまま死んでいった雛鳥について考えた。それが、この街から出ることができないわたしたちと重なり、無性に苦しくなって泣いた。

「べつに、卵を食べることが悪いとか、バロットが悪いとか言いたいわけじゃない。わたしだってゆで卵くらいは食べるさ。ただ、わたしはあの時……」

 今思えば、我ながら可愛らしい妄想だ。けれどその妄想はずっと雛の形をしてわたしの中に居座り、巨大化し続けている。子どもの脳は宇宙につながっていると、いつか父が言っていた。わたしはひときわ宇宙に通じやすい子どもだった。

「わかるよ」

 周りの雑音を全てすり抜けて、その言葉は真っ直ぐ耳に届いた。シロネの気持ち、ぼくにはわかるよ。クロタエの優しい声が繰り返す。

「一緒にこの街から出よう、シロネ」

 お前に言われて断れるわけがない。

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