来訪者
三日後の昼、扉の鈴が激しく鳴った。次の診察予定にはまだ少し早い。三十そこそこの男が、不躾に診療所へ足を踏み入れる。
「あいつ来てるんだろ、連れて帰るから出せ」
見たことのある顔だ。それは間違いなく、クロタエの、二人目の義父だった。
「次の診察があるのでお引き取りを」
「先週の金がまだなんだよ。あのガキもう一週間も帰ってきてねえ」
「お引き取りください」
わたしが頑なに突っぱねると、男は見るからに機嫌を悪くする。浅黒く傷の多い腕に、血管が浮いている。それがクロタエを傷つけるのだと思うほど、わたしの中で煮えたぎる感情があった。
「嬢ちゃん、立派なお医者様だか知らんが、大人の言うことは聞くもんだぞ」
男は私の方へ一歩近づいて、手近な椅子に座る。苛立たしげに靴底で床を叩きながらわたしに提案をする。
「あいつを出すか、代わりに嬢ちゃんが金を出すかだ」
「診察の予約があります。お引き取りください」
わたしの言葉が変わらないことに男は激昂する。勢いよく立ち上がり、わたしの胸ぐらを掴み上げた。踵が床を離れたと同時に、再び鈴が鳴った。ちりん、ちりん、ちりん。度重なる怒声や物音に、奥で眠っているクロタエが起きやしないかと少し不安になる。
「お客さまかしら」
現れたのは、白髪混じりの長髪を上品にまとめた初老の女性だ。男を無視して彼女はわたしに笑いかける。
「シロネ先生、こんにちは」
「…こんにちは」
今年で六十七になる彼女は、この町で最も長く生きている。小柄で足が悪く、定期的にこの診療所に通っているけれど、工場地帯を取り仕切っている彼女の声は、男にとって厄介なものだった。なにせ南区で働くほとんど全ての人間は、彼女の支配下にあるのだから。
「あなたは……アケバラの工場に籍を置いていたかしらね。そういえば、毎日一生懸命働いてくれていたクロタエがしばらく休んでいるのだけど、何かご存知?」
ああいう若くて熱心な子がいなくなると困るのよねえ、と彼女はため息をつく。男はわたしを睨みつけて「また来るからな」と舌打ちをした。男が出て行っても、激しく揺れる鈴の音が止むまで、わたしは何も言えなかった。
「あの……ありがとうございました」
「なあに? 世間話をしただけなのに、おかしな子」
キトヨさんは優しく笑った。
キトヨさんの足は一度粉々に折れている。わたしが生まれるよりずっと前、まだ子供だった彼女の故郷が炎に包まれ、逃げる最中の事だった。その話を聞いたのは一度だけ、それも断片的なことで詳しくは知らない。昔話は得意じゃないの、とキトヨさんは笑っていた。この人は、腐敗した街に似合わずよく笑う。
足を診て、若干の悪化を感じるもこれ以上の処方はできない。いつも通りに薬を用意しながらも、逡巡する。その一瞬を見逃さないから彼女は工場地帯の長なのだろう。
「あなたは良い医者よ」
そんなことはない。わたしは医者としても、人としても悪だ。正しい医者は人を助けるものだから。思わず視線を外したわたしに、キトヨさんが「クロタエは?」と問いかける。どうしてこんなに優しい人が、こんな街にいるのだろう。
「……来週には抜糸して、様子を見ます。問題なければ仕事にも戻れるかと」
定期的に怪我で休むクロタエは、彼女にとって代えのきく末端の作業員にも関わらずその立場を守られ、慮られていた。クロタエの真面目さや行いが認められているのは喜ばしいことだけど、少なからずキトヨさんの私情が混じっていることを、昔話を聞いたわたしだけは知っている。
「ありがとう。贔屓は良くないのだけど、あの子だけはどうしても気になってしまって」
「例の、ハミオンの恩人、ですか」
「ええ」
かつて、燃え盛る故郷からキトヨさんを助けて出してくれたという恩人は、天上を示す太陽の色をした腕章を着けていたらしい。その人の優しさが、心根が、クロタエの瞳を通して見つめてくるのだという。
「ずっと地下暮らしだったから、初めて見た地上の草原は……本当に美しかったわ。あの人がいなければ私は地下で死んでいた」
分かっている。一人ひとり対話をすれば、この街でも天上都市でも、善良な心が見つかることはあるだろう。それでも、幼い頃から悪意に触れすぎたわたし達は、大人に壊されないよう殻に籠ることで必死だった。
「そういえばね、前にクロタエが私に聞いてきたのよ。草原はここより広いのか、建物はあるのか、人はいるのか、空はどれくらい広いのか、って」
「そうですか」
キトヨさんは微笑む。
「ねえ、先生はこの街から出たいと思う?」
返事は、できなかった。
◆
昔のことだ。
診療所に彼らが来たところを、その日、わたしは初めて目撃した。両親から、西区の店へ薬を引き取りに行くよう言われていた。だから家を出たのだけれど、通りの先から走ってきた見慣れない車とすれ違い、それが診療所のすぐそばで停まったので、わたしは振り返る。丁寧に研磨した鉱石のように黒く艶やかな車体は、到底この街の人間が乗れるものではない。とっさに路地に身を隠したのは、幼いながらに色々な記憶が蘇ったからだった。
助手席の扉から、身なりのいい男が一人降りて、診療所の中に入った。それを見届けてから、後部座席のドアが控えめに開き、運転席の人影と何かを言い交わした後、子供が降りてきた。わたしよりも背が高く、年上に見える。その子は真っ直ぐわたしの隠れた路地に向かってきたので動揺してしまい、逃げることができなかった。
薄く笑った表情のまま固まってしまったような子供だった。肩まで伸びたつやのある髪としなやかな輪郭で、性別の判断がつかない。
「ねえきみ、もし天上に住めるならどうする?」
その子が突然わたしに問いかける。にこにこと笑っている。身に着けた襟付きのシャツは上等な生地だ。どうみたってハミオンの人間だろう。なぜ、診療所に。そして、戯れにしてはひどい問いかけを。
「……名乗らずに質問するのは無礼だし、もしもの話は好きじゃない」
わたしが言うと、その子は緑青を思わせる目を大きく開いて、笑った。
「そう、ごめんね。ただ興味があったんだよ。だって君は」
「何をしている」
診療所から男が出てきた。路地で話すわたしたちを、いや、その子のそばにいるわたしを刺すように冷たい目で見た。この辺りの大人とは質の違う圧力にぞわりと背筋が震えて、萎縮する。なにせ十二歳の子供だったのだから。
「車から出ないという約束だったはずだ。そんなものに近づくんじゃない」
「はい、父さん」
少年とも少女ともつかない声で返事をして、その子は父親のもとへ駆け寄る。艶やかに光る黒い車体の中へ滑り込み、私たちを隔てるガラスの向こうで潤いのある唇が「またね」と形作ったのを見た。
随分時間を使ってしまったような気がして、辻褄を合わせるようにわたしは西区への道を走る。
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