バロットにはならない。

古海うろこ

 三日ぶりに会ったクロタエの腹には、深々と包丁が刺さっていた。エデンビルバンの中では比較的清潔な路地裏の、それでも山のように積み重なったごみ袋の陰に隠れるようにしてうずくまっている。その姿はまるで鶏の卵のように丸い。そのまま、うまく孵化して何処へでもいけばいいのに、と思った。この街から飛び立てば、クロタエは救われるんじゃないかと。

「シロネ……」

「喋らないで」

 ぐったりとしたクロタエの体を支えて、できるだけ揺らさないよう慎重に処置室へ運んだ。幸いまだ診療所を開ける前だったので、患者は誰もいない。寝台に横たわるクロタエは、麻酔によって意識を手放す。

 クロタエが傷を負うたび、自分が医者の娘として生まれたことに感謝している。ありがとう、父さん母さん。暴力と貧困に喘ぐ最低な街もありがとう。この瞬間だけは感謝してやる。だって、傷ついたクロタエはわたしを頼る。

 けれど、こんな街でなければクロタエは傷つかなかった。そして、わたしたちは生涯、出会うこともなかったのだ。




バロットにはならない




 エデンビルバンは無数の住居と中小工場が密集してできた貧困層の街で、その規模は上流階級の住む天上都市ハミオンのおよそ三倍と言われている。特に南区は工場の有害物質で空気が淀み、大抵の人が長生きできず死んでいた。クロタエは南区の工場で、わたしは中央区にある両親の遺した診療所で働いている。

 クロタエの家は複雑で、だけどそれすらこの街ではありふれた不幸だった。まず、クロタエはその他大勢の子どもたちと同じように、大人から理不尽な暴力を受け始める。わたしたちが出会ったのはその頃で、八歳のクロタエは腕を折っていた。父親に捻りあげられたらしい。母親は助けてくれることもなく、そのうち父親は病で死んだ。けれどクロタエは救われない。家に新しい男がやってくると、母親はますますクロタエに見向きもしなくなった。成長したクロタエは、くず拾いから脱却して勤め始めた工場の仕事が終わると、わたしのいる診療所に来ることが増えた。

 つまり、まともに昔からのクロタエを知っている人間は、わたしだけなのだ。わたしだけがクロタエを変わらず見つめてきた。目が眩むほどに。



 クロタエの腹から取り除いた家庭用の包丁をキャビネットにしまって、そのまま昼まで診療所を開けた。足を患っている馴染みの患者を見送り、古いキッチンで簡単に昼食をとってから、眠るクロタエのそばに座る。好き勝手に跳ねた長い黒髪を梳く。時々ぎしりとひっかかれば、丁寧にほどいてやる。ずいぶん時間をかけてそんなことをして、戯れに痛々しく荒れた唇に触れていると、くすんだグリーンの白衣をゆるく掴まれた。

「おはようクロタエ、気分はどう?」

 麻酔が抜けきっていないクロタエの目は煮込んだスープのようにとろとろと揺れて、そのうち覇気のない声が溢れる。

「殺したのはぼくなんだ」

 何人もの患者が横たわり、時には死んでいった寝台。わたしは引っ張られるまま、けれど術後のクロタエに倒れこむことだけはするまいと、貧相な体をゆっくりと跨いだ。

「父さん」

 誰を、と訊ねる前に、答えは夢見心地に吐露される。自白剤にも使われている麻酔の後では、大抵の人は心の弱いところを露わにしてしまう。そんな場面を幼い頃から何度も見てきた。父も母も、彼らが口にした内容に一切触れることはなく、口外もしなかった。クロタエが今までに吐いた内容は、捻られた腕の骨が折れる音と、夢で見たという無限に広がる草原の話、そして今回、人殺しについて。

「工場の粉塵が原因じゃなかったの」

「それもあるよ……きっとね。でも、ぼく、あいつの飲み水に、睡眠薬を全部入れたんだ。そしたら死んだ」

 昔、眠れないと訴えたクロタエに、両親に隠れて渡した睡眠薬のことを思い出す。懺悔なのかただの告白なのか図りかねたけれど、多分、そのどちらでもない。クロタエは自分が殺したと信じたかったのだ。クロタエに人が殺せるはずないのに。

「じゃあ、わたしも秘密を教えてあげるよ」

「なに?」

「わたし、人を殺したことがあるんだ」

「うそだ」

「本当だよ、しかも同じように薬で」

 クロタエはけらけら笑った。額にかかった髪を撫で付けてやる。かわりのように色素の薄いわたしの髪が耳からばらりと流れ落ちて、拙いキスを隠した。

 昔、工場で大怪我をしたクロタエが初めてこの寝台に登った日も、麻酔から覚めたクロタエにキスをした。あれが初めてだった。あの日も、今日も、死ななくてよかったと心から思った。クロタエには見せなかったけれど、涙が溢れて止まらなかった。怖かった。死んだらおしまいだ。そのくせわたしたちはまともに生きることも叶わない。この街ではすべてが始まる前から終わっている。みんなから諦めの気配がする。

 何度か触れるだけのキスをして、傷に響かないよう身を寄せる。毛玉だらけの薄いブランケットをかぶって目を閉じた。触れ合う頬は柔らかく温かい。クロタエがここに来る時だけ、わたしたちは朝でも昼でも寄り添って眠り、工場の労働者でも、診療所の医者でも、人殺しでもなく、ただの少女になる。殻の中で外界を夢見る雛鳥のように、無垢で、か弱い生き物に。





 いつもより奮発して買ってきた具材を煮込んでスープにした。食べやすいように柔らかくとろけるまで火の通った野菜や肉。器によそったそれをアルミトレーに乗せ、寝室へ運ぶ。

「クロタエ、食事だよ」

「ありがとう」

 私のベッドに横たわるクロタエの傷は大分良くなってきたので、来週には抜糸をして、家へ帰れるだろう。けれど本当は、クロタエをあの家に返すのが嫌だ。

「仕事は終わったの?」

「ああ、今の人で終わり」

「シロネはすごいね。まともで優秀な医者なんてここらじゃシロネしかいないよ」

「たまたま向いてたんだ」

 一度、この診療所で一緒に住まないかと持ちかけたことがある。私は、驚いた顔で頷くクロタエを想像していた。だから、困ったように笑って首を横に振ったクロタエに、少なからず傷ついた。でもクロタエはこう言ったのだ。

「あの人は、ぼくが頼れるのがシロネしかいないって知ってるもの。絶対いつかここに来て、何もかもめちゃくちゃにされる」

 そんなのは嫌だ、シロネに迷惑をかけたくない。そうやってクロタエはまた笑った。迷惑などではない。あの忌々しい義父が踏み込んでくるのならその時は、私がクロタエを守ってやるのに、と胸の内で渦巻いたやり場のない怒りを噛み締めたのは今でも忘れない。クロタエのことを見もせずにひたすら搾取して、腹が立てば暴力のかぎりを尽くす。そんな人間を義理でも親など呼べるものか。逃げ出せばいい、と何度も言ったけれど、やはりクロタエはそのたび困ったように笑った。クロタエを助けるためには、守るためには、ここではだめなのだと思い知った。

 スープを平らげたクロタエは、肉の入った食事は久しぶりだとはにかむ。私とさほど身長の変わらないクロタエは腕も胴も脚も折れてしまいそうなほど細い。

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