第22話 交錯するシ その4

 コクヤは昨夜見たときと同じように、いや、はじめて会った時と同じように、超然とした表情を浮かべている。銃で撃たれたときの驚きと悲痛に彩られた、青白さはない。


 だが、その右肩には、咲き誇る菊の花に負けない、どす黒い花が咲いている。乾燥した血液は、コクヨが歩くたびに、はがれて床へ落ちていった。


「よお」


 コクヨが、無傷の左腕を上げて言う。


 御影さんの顔がサッと歪み、それから取り繕ったように整った。


「生きてたの」


「そりゃあ、肩を撃たれたぐらいじゃね。凪も元気か」


「たぶん……頭、ぼんやりするけど」


「じゃあ、大丈夫だ。その魔術ていどなら、死なないから」


「魔術、私が魔術を使ってると言いたいの?」


「使ってるだろ、魅了の魔術。チャームと言ってもいいが、それで、お前はコイツの好意を引き出している」


「どこにそんな証拠が――」


「証拠は、今、凪が言ったじゃねえか。頭が痛いって」


 澄みわたる緑の瞳が、泳いだ。


「それは、昨夜のことがトラウマとなって」


「まあ、それもあるかもしれないが、ひとつ言わせてくれ」


「何を」


「コイツはそんな奴じゃねえよ。アタシのこと、受け入れやがったからな」


 その言葉は、空間を、僕の心を、もしかしたら御影さんの心までをも切り裂くように届いた。


 風が吹き、揺れていたカーテンも死んだように動きを止める。


 静寂の中に、歯ぎしりが響く。


 それは、御影さんの方からする。ギリギリと、限界まで締められているボルトを、それでもなお、締めようとしているときのような。


 見れば、般若がいた。しかし、その表情には、感情と呼べるものがなく、まるで機械のようだ。それが何よりも恐怖を駆りたてる。


 空気が、うんと冷たくなったような気がした。夏なのに肌寒い。


 外は、黄昏を越え、夜になっている。手入れされていない庭は、闇におおわれて見えない。だが、あのようにくねくねとうねるような植物があっただろうか。


「そうですか」


 御影さんの口が、そうプログラムされたかのように規則正しく動く。発した短い言葉は、絶対零度の怒りで、はちきれんばかりにふくらんでいた。


 それが、僕の方を向いた途端に、霧散する。たった今見ていたものが嘘なんじゃないかと思ってしまうほど、鮮やかに、劇的に。


「深浦くん」


「……なんですか」


「私の仲間になってくれたら、私のこと好きにしていいよ」


 その瞬間、だれかの舌打ちが聞こえた。


 呆れたような短い音は、、遠くで響いたもののように、小さく小さくひびいて消えていく。


 僕は、一つの光景を目にする。


 生き返らせてくれた神様の力によって。






 瞬きののちに、世界は一変している。


 僕は家の中から、畑に移動していた。今ではわかる、これは夢で、白昼夢。今の僕は御影さんの問いには答えずに、明後日の方向を見ているのだろう。


 実際は明後日どころじゃない。もっと先の、あり得るかもしれない未来。


 脛をくすぐる金色。だがそれはヒマワリではなく小麦だ。遠くに見える丘も、砂丘ではなく、一面の小麦畑。 向こうは、下りとなっていて、その先には町がある。神谷木市に似ているけれども、小ぢんまりとしていて、木造の建物が多い。ビルなんてなくて、郷土資料館にありがちな、ひと昔前の町みたい。


 その町から黒い線が上がり、赤く染まる。


 そよぐ風と共に、焦げる臭いがただよってくる。


 悲鳴が体を撫でていく。


 町から生み出される絶叫は、生まれては死に生まれては死ぬ瓦礫よりも大きく、舌のようにうごめく炎よりも明るい。


 そして、それらを生み出しているのは、巨大な生物だ。


 二階建ての建造物をたやすく押しつぶす巨体は、まんじゅうのような形をしていたが、甘いお菓子とは違い、しなやかな触手によっておおわれている。ツタともタコの触腕とも違う、無数の腕がうねるたび、その体は浮き、そして、着地する。


 僕は理解する。そいつは、飛ぶことができる。にもかかわらずそうしないのは、自らのからだで、街をつぶしたいから。


 万の腕が、ヒトをつかみ上げ、つぶすのは、赤子のように興味があるからではない。その体を、自らを町の下へと封じ込め、都合の良いように操ろうとした不届き者を、滅するため。


 その体が、ぐるんと動く。


 饅頭の真ん中には、巨大な目があった。濃い緑をした瞳が、僕をじっと見つめてくる。


 だが、僕は、その瞳よりも気になるものがあった。


 その化け物の上部に、小さくヒト型のものが屹立している。ふさふさうねうねとした触手に紛れるようにして生えているような格好のその人型を見ていると、なんだか胸騒ぎがして。


 それが、僕だと――僕がたどる未来なのだとわけもなく確信してしまうのだ。


 化け物は、怒りを、憎しみを発散するかのように飛び跳ねる。その目が、声なき声を発する。その聞いたことがあるような声が、僕を吹き飛ばして――。






「ねえっ!!」


 いらだちの混じった声が、耳元でした。


 目を開ければ、僕は寂れた屋敷に戻ってきている。ガラスの近くには、相変わらずな様子のコクヤがいて、僕のすぐ隣には、うっすら青筋を浮かべた御影さんが立っている。


 外は完全な闇におおわれていた。


 何分くらい、僕は意識を未来へ飛ばしていたのだろう。何度か瞬きをする。マヒしていた意識がクリアになっていた。かけられていたチャームという魔術が、対象を失って消えたのだろう。そう、直感したのは、神様の力にほかならない。


 たった今見た幻視だってそうだ。


「どっちを選ぶの」


 御影さんが、僕に迫る。彼女の白くて細い腕が僕へ絡みついてきて、指が何か別の生物のように、なまめかしく這う。


 それは、巨大生物の触手のように、僕の心身を叩く。肌を削りとられていくかのような嫌悪感が撫でていって。


 思わず、その手を振り払っていた。


 よたよたと離れていった、御影さんが僕を見える。


 その瞳は、くらやみの中で、はっきり光っていた。さながら、地獄の業火のように。


「どうして……」


「――ウカを殺したのは、御影さんなんですよね」


 その爛々と輝いていた緑が、大きくなった。


 今や、この街で、何が起きて、何が起きようとしているのかが、手に取るように分かった。時を司る神様の力が、増大している。正しい選択をするようにと。


 御影アゲハは、ヒトならざる存在であり、彼女がほぼすべての元凶であることは、過去をさかのぼればすぐにわかった。


 視界には、玉虫色した球体が無数に浮かんでいる。御影さんもコクヤもそれに気がついていない。


 僕だけにしか見えないそれが、神様によるものだと理解していた。


 水晶玉にしては不定形のそれは、レンズのように過去の像を浮かびあがらせる。


 魔術によって、宇宙を飛来する透明の吸血生物を呼び寄せる御影さんの姿を。


 伍郎書房の店主に、忌み嫌われた十三巻を読ませ、邪悪な神様の依り代としたのも御影さん。


 さらには、墓参りに訪れる僕を、グールに襲わせたのも、彼女。


 そして、僕を守ろうとしていたウカを、その触手でもってくびり殺した。


 ぜんぶ御影さんがやったことなのだ。


 沈黙が、肌を刺す。彼女は今やがっくりと頭をたれており、その表情を読み取ることはできない。


「逆に聞かせてください。どうして、僕に宿った彼の神の力を欲するんですか」


「……復讐よ」


 勢いよく上がった顔には、憎悪が彫りこまれている。ありとあらゆる存在――神様に対する怒りであり、邪魔してくる存在に対する憎しみ。


 僕に対する、失望。


「復讐」


「そ、わたしを地下深くに封じ込めやがった、愚かな人間と神様。それから、見て見ぬふりしていた神様に復讐したかったの」


 刺し殺すかのような彼女の視線が、コクヤを向いた。コクヤはじっと御影さんを見つめ返していた。


「もっとも、コクヤちゃんは違うのだけれど」


「まあ、知ってるよ。なにがあったのかくらいは」


「じゃあ、見逃してくれないかなあ。あなたは関係ないでしょ」


 闇のなかに溶けこむような影が、うごめく。触手のようなものがのび、獲物を欲して震えている。


「それがある。コイツを守れ、というのが巫女からの命令なんだ」


「ウカの……」


「そうだ。アイツは、お前を生き返らせる際に、狙われないようにとアタシに命じた」


「律儀ね」


 皮肉めいた御影さんの言葉に、コクヤは肩をすくめて。


「アタシもそう思うが、アイツの心意気に共感したというか、なんつーか。気まぐれだよ」


「ふうん。……私は誰も助けてくれなかった」


 その言葉は心をズキンと痛ませた。同情を駆り立てる言葉だったのだろうか。だが、その言葉は、美しい仮面をつけ誘惑し続けていた御影さんがはじめて見せた本音のように思えてならなかった。


 だが、次の瞬間には、彼女の寂しさは、マグマのような怒りに飲みこまれていく。


 その怒りは、彼女の影を膨らませていく。グミのようなぷるぷるの唇は、歪み引き延ばされていきながらも、歌うように何事かをつぶやきつづけている。その体が風船のように膨らみながら、醜く変形していく。


 綺麗ではないというのに、僕は見惚れたように、視線を外すことができない。


 その体がバリバリと裂けていく。緑色の球体がぎょろぎょろと動いているのが見える。


「おいっ!」


 コクヤの怒鳴り声が聞こえた。


 遅れて、衝撃がやってくる。吹き飛ばされたと気がついたのは、のびっぱなしの芝生の上をごろごろ転がっている最中だった。


 回転が止まる。痛い。全身がすりみになりそうだ。それでも何とか立ち上がって、家の方を見る。


 白いワンピース姿が闇のなかに浮かびあがっていた。コクヤはこっちを振り向かない。声だけが、こっちまでやってくる。


「今すぐ離れろ」


「でも――」


「でもじゃねえ! 死にたくなければ、こっちを見ずに今すぐ去れ」


 闇の向こうで、黒よりも濃い黒が、むくむくとふくらんでいく。悪意の塊は、少女という形代を飛びだし、今まさに本来の姿を取りもどそうとしている。


 天井に達したその化け物は、おのれの血にまみれた頭でもって、建物を突きあげる。その洋風建築が揺れる。ホコリが舞い、バラバラと石膏ボードの雨が降る。


「いけっ!!」


 その声に押され、僕は敷地を後にする。


 奇妙なまでに静かな道路へ出れば、建物の揺れはいっそうひどくなる。緑色の屋根瓦がボロボロと崩れ、転がる。二階の窓はひしゃげ、砕け散り、壁には悲鳴のようなひび割れが無数に走っている。その隙間から、黒

い悪意が見え隠れするが、その成長は留まることを知らない。


 目が合う。


 ヒスイ色の怒り。


 ムチのようにしなる触手が、邪魔な屋根を叩き壊そうと振るわれる。がれきが飛び、近隣の建物へと突き刺さる。だというのに、悲鳴ひとつ上がらない。ヒトも出てこない。


 このあたりから、ヒトというヒトが消え去ったかのように。


 僕は、コクヤに言われたとおりに、屋敷から離れることにした。


 だが、妙に気になる。背後で鳴りひびく衝撃音、それに交じる、キュウと小動物が鳴いたような音。がさがさと硬く薄いものがこすれ合うような音……。


 さまざまな音が生まれては消える。そのたびに、背後の存在感は、ふくらんでいった。


 振り返りたい。


 なにが起きているのかを見てみたい。


 何より、コクヤは大丈夫なのだろうか――彼女は人間ではないのかもしれない。だが、御影さんだったものは、神様だ。


 思い切って、僕は振りかえった。


 目に入ったのは、闇にそびえたその屋敷。


 蠢くのは、無数の触手、タコのような太い触手と、縄のようにいくつもの細い線が絡まった太い触手。


 建物を押しつぶすように二体の化け物がいた。楕円形の、巨大な目を有した化け物。


 そして、あれは、なんだ。


 屹立した柱状の物体、黒く、ツタのようなものがより合わさってできたそれは、巨人の脚のように太く、有機的にふくらんではしぼんでいる。ツタの一本一本からは、黒い液体がグチュグチュ泡立ち、絶え間なく垂れ流されている。それどころか、雲のようにただよっている。


 何より目立つのは、複数の揺れる肉塊だろう。その部分だけはイヤに白く、誘うように上下する。


 その上には、無数の口があり、しゅうしゅうというガスの抜けるような音が絶え間なく漏れている。


 僕は、知った。


 蠢く触手の中にちいさく見えるボロボロのワンピース。


 彼女こそは、コクヤそのものであり、この地を治める豊穣の女神なのだと。


 栂野家が信仰していた神なのだと。


 薄れゆく意識の中で、僕は、外来の神に覆いかぶさる豊穣の女神を見た気がした。

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