第12話 悪意ある手に口 その7

 生臭い呼気が感じられるほどの至近距離。


 べキリ。


 病的なまでの白い腕が、あらぬ方向へ曲がりながら、遠ざかっていく。


 吹き飛ばされていくおじいちゃん。


 ひるがえるワンピース。きれいに伸ばされた膝。


 足取り軽く着地したコクヤは、壁の向こうまでころがっていった伍郎さんをキッと睨みつけ。


「コイツに手を出すのは許さねえ」


「手を出すつもりはなかったのですがねえ」


 腕が本来曲がらない方向へ曲がっているにもかかわらず、伍郎さんはまったく気にしていない。痛みにうめくことなく、声音すら変わっていない。


 おじいちゃんが、ヒトならざる存在であることを、やっと僕は理解した。


 コクヤが言っていた化け物は、この好々爺のフリしたやつなんだ。


「どうするのっ」


「どうするっつったってなあ、そいつさえアイツにやりゃあ、それで済むんだが」


 そう言って、コクヤが、僕を、それから倒れたままの御影さんを見た。コクヤが何を言おうとしているのか、すぐにわかった。


「そんなことできるわけない、まるで生贄みたいなこと……」


「だよなあ」


「では、こういうのはいかがでしょう」


 本棚の一つに近づいていく伍郎さん。何かするのだろうかと身構えていれば、手にしたのは、一冊の本。本にしては薄く、わずかに曲がったそれは、修学旅行の旅のしおりのような手作り感にあふれている。


「この本に登場する神様の名前を読むのです。それで手を打ちましょう」


「よく言うぜ。おい、絶対読むなよ。そんなことしたら、アイツに一生付きまとわれることになるからな」


「ヒトをストーカー呼ばわりするのはやめてもらいたいものです」


 いかがしますか、と伍郎さんは腕をプラプラさせながら、朗らかに聞いてくる。自らの腕など興味がないのだ。その問いかけ――名前を呼んでもらえるかどうか、それだけが興味の的と言わんばかり。


 ゾッとして、僕は首を横へ振る。なんどもなんども。


「残念です。それでは、戦うしかありませんね」


「アタシもあんまり気は進まねえんだが、しょうがねえか」


 二人は、そんなやりとりを交わす。そこにはなんの感慨も、恐怖も困惑も喜びもない。淡々とした事務的な響きがあって、戦うことが当たり前な感じすらあり、それが、狂気的でもあった。


 コクヤは、べったりとした笑みを貼りつけた伍郎さんへと向かっていき、こぶしを振りあげる。






 こぶしとこぶしがぶつかる音を聞いた瞬間に、僕の意識は、戦いではなく、気を失っている御影さんへと向いていた。


 直感だ。僕の理解できない肉弾戦よりかは、現実的な問題を解決した方がいい。その方が、絶対いい。


 僕は御影さんを揺さぶる。だが、彼女は目を覚まさない。非現実的な存在である、伍郎さんを忘れ去ろうとしているかのように、その瞳は固く閉ざされていた。


 起きてもらうことは諦めるしかないようだ。


 僕は、ちらりと向こうを見る。ちょうどコクヤが、おじいちゃんにとびかかろうとしているところだった。はたから見れば、弱い者いじめのようにしか見えない。


 だが、光の加減で、その掌があらわとなったとき、そうではないことを思い知らされる。


 しわくちゃの手のひらには、ぬるりと光っている白い――。


 そこに何があるのかを脳が認識するよりもはやく、僕は、御影さんの方を向きなおっていた。


 ぐちゅぐちゅと水音が後方遠くでした。


 コクヤは大丈夫だろうか。いや、なんとなくだが、大丈夫な気がする。


「それよりも、僕の心配だ……」


 御影さんの背中に手を回し、二人三脚の要領で立ち上がろうとする。それだけなのに、からだがふらついた。こんなにも気絶している人間が重たいとはおもわなかった。


 上手く歩けない。数歩歩いただけで、汗が浮かんでくる。こんな調子で階段を上っていけるのだろうか。


 ヒイヒイ言いながら、なんとか扉のすぐそばまでやってきた。


 背後を振り返る。


 ――どうしてそんなことをしたのか。見えない殺気とやらを本能的に感じ取ったのかもしれない。もしかしなくても、たまたまだ。


 向こうの戦闘は小康状態にあるようだった。互いににらみ合う二人、伍郎さんは、手のひらから血を流し、コクヤは腕をかばっている。その雪のような腕から、したたり落ちる赤は、彼女の血液。


「コクヤ!?」


 思わず叫んでしまった僕を、コクヤは見て。


「バカっ、黙って逃げてろ!」


「逃がすとお思いですか」


 そんな声が聞こえたと同時、伍郎さんは、手近な本棚を、細腕でひょいと持ち上げると、ぶん投げようとする。


「させるか――」


 投擲を止めようとしたコクヤのからだが吹き飛んでいった。投げようと持ち上げられていた本棚が、剣のように振るわれたのだ


 木っ端のように飛んでった小さな体は、人形のようにゴロゴロ床を転がっていき、見えなくなった。


 僕が、声を発しなければ、コクヤが本棚に殴られることもなかった。


 伍郎さんらしき存在が、本棚を投げ飛ばしてくることもなかった。


 ――僕のせいだ。


 投擲された本棚が、放物線を描いて、僕と気絶している御影さんを押しつぶそうと迫ってくる。


 ゆっくりゆっくり近づいてくる本棚を、僕は見つめ続け。


 ――不意に、溢れた光に目をつぶった。

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