第11話 悪意ある手に口 その6

 とじかけた扉の先は、闇が待ち構えていた。不快な闇は、それまでの暗闇よりも、濃い。ねっとりとした湿気を帯びた闇へと、階段がのびていた。


「地下……」


「見るからに何かがありそうだ。おまえはここに残ってろ」


「い、イヤですよ。こんな暗いところに一人だなんて」


「ここには大したもんはいねえよ。だが、この先は違う。何か不気味な存在が確かに存在している。おまえ、この前グールを見ただろ」


「み、見ましたけど……」


「あれと似たような――いや、それ以上のがいるかもしれねんだ。わかったら、ここにいろっ!」


 コクヤの瞳が、僕を見つめてくる。その瞳には、どこか切迫したものがあった。手に持っていた爆弾が今にも爆発してしまいそうな、そんな慌てよう。


 そんな真剣なまなざしに、僕はただ、頷くことしかできなかった。






 足音が、トントントンと離れていく。その小さな足音は、次第に離れていって、最後には聞こえなくなる。


 音もせずスマホの光しかない、退廃した廊下に一人、僕は残された。


 待った。ただひたすらに、コクヤが戻ってくるのを――いや、もうコクヤじゃなくてもいい――誰かがやってくるのを待った。


 だが、足音はしない。身じろぎ一つしない。ヒトの気配というものがまったくなかった。

 空気そのものが凍り、時さえもが動きをやめてしまったかのよう。いや、ひょっとすると、僕だけが時間の流れに置いていかれたのではないか。


 そう考えると、いてもたってもいられなくなって。


 僕は地下へと続く階段へ踏み出していた。


 その階段もまた、レンガ造りのしっかりとしたもの。一段また一段と降りていくたびに、カーンカーンと足音が闇のなかへと響いていく。


 闇は、スマホによってわずかにかき消されていくが、ダークマターのようなその黒は、一寸先を覆っている。先を照らすのはあきらめて、滑る足元へ、光を向けることにした。


 じっとりと湿った階段をゆっくりゆっくり、降りる。階段は無限につづいているかのように思われたが、不意に終わりを迎えた。


 階段の先は、また、廊下だった。上と違うのは、まとわりつくようなじとじととした空気で満ち満ちているということ。


 口を開くのが憚られるほどの異様な雰囲気は、まるで、沼か何かにいるかのよう。ここに長いこといたら、溺れてしまいそうだ。


 廊下はまっすぐのびている。


 暗闇の中へと足を踏み出す。


 その先に、何かがいる。


 頭がチリチリと痛み、焦げるような感じがする。オーバーヒート寸前の車のエンジンのように。


 突然、現れたそれは、映像だった。例えるなら、照明の落された視聴覚室で見たビデオのよう。プロジェクターから生まれた光にしては、はっきりとしていて、鮮明。




 映像の中には、見たこともない生命体がいた。それは、真っ白な巨漢、あるいはイエティなのかもしれない。だが、一点を除けば、だ。


 そいつには、生物に存在してしかるべき、首というものがなかった。首があるはずの場所には、なだらかな凹みがあるばかり。デュラハンのようだが、馬には乗っていなかった。


 また、体は、はちきれんばかりに膨らんでいる。


 しかし、何よりも生理的嫌悪感を抱かずにいられないのは、そのクリームパンのようなふくらんだ手のひらに、口がついていることだ。


 歯のついた、口と形容するほかない器官。


 そこからは、よだれのような透明な粘着物が流れ、糸のようにだらりと垂れる。


 糸は二筋ある。両の掌の口が、醜悪にゆがむ。開いた口からは、熱気とともに、からだの中いっぱいにふくらんだ悪意が出ていくかのように思われた。




 と、映像がひいていく。カメラ自体がさがっていくように。


 不意に姿を現したのは、コクヤだった。そのコクヤめがけて、白の化け物が襲い掛かる――。


 手を伸ばそうとしたが、僕はなにも掴めなかった。映像は、途端に像を失って、かき消えていく。コクヤの肩を掴むことができなかった僕の体はつんのめり、倒れた。


 からだに鈍い痛みが走る。焼けるような痛みと、ひんやりとした床の冷たさ。その硬いレンガの床を跳ねていく光……。ガシャガシャ音を立ててスマホが転がっていく。


 こりゃあキズだらけだろうなあ。


 そんなことを考えるのは、現実逃避だったのかもしれなかった。


 どのくらい、闇のなかに倒れていたのだろう。立ち上がり、スマホを拾い上げる。背面に擦り傷がついていたが、液晶には奇跡的に傷が少なかった。


「よかった……」


 安堵すると、疑問が頭をよぎった。


 今のはなんだったのか。


 幻覚。


 暗闇ですり切れた心がみせたまやかし。


「……そうに違いない」


 だが、それにしては、あまりにも鮮明で、リアルだった。


 もコクヤが危ない――。


 わけのわからない衝動に突き動かされて、僕は駆けだす。


 漆黒の中に、分岐が見えてきた。


 廊下の十字路。選択肢は、右、左、正面。


 立ちすくんだのは、一瞬。次の瞬間には、からだは直進していた。


 コクヤがいるのはそっちだと、僕は直感した。頭ではなくて心で。


 なぜだか、わからない。


 だが、じきに、何かがもつれ合う音と、声が聞こえてきた。


 息がつまりそうになりながら走る。扉が見えた。駆けより、扉を押し開ける。






 扉の先は、ぼんやりとした光に包まれていた。闇に慣れていたからだが、嫌悪感を示す。肌がぞわりと逆立ち、目が眩み、脳はきゅっと痛んだ。


 光に慣れてくると、そこにいる人々がはっきりしてきた。


 コクヤと伍郎さんが、最初に目に入った。それから、床に倒れている御影さんが見えた。


「御影さん!?」


 僕はピクリとも動かない彼女へと駆け出す。横から「なんで来たんだ」というコクヤの叫び声が聞こえた気がする。でも、横になっている御影さんが心配だった。


 彼女の名前を呼びながら、肩をゆすぶる。手首をとって、脈を測る……あった。とくんとくん、弱々しいけれど、心臓が脈を打っているのを感じる。


「よかった」


 御影さんのまぶたがゆっくり開いていく。目が合った。


「だ、大丈夫ですかっ」


「う、うん。でも、あの化け物は」


「化け物――」


「そっそうなの! あのおじいちゃんが」


 言葉の最中で、御影さんの興奮した顔にサッと恐怖の波が走り、その表情がゆっくりと色彩を失っていった。


「御影さん!?」


 首元に指を這わせる。脈拍はある。死んではいない。恐怖がぶり返して気絶したんだろうか……いやそれよりも。


 立ち上がった僕は、伍郎さんを向く。


 久しぶりに見たおじいちゃんは、杖もつかず立っていた。その背はピンと伸びており、白髪がなければ壮年の男のように思えたかもしれない。


 その顔にうかぶ陰のある表情に、僕はなぜかゾッとした。


 伍郎さんの手は、後ろに回されていて、見えない。それが、なんとなく怖かった。


「おやおや、あなたまで来てしまったのですか」


「だって、お二人が消えたから心配で」


「大丈夫ですので、どうかおかえりを」


 そっけない言葉とともに、伍郎さんの手が、入ってきた扉の方を向いた。その掌は、こっちからは影になって、どのようになっているのかわからない。


 口があるのかは、わからない。


「ふんっ。まともなやつはいらないってわけか」


「そういうわけではありませんが……味が一等劣るのは確かでしょうな」


「何を言ってるの……」


「犯人はコイツだよ。連続殺人の犯人」


「まさか、伍郎さんはおじいちゃんだよ……?」


 そんな言葉を理性が発した。僕の心はそうじゃなかった。何も言わなかった代わりに、心のシアターに映像を映した。




 伍郎さんが、この薄暗い密室で、気に入った人間にむしゃぶりついている姿だ。だが、それはグールのそれとはまったく異なっている。手のひらで、犠牲者を撫でまわす。そのたびに、悲鳴が上がる。流れる血、流れる体液、液体がたまっていくにつれ、絶叫はちいさくなっていって、最後には消える。


 伍郎さんの手にべったりとついた手を、はれぼったいヒルのような舌がなめとっていく……そんなスプラッター。




 おなかの中で気持ちの悪いものがグルグルする。吐きだしそうになるのをぐっとこらえれば、すっぱいものが鼻をついた。


 今のは――。


 突然現れた映像。さっき、闇のなかで見たものに似ている。


「本当に……」


「どうしてそのような証拠があるのだ?」


「ないな。だが、おおよその流れは想像がつくぜ、説明してやろうか」


 伍郎さんは何も言わない。それを了承だと受け取ったのか、唇を舐めたコクヤが口火を切った。


「単純なことさ。コイツには死体をうごかす力がある」


「死体を?」


「正確には、着ぐるみのように着ることができる。殺した後に、自分で歩いて行って、それから、別人になりすます――どうだ」


 伍郎さんはくつくつ笑った。聞いたことのない、悪魔的な笑い声だった。


「おもしろいですが、そのような力、私は持っていませんよ」


「じゃあ、もっと面白いことを教えてやる。そのじいさん、とっくの昔に死んでるだろ」


「――――」


 ぴたり、笑い声が止まった。


「でも、伍郎さんはここにいるよ」


「お気に入りだから保存してるのさ。逆に言えば、コイツに見初められなかったやつが、死体となって出ているというわけ」


 僕は伍郎さんを見た。


 その一本の棒のようなからだが、波打ったように見えた。溶けるような闇を背にしているためだろうか。


 まるで、肉体に押し込められた悪意が膨張し、飛びだそうとしたように見えたのは、気のせいだろうか……。


「今度はその女を殺すつもりだったんだろう。そして、なり替わろうとした」


「ええ」


 どす黒い声が返答する。伍郎さんの方からしてこなければ、彼が発したものだとは思えなかったに違いない。……それほど、邪悪で傲慢な声だった。


「私が好むものをご存じですか」


「悪意」


「ええ、そこの少女は、すさまじいですよ。ここ何年かでは、ダントツといっていい。いや、もしかしたら、有史以前よりも――」


「はっ。その女が?」


 倒れたまま意識を取り戻さないでいる御影さんを見る。その青白い横顔には、悪意はない。すくなくとも、僕はそう感じた。


 だが、彼はそうではないらしい。くすくす笑いが、部屋の中へたっぷり響く。


「ええ、この女の子がです。疑わしいと思うなら、頭を割ってみればよろしい」


「どこぞのムシじゃねえんだ、そんなことするかよ」


「そうですか」


 では――と彼がこっちを向いた。その狂気的で、ある意味において正気を保った光は、僕ではなく御影さんだけを見ていた。


 彼が近づいてくる。そのたびに、部屋が、世界が揺れているように感じられてならない。その枯れ木のようなからだからは、何かほからぬものが噴きだして、巨体を形成しているようなそんな幻想。


 気がつけば、伍郎さんは目の前にいた。


「ドケ」


 丸太のような腕が、僕めがけてハンマーのように落ちてくる。


 その手のひらには、舌なめずりする口が――。

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