第9話 悪意ある手に口 その4
伍郎さんが最初に出てきた扉には、店員以外立ち入り禁止、とある。現在唯一の店員であるおじいちゃんについていけば、僕たちを出迎えたのは、大きな本棚だ。
体育館ほどの広さの部屋はいっぱいの本棚で埋めつくされていた。レンガ造りの壁はほとんど見えず、ワックスのはげたフローリングには、天井から吊り下げられた光が降り注いでいる。
地震でも起きたら、たやすく倒れてしまいそうなほど、本棚はうずたかく積みあげられている。
自分よりもずっと上の方の本なんか取れる気がしない。と思っていたら、はしごが置かれていた。アレを使えってことか。
はじめて入ったバックルームの威容に呆然としていれば、伍郎さんのほがらかな笑い声が聞こえてくる。
「こっちは古本屋としてのバックルームでして、私が
「まるで図書館みたい……」
「そうかもしれません」
と、うれしそうに伍郎さんは言った。僕は手短な本を手に取ってみる。今にも崩れてしまいそうな雑誌だった。見たこともない雑誌だし、持っているだけで表紙が取れてしまいそうだから、元の位置にそっと戻す。
目の前には、ミントのように生い茂る本棚。まるで、入り組んだ迷路のよう。
「すごいでしょう」
「地震なんかがあったら、大変そうですね」
「この辺りは地震がめったに起きませんから。だからこそ、私はこの土地を選んだのですよ」
へえ、と僕は相槌を打った。前方では、御影さんが、本の迷路を現れては消え、消えては現れている。
「あなたは、本を探したりはなさらないのですか」
「あー、僕は普通の本しか読まないので」
僕は、御影さんに話したのと同じことを繰りかえした。
すると。
「海がお好きなのですね」
実際、僕は海が好きだ。おさかな図鑑を持っているし、父が話すには、海水浴では浮き輪に抱きつき、沖の方へどこまでも行こうとしていたくらいだ。
「もしや――」
伍郎さんは何かを口にしようとした。その問いかけは、しかし、不意に上がった御影さんの歓声にかき消されて、まったく聞こえなかった。
直後、一冊の本を手にした御影さんが、戻ってくる。
「ありましたっ!」
まるで、優勝トロフィーでも見せびらかすように掲げられたのは、古めかしい表紙の小説。そこには、御影さんが探していたタイトルが書かれていた。
「いくらですか?」
「そうですねえ」
本を受け取った伍郎さんが、本をためつすがめつして、値札を探している。
そんな様子を見ていると、ふいにお腹が痛くなってきた。
腹痛。
きゅるるるる、っと腹が鳴る。おなかがすいているわけでもないのに、どうして。
ふと、本屋に来るたびにお腹が痛くなることを思いだした。確か、本の香りがそうさせるのだと、なんかのテレビで見た覚えがある。
うれしそうにしている二人に割り込むのは、なんだか申し訳なかったし、めちゃくちゃ恥ずかしかったけれども。
「トイレってどこでしたっけ?」
もらすよりかは、何億倍もマシだ。
伍郎さんが教えてくれたのは、カフェのトイレ。本屋に来た人も、店員も使用するトイレで、レジスターが置いてあるような古い店といえども、水洗式だ。
ふうと、息をつき、蛇口をひねる。
手を洗って、トイレを出れば、そこには見知った顔があった。
白いワンピースを着た、天使みたいな雰囲気を漂わせている少女。
「あ」
思わず声を出せば、その子がこっちを振りかえった。
「ん? ……なんでこんなとこにお前が」
おおよそ天使らしくはない、乱暴な言葉がやってくる。
そこにいたのはコクヤだった。
「いや、僕の方が聞きたいよ。なんで、コクヤがここに……ていうか、あの日、なんでいきなりいなくなったの。心配してたんだよ?」
「お前に心配される筋合いはない。それよか、お前がここにいる理由を教えろ」
相変わらずのキッツい物言い。だけども、数日ぶりのコクヤとのやり取りは、どことなく楽しい。
「なに笑ってんだ、気持ち悪ぃ」
「ご、ごめん。僕は、クラスメイトといっしょに、やってきて」
僕は、これまでのことを話す。
そうすると、コクヤは興味なさそうな力の抜けた返事をした。
「なんだ、化け物がいるってわけじゃねえの」
「化け物……? それって前みたいな」
共同墓地に現れた、口にするのもはばかられるような、奇妙な生物。いや、死んだ存在を生物と呼べるのかはわからないが、そうとしか呼べない。
「グールか。アイツとはまた違う。
「誰それ」
僕が聞けば、コクヤは肩をすくめる。答える気はないらしい。
彼女は、カウンターを覗きこんだりしながら、何かを――その悪趣味な気配というやつを探しているらしい。はたから見れば、かわいらしい不審者にほかならなかったが。
「それより、その一緒にきたってやつはどこにいるんだ?」
「あっちだけど」
「よし、案内しろ」
「案内しろってたって、勝手に入れるわけにはいかないよ。だって、扉には『店員以外立ち入り禁止』って書いてあるんだから」
「お前は入ってるじゃねえか」
「許可もらったんだよ。ちょっと待ってて、伍郎さんに聞いてくるから」
言ってから、僕は、バックルームへ戻る。
しかし、そこに御影さんと伍郎さんの姿はない。
本棚と本棚の間を縫うように進み、影の中をのぞき込むようにして探しまわったけれど、やっぱりいない。
「伍郎さん! 御影さん!」
叫んだが、返事はやってこない。僕の声が、本棚で反響し、増幅し、奇妙に低い声となって、返ってくるばかり。
その化け物のような声に震えていたら、背後でガチャリと扉が開く音がした。
背筋に冷たいものが走った。
だれがやってきたのだろうか。もしかしたら、御影さんと伍郎さんは、何か危険な人に襲われて、今まさに僕までもが――。
不意にペちっと、背中を叩かれた。
振りかえれば、コクヤが呆れた顔をして、僕を見つめていた。
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