第8話 悪意ある手に口 その3

 僕が知るかぎりの場所を案内した頃には、午後一時ほどになっていて。


「じゃあ、そろそろいこっか」


 その御影さんの言葉に、僕は力いっぱい同意する。まさに渡りに船だ。だって、もう案内できるような場所がなかったから。


 本屋通り周辺にいたので、伍郎書房にはすぐについた。


 現代的な街の中にあってひどく浮いている洋館。レンガ造りの壁には、ツタがはびこっている。敷地には雑草が生い茂り、柵は風雨のせいかさびついていた。


 手入れされていれば、綺麗だったに違いない看板には、ひび割れた文字で『伍郎書房』とある。


「ここが……」


「うん、この街に一件しかない本屋」


 青空ににょっきりとそびえたつ不吉な建物を見上げた御影さんの喉がごくりと波打った。緊張しているのだろうか……。


「すっごい趣深い建物! 面白そうな本がありそうっ」


 スキップしながら御影さんは、建物の中へと入っていく。そのよろこぶ背中を見るだけで、こっちもちょっとワクワクしてくるから、不思議だ。






 中は、外からは想像できないほどに、綺麗にされていた。この伍郎書房は、市内でも有数の本屋で、テレビの取材を受けたこともあるとか。


 屋敷ひとつをまるまる本屋としており、しかもカフェまである。本を読みながら、ブルーマウンテンを飲むことだってできるとあり、老若男女から愛されている本屋だった。


 だが、ここ数か月は、閑散としている。以前までだったら、静謐な店内にも、ある種の活気に満ち満ちていたが、今は死んだような静けさに包まれている。


 入ってすぐに、気がついた。客のすがたがない。それにコーヒーの香ばしい匂いが、まったくしない。おろしたてのインクの臭いしかしなかった。


「あれ……」


 店内入ってすぐのカウンターには、いつものおじいちゃん――伍郎さんの姿がなかった。たぶん、奥の古書の方に行っているんだろう。


 伍郎書房は、古本屋としての面もあり、伍郎さんが蒐集した稀覯本が奥の倉庫には収められているらしい……自慢気に話しているのを聞いたことがある。


 御影さんは、新書が山のように積まれた本棚から、姿を現して。


「いないねえ。あ、そこのカウンターのベルで呼べるのかな?」


 チンチンチーンとベルが鳴る。金属の音は、ひび割れたレンガの壁にしみわたるかのように響いていって。


 少しして、奥の重厚な扉が開いた。


 そこから現れたのは、腰をひどく曲げたおじいちゃん。その人が、この店の主である、伍郎さんであった。




 石川伍郎さんは、御年九十歳を超えるおじいちゃんだ。昭和初期に生まれた伍郎さんはいろいろあって、この神谷木市で本屋を営むことになった――そうなにかの雑誌に書いてあった気がする。


 とにかく、そのおじいちゃんが現れて、カウンターの向こうの椅子にひょいと座った。


「なにか御用かな」


「今日、教科書が届くって聞いて来たのだけれど」


「ああ、御影様ですか」


「はいっ」


「では少々お待ちを」


 そう言うと、伍郎さん、ひょいと椅子を降りると、先ほど出てきた扉とは違うところの扉へ向かっていった。


「あのおじいちゃん元気だねえ」


「僕がこどものころからあんな感じで、いつまでも変わらないんだよ」


 そういえば、と思いだしたことがあった。小学生の頃、学校ではやった噂があった。川岸の柳の下には幽霊がいるとか、伍郎書房のおじいちゃんは年を取らない、とか。


 身軽に動く伍郎さんを見れば、案外当たってるのかもしれないと思ってしまった。


 実際、そんなわけはなく、おじいちゃんは姿こそ変わっていないが、杖を突いている。掴むところに髑髏があしらわれた、白い杖だ。


「変わらないのは、姿だけかもしれないけど」


「ふうん」


 そんな返事がやってきた。興味なさそうだった。


 僕は御影さんの方を向く。彼女は、本棚に手を伸ばしていた。分厚い辞書みたいな本を取って、ページをめくる姿は文学少女だ。


「本、好きなんですか」


「めちゃくちゃ読んでるってわけじゃないけどね。『ハムレット』とか『巌窟王』とか『我が赴くは星の群』とか好きだよ」


 知らない本の名前だった。いや、ハムレットなら聞いたことがある気がする。確か、ハムレットという王子様が親を殺した犯人に復讐するって話だったっけ……。


「深浦くんはどんな本が好きなの?」


「僕は海が出てくる小説が好きです」


 『老人と海』や『海からきたチフス』などなど。父の書斎にあったものだ。


 僕が本の題名を言えば、御影さんはクスリと笑って。


「じゃあ、いつか、海水浴にでも行く?」


「か、海水浴。ちなみに誰と?」


「君以外に誰がいるっていうの……」


 僕は御影さんを見た。冗談か、さもなければからかわれてるんじゃないか。でも、御影さんはこっちを真剣な表情で見つめていた。


 冷房が行き届いているにもかかわらず、なんだか暑いな……。


 僕は目をそらし、無意味にキョロキョロしていたら、扉が開いた。いっぱいの教科書を手にして、伍郎さんが戻ってきたのだ。






 いくつかのお札を出した代わりに、いくつかの硬貨が返ってくる。


 チーンと音がするレジスターを、御影さんは興味深そうに見つめていた。


「はじめて見た……」


「こっちでも勝手に計算してくれるの増えてるんですけど、昔ながらの店はまだ、レジスター多いですよね」


 伍郎さんに聞けば、ゆっくりとした首肯が返ってくる。この伍郎書房もそうだし、饅頭屋さんや文房具屋さんもレジスターが残っている。もちろんコンビニだったりだと、電子決済できる。


「へー歴史あるなあ。こんな本屋だと、珍しいものとかありそうですね」


「珍しいもの、というと」


「例えばなんですけど『虎よ虎よ!』の初版本とか。ありませんか?」


「つまり『我が赴くは星の群』ですか」


 あとから知ったことなのだが、『我が赴くは星の群』と『虎よ虎よ』は同じ作品なんだとか。


 それで、もともとのタイトルの本が欲しい――御影さんはそこまでその小説のことを愛しているらしかった。ちょっと僕にはわからない感情だった。


 伍郎さんが老眼鏡を取りだし、御影さんの瞳を覗きこむ。その緑色の奥に潜む本性を確認しようとしているみたいだ。


 僕は思わず、息をのんだ。空気が一瞬にして、凍り付いて、息を吸えなくて苦しい。どうして、こんなに緊張しているのだろう。もしかしてこれがプレッシャーってやつか。


 伍郎さんは、少し考えるように天を仰いで。


「そうですね、その本があるかはわかりませんので、バックヤードへ向かいますか」

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