第3話 ファースト・コンタクト その2

 御影みかげアゲハ。


 黒板には、きっちりかっちりした字でそう書かれている。


 くるり。チョークを置いた女子生徒が、こちらを振り返り、


「H県から転校してきました、御影アゲハです。よろしくお願いします」


 そう言って、御影さんは頭を下げる。額に入れて飾りたいくらい綺麗な礼だった。


 クラスメイト達からはまばらな拍手が起こる。こっちはお手本にしたくない……んだけど、これには事情がある。


 ホームルームが始まったにもかかわらず、席の半分は空席。


 神谷木市は今や、不要不急の外出を控えるよう警報が出るほどの街だ。クラスメイトのなかにも犠牲者がいた。いや、正確には、犠牲者『かもしれない』だけど。

 

 だから、席だけはちゃんと残っている。残しておかないと、ひょっこり戻ってきたとき――実際、行方不明になっていた生徒が戻ってきた事例はあった――面倒なことになる。引き出しの中に置きっぱなしにされた古語辞典はどこに行ってしまったのか、とか。


 担任は、静かな机の方を指さして、開いているところに座って、と御影さんに言う。


 教卓前の御影さんが、椅子に座る僕らへと視線を投げかけてくる。どこに座ろうかな、とその目が空席から空席へと蝶のように飛んでいく。


 そのエメラルド色の目が、僕の方を向いた。


 ゾッと、肌が粟だった。


 ロケットのような強烈な視線が、僕の体を突きさし、通り抜けていく。ブルリとからだが戦慄した。


 まるで、睨まれたかのようで。


 でも、次の瞬間にはヘビのような視線は消え去って、御影さんはにこりと微笑んでいた。


「――あそこにします」


 御影さんが指し示したのは、僕のとなりの席だった。


 担任が頷き、御影さんがこっちへやってくる。


 その動き、彼女の一挙手一投足に、クラスメイトが視線を集中させている。確かにかわいくて、歩く姿はまさしく百合の花。


 だが、同時に、心がざわついた。雨が降ってくる前のような、土くささのような不快感が僕の肌をなでていく。


 それがどこから、何が原因でやってきているのかを考えている間に。


「よろしくお願いしますね」


 声に、ハッとして顔を上げる。目前で御影さんが、にこやかな笑みを向けていた。


 人なつっこい存在が浮かべる表情に、邪気は見えない。


「こちらこそ」


 僕はなんとか返事した。さっきのネガティブな感情は、なにかの間違いだろう。そうに違いない。






 チャイムが鳴りひびくと同時に、北斗が教室を飛びだしていく。おおかた購買部へ昼食を買いにダッシュしたのだろう。ボストンのM大学から来たという英語の先生がその後につづく。


 僕は、引き出しに教科書を入れてから、ふうと息をつく。一週間ぶりの授業は、しみるものがある。眠たくてしょうがない。

 大きく伸びをすれば、こわばったからだからパキポキ音がした。


「深浦くん、ちょっといいかな」


 伸びをやめて、お隣を見る。ノートをトントン揃えていた御影さんは、


「今日、用事とかってある?」


「どうして?」


「街を案内してほしいなあって」


 ダメかな、と御影さんは付け加える。やや伏せられた目、申し訳そうな表情、もじもじ所在なさげに動く指……。

 その所作すべてがかわいくて、そんな彼女の頼みなら、どんなことでも聞きたくなってしまう。


 だけども。


「ごめん、今日はちょっと……」


「――――」


 御影さんの目が大きく見開かれる。ヒスイ色の瞳は、どこまで透き通っていて、果てがないようにさえ思われた。


「そっか。ちなみに、その用事って」


「……大したことじゃないよ」


「それでも、聞きたいな」


「幼なじみのお墓参りだけど」


 僕はつとめて明るく言葉を発した。そのオレンジ色の言葉は、静まりかえった教室に、空虚に響く。


 そういえば、休み時間になれば転校生のもとに集まってきていたクラスメイトの姿がない。みな、自らの席に座り、思い思いの昼食を広げている。


 まるで、空気を読んでいるみたいだ。


 通夜のときみたいな、いたたまれなくて、言葉を発したら、喉にでもナイフを突っこまれそうな雰囲気がする。胃はチクチク痛んで、吐き気がこみあげてきた。


「ごめんなさい。そうとは知らずに」


「ううん。別に」


 それ以上、僕と御影さんの間に会話が生まれることはなくて、僕は立ち上がる。御影さんは止めることはなかった。


 教室を出ていく途中、背後でかしましい声が聞こえてきた。クラスメイトが、転校生へ質問を浴びせかけ始めたらしかった。




「よし、帰ろう」


 そう決めたのは、五時間目の体育の直前のこと。みんな着替え終わっていて、運動場に続々向かっていく。


 窓から見える空は、どんより曇りはじめている。このままいけば、まもなく雨が降るかもしれない。しびれるような頭痛も、そう言っていた。


 着たばっかりの体操服を脱ぎ、制服に着替えなおす。


 それから、教科書をカバンの中へ。


 ずっしりと重たい学生カバンを手にして、僕は教室の扉を閉めた。






 早引きすると担任の先生に伝えてから、校舎を後にする。


 見上げた空は、鉛色。遠くの空は暗くて、遠くないうちに雨が降ってきそう。


 正門とは真逆の方向へと僕は歩いていく。あっちは、運動場に面している。体育の先生に、逃げた、と思われるのは面倒だし、癪だ。


 裏門の方面には、閑散かんさんとした運動部の部室、テニスコートがある。クレーコートには黄色いボールが無数も転がっていた。


 それを横目に、裏門をくぐり抜ける。


 高校に隣接した公園を通り、メガネのかたちをした橋を渡る。


 神谷木川沿いにまっすぐ進んでいく。右手には川、左手には森。緑は樹海ほど広いわけではなく、こじんまりとしていたものだ。


 でも、川はそうじゃない。高い護岸に囲まれたチョロチョロッとしたヘビみたいな川だけど、豪雨のときなんか、ドラゴンに変貌する。 むかし氾濫があったそうで、今でも犠牲者の魂を鎮めるための祭があった。


「もう三週間切ってるのか」


 すでにいつもなら、祭りで何を買うか、ウカと話をして盛り上がっていただろう。今年は何食べよう、いつものかき氷……いやクレープでしょ。そんなウカの声が聞こえてくるかのよう。


 祭りには、さまざまな出店が立ち並び、花火が上がる。このような物騒なときにも開催されたのは、なんらかの陰謀を感じないわけでもない。こんな状況だからこそ、なのかもしれないけど。


「今年はどうしょう」


 事件という事件が市内のありとあらゆる場所で起きている今、家の中に引きこもっているのが一番だ。それはわかっている。


 でも、そんなの味気ない。


 川のせせらぎを聞きながら、川辺を歩いていく。行方不明事件が多発しているとは思えないほどに、牧歌的だ。柳の葉が、手招きするように揺れる。ぼちゃん、魚が跳ねた。


 まもなく、花屋が見えてくる。そこで菊とカスミソウを買う。「プレゼントですか?」その問いかけに、僕は黙って首を振った。


 それから、また、川沿いに少し。神谷木駅を通過し、病院が見えてくる。その隣に、神谷木共同墓地はあった。


 そこに、ウカは眠っている。




 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る