第二章 君をあはれと思ひ出でける③

 翌日の放課後。帰り支度を終えた治は、教室後方のロッカーをじっと見据えていた。

 自身の領土の中にはいま、二体の人形が収められている。

 それらを今日も美術室に持ってきてほしいと願っている少女がいることを、忘れてはいない。

 しかし、それは義務でも約束でもない。一方的に乞われていることだ。

 文句を言われる筋合いなどない、と治はロッカーを開けることなく教室を後にする。

 廊下を歩き、階段を下り、昇降口を出て正門に向かう――はずだったのに。

 気が付くと美術室の前に立っていた男は、己の行動に呆れていた。

 溜息混じりに扉を開ける。途端、「おお、弟者」とセレーネが歓迎するように寄ってきた。


「……悪い、今日野暮用ができちまって。……だから、帰るわ」


 手を合わせて部活欠席の旨を伝える。セレーネは目を何度か瞬かせたあと、


「そうか。さすれば、エゴーは別の課題をやるとしよう」


 不満の声も脇腹への攻撃もなく欠席を受け入れられ、治は少々拍子抜けしてしまった。


「――頑張ったな、弟者。褒めてやるぞ」


 唐突に称揚され、思わず「は? 何がだよ」と問うた。


「部活に何も言わずに来ないのと、休むと言って来ないのでは全然違うだろう」


 結果は何も変わらないのに、セレーネは治の極々小さな変化を肯定してくれて。


「だから、エゴーが褒めてやる。しが、しが。ゆっくり、大きくなれよ」


 居た堪れなくなった少年は、顔を背けるように美術室を去っていった。

 正門を出て、最寄り駅から電車に乗ること二駅。改札を出ると、厄介娘が待っていた。

 渋々「……よう、院長」と声をかける。

「……あ、黒松くんかな?」微笑んだ月子が手を振った。

 高嶺の花と放課後を共にするという、男子からすれば願ってもないシチュエーション。

 だが、治の気分は重い。新たなトラブルの元に思えてならなかった。

 学校から離れた場所で落ち合うことにしたのは、一緒にいるところを中秋高校の生徒に目撃されないための配慮だ。念のため周囲を警戒しつつ、二人で近くのファミレスへと入った。


「私、こういうお店あんまり来ないんだ。……んん、これはなかなか……栄養が偏りそうな料理が多いんだね」


 物珍しそうにテーブルのメニューを開きつつ、医者の卵は客の健康を憂慮する。


「でも資料にはなるね。デートシーンの食事とかに使えるかも」

「デートならもう少しいい店のメニューを参考にしたほうがいいだろ」

「それなら、一般的な高校生カップルってどういうお店でデートするの?」

「俺が知るか」


 恋愛小説に活かせるような小洒落た飲食店など、日陰者に紹介できるはずがなかった。


「じゃあ、黒松くんの行きつけのお店とか教えてほしいな」

「俺、外食はうどん屋くらいしか行かないぞ」

「うどん好きなの?」

「ああ、まあ。讃岐うどんは特に」

「ふぅん、東京の人には珍しいね。私はおそばのほうが好きだな」

「……お、なんだ? 戦争か?」


 不意に売られた喧嘩を、治は譲れぬ信念を持って買うことにした。


「うどんを食べた瞬間の滑らかな口当たりと、噛んだときの弾力は、他のどんな食材でも到達できない境地にある。喉越しも最高だ。うどんこそ最高の和食。世界に誇れるUDON」

「す、凄い熱意だね」

「前世は讃岐造(さぬきのみやつこ)に違いないと自負している」

「それは竹を取る人じゃないかな……」

「日本三大うどんを知っているか? 讃岐、稲庭、水沢、氷見、五島。そう、五つ揃って三大うどんだ。全部食ってみな、飛ぶぞ」

「おそばにも、戸隠、出雲、わんこって三大そばがあるよ」


 聞いたこともないな、と内心鼻で笑う治だった。


「でも私は、外で食べるよりも自分で作った月見そばのほうがずっとおいしいって思うんだ」

「へえ、院長は料理できるのか」

「簡単なものだけだけどね。いま、一人暮らししてるから」

「え? 院長の親って今上病院の先生だよな? だったら都心に住んでるんだろ? 別に通学とかに不便はなさそうだけど……」

「通学のためじゃなくて、単なるわがままだよ。去年高校進学したのを機に一人で勉強したいって言って、実家じゃない住まいを用意してもらったんだ」


 それを聞いて瞠目する。一五歳で独り立ちとは、なんとも殊勝な優等生であることか。

 家事は全て母親任せの治とは大違いだ。将来が実に不安である。


「そんなほいほい家を用意できるなんて、やっぱ医者ってのは金持ちなんだな」

「ん……まあ確かに、平均的な世帯収入よりは多いだろうけど」

「それも日本一の大病院だもんな。まあ人の命を助けてるんだから、正当な報酬か」

「……黒松くん、いまは医者の娘じゃなくて、作家としての私と話してくれないかな」


 月子は困ったように笑うと、スクールバッグを開いた。取り出されたのは、一〇〇枚以上はある紙の束。彼女が執筆した小説をプリントアウトしてきたものだ。


「私の家じゃなくて、私のお話に興味を持ってよ。そして、私の子供を作ってほしい」


 月子の子供――すなわち、彼女が生み出した小説のキャラクターのこと。

その人形を作ってもらいたいというのが、治が月子に乞われた願いだった。

 昨日一日で三件目。ときが中学時代に戻ったかのように、人形に関わる依頼が押し寄せている。どうしてこうなったのだ……、と治は溜息を吐いた。


「院長、俺にどこまで口止め料を払わせる気だよ」

「それは昨日の取材とシーン再現で十分だよ。これは私の、個人的なお願い」

「もう人形作りの依頼は受けたくないって話したよな?」

「私はトラブルなんて起こさないって約束するから」

「既にトラブった記憶しかないんだよなぁ……」


 創作に耽溺するこの少女と交流を持ち続けるのは、神経をすり減らしてしまいそうだ。


「私の病気を治すために、黒松くんの力を貸してほしいんだ」

「昨日も訊いたけど、人形を作ったら治る病気ってなんなんだよ。んなもんあるわけねーだろ」

「命名するなら、人間全員肉塊に見えちゃう病?」

「……グロすぎる」


 少し想像してみただけで、吐き気が込み上げてきそうになった。


「……気分悪くしちゃったね。ごめん、じゃあお肉病って言い換えるよ。私が身体を見られてもなんとも思わないのも、青春できないのも、人間がお肉に見えちゃう病気だからなんだ」

「すまんが、全く意味がわからない」

「たとえば、黒松くんはお店で買ったお肉の前で裸になったとして、恥ずかしいって感じる?」

「んなわけあるか」

「じゃあ逆に、お肉って裸だけど、興奮する?」

「性癖上級者にも程がある」

「そうでしょ? ましてやお肉に恋愛感情なんて、絶対に抱けないよね?」

「萩辺りなら、お肉大好きそうだけどな」


 真面目な優等生から放たれる奇天烈な発言を、治は適度な突っ込みで受け止めていく。


「人の身体の裏側が血と肉と骨と脂でできてるんだって知っちゃってから、私は人間がお肉に見えるの。でも人形だったら、裏側に血も肉も骨も脂もないから、お肉には見えないんだ」

「人形なら恋愛感情を抱けるってことか……」

「そ、そういうわけじゃないよ。黒松くんに人形を作ってもらえれば、人の形の魅力や美しさを感じ取れるようになれるんじゃないかって思って、お願いしたいんだ。本物の人間の身体でも性愛を理解できるようになれたら、私も勉強以外の青春を過ごせると思うから」


 語られる依頼の動機を、治は眉間に皺を寄せながら整理していく。


「院長はいま人間が肉に見える病気にかかっていて、それを治したい。人形で人体美を認識できるようになって、恋愛感情を抱けるようになりたい。だから俺に人形を作れ――と」

「うん、そういうこと」

「要するに、最終的には恋人がほしいってことか。院長もしっかり女の子だな」

「その言い方は趣に欠けるよ、黒松くん……」


 ざっくばらんなまとめに、月子は苦笑いを浮かべた。


「確かに恋愛への憧れはあるけどね。だから私の理想の青春を小説にしようって思ったんだし」

「で、このネタも小説のシーン再現か何かか?」

「本当のことなんだよ。嘘だと思うのも仕方な……」「――あれ? 院長?」


 突然、月子を呼ぶ女性の声がした。その呼び名から声の主が中秋高校の関係者であることを瞬間的に悟った治は、脱兎の如く、身を屈めてテーブルの下へ逃げ込んだ。


「こんなところで、偶然だね。院長一人? ……って当たり前か」


 すぐに二本の足がテーブルの横に立った。幸いこの女子生徒の目が捉えたのは月子の姿だけだったらしい。隣席との仕切りが死角になったようで、治はほっと息を吐いた。


「ええと……野口さん?」


 間の悪い乱入者はクラスメイトの野口か、と思ったのも束の間、


「……院長、私野口じゃなくて、若田なんだけど……」


 まるで昨日の昼休みを再現したようなやりとりに、治は眉をひそめた。


「あっ……ご、ごめん、そうだったね」

「今年も同じクラスなんだから、いい加減名前くらいは覚えてくれたら嬉しいんだけどな」

「……名前は覚えてるよ。でも……」

「いいよ、気にしないで。院長は勉強で大変だもんね。私なんかと仲良くしてる暇なんてないんだって、わかってるから。……じゃ、また学校で」


 会話を長引かせることもなく、若田はその場を離れていく。

 彼女が会計を済ませて店を出ていったのを確認して、治はソファーに戻った。


「野口と若田って、見間違えるほど似てないよな?」

「……でも、声が似てるから」

「……まさか、人が肉に見えるから、顔の区別がつかなくて、声で判断してるってことか?」


 半ば冗談のつもりの問いかけだった。だが、月子は首肯を返し、治を唖然とさせた。


「じゃ、じゃあ昨日、昼に俺と話したのに、放課後には忘れてたのは……」

「黒松くんの声をまだ覚えてなかったから。黒松くんのことも、私はお肉に見えてるんだ」

「…………マジで言ってんのかよ」


 とても信じられなかったが、月子の日常生活に支障が生じているのは確かなようだった。


「……こんな私だから、人付き合いが苦手で。……恋人どころか、親しい友達もいないんだ」


 高嶺の花は下々の者に興味がない。皆そう感じて、月子から一定の距離を保ってきた。


「いまのままじゃ、私は恋の一つもできないし、クラスメイトと一緒に遊んだりもできない。みんなと同じような青春が、私にはできないんだよ」


 しかし、高嶺の花にも理由があった。誰にも打ち明けることなく抱える悩みがあった。


「私はこの病気を治したい。完治させて、私も素敵な青春がしたいんだ」


 治を控えめに見つめながら、月子は希望を口にする。


「だから――力を貸してよ、黒松くん」

「…………そうか。……まあ、なんだ。大変なんだな」


 世の中には色んな病気がある。そう強引に理解したとしても、あまりにも実感が乏しくて。

 人が肉に見える病気を、人形で治したい。そんなことが本当に可能なのだろうか。


「そんな理由で人形作りを頼まれたのは初めてだな。自分の小説のキャラが愛おしくて、形にしてもらいたいってことならわからなくもなかったけど」

「ん……その気持ちも、なくはない……のかな」


 僅かな肯定の色を見せた月子に、「だよな」と納得する。

 そうでなければ、わざわざ小説を紙に印刷して持参したりはしないはずだ。


「わかってくれたなら、私の子供を作ってくれる?」

「……いや、それとこれとは話が別だから」


 畳み掛けてきた月子の願いを、治は首を振って拒む。


「どうしてもダメ、かな」

「察してくれよ院長。俺だって色々あったんだ」

「……とりあえず、せっかく原稿を持ってきたんだから、読むだけでもしてほしいな」


 テーブル上の紙束を月子の手のひらが示す。

 人形作りの資料として、一度原作に目を通してほしいというのが依頼の第一段階だった。


「そして、黒松くんの感想とか言ってもらえたら嬉しい」


 感想まで求められたが、作者の目の前で忖度なく感じたことを伝える度胸はそうそう持てるものではない。けれど、ここで突っぱねるというのも忍びなく、治は原稿に手を伸ばした。


「本はもう出てるんだろ? 紙に印刷しなくても、それを持ってくれば済んだんじゃねーの」

「うん、見本誌があるから、あとであげるよ。……でもその前に、なんの先入観も持たないで、黒松くんの頭の中のイメージだけで読んでもらいたいなって思って」

「先入観?」

「……本には、キャラクターのイラストが描いてあるから」


 確かに昨今の小説であれば、表紙には読者の興味を引くような絵が描かれているだろう。

 だからこそ、治は首を捻る。人形を作ってもらいたいのなら、むしろキャラのビジュアルはより意識してもらいたいものではないのだろうか。


「まあ、読ませてもらうよ。人形作りを断って、原稿まで突き返したら、さすがに申し訳ないし……院長が書いた小説がどんなものか、全く気にならないって言ったら嘘になるしな」

「ありがとう! わ、目の前でクラスメイトに読まれちゃうなんて、恥ずかしいな」

「なんでその感情を昨日抱けないんだよ……」と渋い顔で突っ込みを放つ治だった。


 とはいえ、両手で口元を覆い隠しながら肩を揺らしている月子の様子を見ると、不思議と安心感にも似た思いが込み上げてくる。彼女にも、全く羞恥心がないわけでもないようで。

 そう認識した途端、正面に座る美少女が一層可愛く見えてくる。

 やはり恥じらいは男心をくすぐる必須要素だと、治は確信を得た。

 バレンタインの日、あのセレーネでさえ不覚にもめちゃくちゃ可愛く思えてしまって。

 その夜一晩、ほわほわした正体不明の高揚感に苛まれてしまったものだ。

 治はドリンクバーでジュースを注いでから、席に戻って原稿に目を落とした。

 最初の行に書かれていたのは、『恋は刹那か永遠か』という文字列。

 いかにも「恋愛小説です!」という女性向けのタイトルで、男子高校生の感性からすると背中がむず痒くなる。続いて二行目には、人の名前と思しき単語が書かれている。


「青月真珠(あおつきしんじゅ)ってのがペンネームなのか。何か意味とか由来とかあるのか?」

「青は、青春の青。青春物語を書きたかったから。月は、私の名前から」

「真珠は?」

「真珠、つまりパールの石言葉は『健康』とか『長寿』だから、縁起がいいと思って」

「そりゃまた医者の娘らしいネーミングセンスだな」


 これまでの人生で宝石などとは無縁だった治は、石言葉という概念を初めて知った。

 光り物が嫌いな女性はいないと言うが、月子も例外ではないのだろうか。


「それじゃ、拝読させていただきますよ、青月真珠先生」「お、お願いします」


 頭を下げる新人作家に苦笑しつつ、治は月子が創作した世界の中へと没入していった。

 主人公は、ヒロインを兼任する天野羽衣(あまのうい)という高校一年生の女の子だった。

 羽衣は、周囲の人間達が色恋の花を咲かせる中、自身も恋愛への強い憧れを持っている。

 ところが、彼女は昔から他人を好きになれない、恋心を抱くことができないという心の病を抱えていた。医学の力をもってしても心の病気までは治せず、羽衣は恋を諦めていた。

 そんな羽衣の元に、秋も深まったある日、天から不思議なマフラーが舞い降りてくる。それは、巻き付けている間は必ず深い愛情を持つことができるという、魔法のアイテムだった。

 羽衣は早速クラスメイトの男子で効果を試してみたところ、瞬く間に両想いになる。

 授業から食事から放課後まで、相合マフラーでべったりとくっつき、生まれて初めての青春を大いに満喫する。憧れていた恋愛はやはり素晴らしいものだったのだと、羽衣は感激と至福の想いで満たされていった。

 だが、それはマフラーを巻いている間だけの、刹那の恋心に過ぎなかった。

 その日の別れ際になってマフラーを外した途端、羽衣からも、相手の男子からも、嘘のように愛の感情は消え去ってしまい。残ったのは気まずい空気だけであった。

 効果通りの結末。魔法のアイテムであっても、羽衣の病気を治してくれることはなかった。

 それでも羽衣は、時限付きのロマンスを求めてマフラーを使い続ける。

 学校の男子を次々と標的にし、甘く蕩ける青春を味わい、そして一日で別れた。

 翌週になり、六人目の男子を毒牙にかけたとき、状況が一変する。

 御門富士(みかどふじ)というクラスメイトと一日交際をした後、マフラーを外したのだが、彼は羽衣への愛情を忘れることなく、また明日も楽しく過ごそうと言いだしたのだ。

 羽衣には富士への想いなど欠片も残らなかったのに、なぜか富士は羽衣を意識し続ける。

 ときにマフラーを巻きながら、ときにマフラーをせずとも二人で過ごす時間が増えていく中で、徐々に羽衣の中でも富士の存在感が大きくなっていく。

 魔法のマフラーがもたらす恋は、果たして刹那なのか、永遠なのか。

 人が人に抱く恋は、果たして刹那なのか、永遠なのか。

 高校生の青春模様にどっぷりと浸れる恋愛奇譚を、治はじっくり二時間以上かけて読破した。

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