第二章 君をあはれと思ひ出でける②
「……昔、人形作りの依頼を受けて、トラブルになったことがあったんだ」
きょとんと首を傾げる月子に、己の過去の一端を打ち明ける。
「俺はもう人形に関わる依頼は受けたくない。作ったり治したりできるってこと自体、知られたくないんだ。だから、今日見たことは誰にも言わないでほしい。頼む」
包み隠さず心情を伝え、頭を下げる。
「……黙っててほしいのなら、もちろん誰にも言わないけど」
幸いにして、真面目なクラス委員長は人の秘密を吹聴するつもりはないようで。
「でも、嘘をつかれたのは、ショックだったな」
しかし少しだけ不満の色も感じ取った治は、もう一度「すまなかった」と頭を垂れた。
「反省してるんだったら、口止め料代わりにさっきの質問に答えてよ」
「質問って、だから美少女フィギュアにムラっときたってのは嘘なんだよ」
表現された女性的な魅力を全く感じ取れないとは言わないが、性的興奮には程遠い。
「じゃあ、黒松くんは生身の人間のほうがいいんだ?」
「誰だってそうだろ。院長は違うってのか?」
「こうして見てみると、その辺について思うことがあってね」
「はあ?」
「人形だったら、身体の裏側を連想しちゃうこともないんだなって」
そう言いながら魔法少女の偶像に向ける月子の眼差しは、妙に真剣なもので。
一瞬訪れた静寂が、治にはやけに不気味に感じられた。
「……そろそろ、俺の用事を済ませたいんだが」
「あ、ごめんね。どうぞどうぞ」
身を引いた月子の横を通り抜け、治はロッカーに二体の人形を収納する。
「俺はこれをしまいに来ただけだから。……もう帰ってもいいか?」
「え、もう少し取材させてよ。人形にムラムラしないのなら、生身の女の子の魅力は?」
「エグすぎる質問はやめろ!」
「どういう瞬間に女の子に恋に落ちる?」
「語れるほど俺は経験豊富じゃねーよ」
「もう、ちゃんと答えてくれないと取材にならないよ」
「ていうか、そもそもなんで俺が取材対象になってんだよ」
「私が書いてるのは恋愛小説だから、男の子の本音が知りたいんだ」
「だったら取材する男を間違えてるだろ。クラスの陽キャ連中にでもあたれよ」
恋愛小説に活かすのなら、治のような日陰者よりずっと適しているはずだ。
望む回答を得られない月子は、唇を尖らせながら長い息に不満を乗せた。
「取材受けてくれないんだったら、別のことを手伝ってよ」
簡潔なリクエストに、治は「何をだよ」と首を捻る。
「黒松くん、さっき私が服を脱いでたのはどうしてだと思う?」
「え? そ、そりゃ……着替えでもしてたんだろ」
記憶を遡れば否が応でも鮮烈な情景が蘇り、頬が熱を帯びていく。
「外れ。それなら更衣室に行くよ」
「だったらアレだ、日々の勉強のストレスでおかしくなった」
「……ええ?」
「一度、何もかも投げ出してスッキリしたかった。解放感を味わいたかったんだろ」
「……私ってそんなに勉強の虫に見える?」
「めっちゃ見える」
「……まあ、否定はしないけどね」
「でも露出に走るのはダメだ。そういうときは丸一日パーッと遊び倒せ」
月子が歪んだ性癖に目覚めないよう、息抜きを促すアドバイスをした。
「心配してくれてありがとう。でも、それも外れ。正解はね、シーン再現をしてたんだ」
「再現?」
「いま書いてる二巻で、ヒロインの子が下着姿になって、夕方の教室で男の子とイチャイチャするってシーンを考えてるんだけど、実際に体験してみたら描写に活かせると思って」
優等生が肌を晒していた理由を知り、作家として殊勝な振る舞いだなと治は感心する。
同時に、そこまで身体を張らなくてもいいのでは……と突っ込みたくもなった。
「この時間ならもう教室には誰も来ないだろうって思ったんだけど、制服脱いだ途端に黒松くんが来ちゃったから、結局まだ何も感じ取れてないんだよ」
「それは邪魔して悪かったな。そしたら俺はもう消えるから……」
「させないよー」
瞬間、月子が飛ぶようにして治の背後へと回り、出入口までの道を塞いだ。そして、
「んなっ……!?」
自らブレザーのボタンに手をかけ、外していく。女子の信じられない行動に身体を硬直させる治を尻目に、月子はリボンとブラウスも同様に身体から剥ぎ取っていく。
ローファーとソックスを脱ぎ捨てると、最後の砦のスカートもすとんと床に落とした。
僅か二〇秒で、月子の身を守るものは胸回りと腰回りを覆う白布だけとなっていた。
「なんでまた脱ぐの!?」
「だから、シーン再現したいんだってば」
こともなげに答えた月子は、歩み寄って両腕を治の右手に絡め、ぐいぐいと窓際へ引っ張っていく。月子の奇行と、上腕に感じるほんの僅かな弾力に、治は狼狽した。
「二、三分でいいからさ。黒松くんも手伝ってよ、シーン再現」
「いや、もう、それだったら取材のほうがいい! 取材受けさせてください!」
「取材も受けてくれるの? やった!」
必死の願いも届かず、ついに治は自席の椅子に座らされ、月子は机の上に腰を下ろした。
治の双眸が再び下着姿のクラスメイトを捉えた瞬間、理性と欲求の壮絶なせめぎ合いが始まる。治は懸命に目を逸らして道徳心を保とうとしたのだが、
「ほら、ヒロインのことをちゃんと見てよ。恋人役の黒松くん」
頬に細い指が当てられ、くいっと真正面を向かされてしまった。
目前五〇センチにある素肌を直視すれば、治の中の生物的本能が一斉に襲い掛かってくる。
もう、目を閉じることも逸らすこともできず。未完成ながらもほのかな艶美を醸し出す月子の華奢な肢体の魅力に、ただ釘付けになるだけで。
「どう? ちょっとくらいはえっちな気分になったかな?」
男心など露程も知らない新人作家の問いに、喉を鳴らしながら首肯させられてしまった。
「そっかそっか。じゃあヒロインの狙いは成功だね」
「……そのヒロイン、欲求不満なのか」
「違うよ。恋心が本当に永遠のものなのか不安で、相手に求めてほしいって思ってるの」
「襲われたいってことか?」
「んん、そこまではどうだろう。触れてほしいとは思ってる、かな」
月子は顎に手を当てつつ、作中のキャラクターの感情を探った。
「男の子的には、そういう状況って嬉しいもの?」
「普通なら嬉しくないわけがない。……けど、恋人が突拍子もなくこんな行動をとったりしたら、まず心配すると思う」
「ふむふむ。じゃあそこは気遣いを見せて、お互いの心情を打ち明け合う展開にしようかな」
取材の成果を原稿に反映させようとするのは作家の鑑かもしれない。
しかし、執筆のための行動とはいえ、治にはどうしても理解できなかった。手を伸ばせば触れてしまえるような距離で男子に肌と下着を晒して、なぜ平然としていられるのだ。
「……ヒロインは、恥ずかしがっているのか?」
「ん?」
「男に身体を見られるのなら、ちゃんと顔を赤らめて恥ずかしがってるのかよ」
普段ひた隠しにしているものを露わにしてしまい、羞恥の感情に囚われていく。人間として至極当然の反応だ。ゆえに罪悪感と背徳感を刺激されて、情欲をそそるシーンになる。
「それって大事なこと?」
「最も重要と言ってもいいだろ。お色気シーンに限らず、ヒロインのちょっとした恥じらいに男キャラと読者は悶絶するもんだ。そしてその子のことをどんどん好きになっていく」
「なるほどね。確かに、一巻の原稿を書いたときも、ヒロインの言動に羞恥心が足りないんじゃないかって担当さんに指摘されたよ。……でも、恥じらいかー。難しいな」
「……なあ、本当は院長だって、いま凄く恥ずかしいんだろ。これ以上無理するなよ」
全然平気と強がるのは、作品のために身体を張る自分を鼓舞するための自己暗示であって、本心では恥ずかしいに決まっている。そうに違いない、そうであってくれと治は願った。
いまからでもその美しく可愛い顔を、人間味のある羞恥の赤に染めてほしかった。
「無理してないよ。さっきも言ったけど、私は身体を見られたってなんとも思わないから」
しかし、月子は首を振る。何事も起きていないように、はっきりと。
「……だとしても、もう十分だろ。いい加減俺の良心も限界なんだよ」
「別に黒松くんは何も悪いことしてないのに。最初はすぐに教室を出ていってくれたし、いまだって私に指一本触れないで取材に協力してくれて、凄く紳士的だよ」
「院長、もっと自分のこと大切にしろ。俺が理性を保てなかったらどうするつもりだったんだ」
「黒松くんのことを信頼してたからね!」
間近で向けられた屈託のない笑顔に、ゆくりなくも胸をときめかせてしまった。
「い、いいから、早く服を着ろよ。俺が取って来てやるから……」
「待ってよ。もう一つだけ体験してみたいことがあるんだ」
「なんだよもう、さっさとしてくれ」
「私のこと、抱き締めて」
「……はああぁぁああああ!?」
これまでにも増してとんでもない要求に、驚愕の叫びが出た。
「このシーンは、最後に気持ちを確かめ合ったヒロインと恋人の男の子がハグをして終わる予定なんだ。そこもしっかり再現しておきたい」
「ふ、ふざっ……そんなことできるかよ!」
さすがに同級生の男女がやっていいラインを越えている。いや、至近距離で下着姿を見つめるというのも大概だろうが……身体に触れるのは完全にアウトだ。
一刻も早く月子に服を着せるべく、治は足に力を込めた。
「よっと」「はゃう!?」
が、一瞬早かったのは月子のほうで。机から飛び降りると、そのまま椅子に座る治の足へと着地する。瞬間、太ももの上にふかふかなブランケットが掛けられた。
正面を見やれば、足を開いて対面に座る月子が大きくて丸い瞳をこちらに向けている。
「一〇秒、一〇秒でいいからぎゅってしてよ、黒松くん」
「お前はほんとに創作のためならなんでもやるのな!?」
「だって、疑似的にでも青春を味わってみたいんだよ」
「お前なら本物の青春くらい簡単に過ごせるだろ!?」
「……勉強の虫に、無茶を言ってくれるなぁ……」
ぼそりと呟いた月子は、倒れ込むように治の耳元に顔を寄せた。
「古和さんのことは抱き締められて、私のことはできないの?」
「なっ!? あ、あれはあいつのほうから……!」
ことの経緯はさておき、昼休みの事実を指摘され、治はうろたえる。
「黒松くんと古和さんって、実は恋人関係だったりするの?」
「そ、そんなわけないだろ」
「だったら、同じことを私にもできるよね?」
おねだりするかのように微笑む月子が、するりと治の両肩に手を滑らせた。
「これで最後だから。人助けだと思って。ね?」
拒んだところで、もはや彼女はその手を下げはしないだろう。
己の目的のためなら、常識を捨て去った行動さえとることができる。
あの今上月子がそんな人間だったのだと治は知らなかったし、知りたくもなかった。
他の生徒達と同様に、ただ尊敬すべき高嶺の花として、教室の隅から眺めていたかった。
雲の上の存在。月にでも住んでいるような天上人が、いま、裸にも等しい格好で治の膝の上に座っている。その身に触れてほしいと願っている。
興奮を寸毫も抱かなかったわけではない。認めたくない下心はどこかに確実にあった。
けれど、治は月子のことを、たまらなく危うい存在だと感じ取った。
誰かがその身を抱き止めてやらねば、倒れてしまう。海に沈みゆく月のように、痕跡も残さず消えてしまう。そんな儚げな錯覚に、治の脳内は支配されてしまった。
「……一〇秒、だけだからな」
「うん、ありがとう。一〇秒だけ、私達は恋人同士だよ」
感謝を伝えると、月子はお尻を滑らせて治の身体に密着した。
ふに、と先程上腕で感じた膨らみが胸に触れた。首の横から肩甲骨の辺りにかけて、締め付けられるように月子の腕が回される。耳と頬を、さらりとした黒髪がくすぐった。
いままで嗅いだことのない甘い香りが周囲の空気に溶け込み、荒くなっていく吸気を取り込む度に鼻孔を通って脳から正常な思考を奪っていく。
……やはり、了承などするべきではなかった。治は激しく後悔した。
一〇秒後に、理性を破壊させられずにいる自信が全くなかった。
頬が燃えていく。心臓がオーバーヒートを起こしそうになるほど速くなる。正面で密着する相手には全て伝わってしまうのだろうと、死ぬほど恥ずかしくなった。
こんな状況は一刻も早く終わらせなければ。自我を、保てなくなってしまう前に。
治は両手を前に上げ、月子の全てを包み込むように肘を曲げていく。
指先が触れた瞬間、なんだこれはと思った。感じたことのない柔らかさと、たとえようのない滑らかさ。指で感じたそれが人間の身体を構成するものだと信じることができなかった。
それでも、伝わってくる熱が生き物の身体であることを証明している。
幾度となく触れてきた冷たい人形ではないのだと、手のひらは間違いなく認識する。
意外と高い体温。その温もりが物凄く心地いい。全身が幸福感で満たされていく。
無意識に、腕に力が入った。両腕で優に収まる細い肢体は、儚げで、守りたくなって。
大丈夫だ、俺がいる。そんな思いを伝えようと、背中をそっと撫でてやった。
「んっ……」
ぴくり、と月子が腕の中で身じろいだ。漏れ出た吐息は甘く、ねだるようにも聞こえた。
「好き」
(――え?)
耳元で囁かれた言葉はあまりにも小さくて、聞き間違いを疑った。
「あなたのことが、大好き」
再び揺れた鼓膜が、空耳ではない愛の告白であることを伝達する。
そう、だったのか。それならば、これまでの奇行にもある程度の説明がつく。
月子は密かに治のことを慕い、求めていた。その身の全てを受け入れてほしかったのだ。
なぜ自分などを、と疑問に思い始めれば尽きることはないが、いま答えを知る必要はない。
月子の想いに応えるのか、応えないのか。彼女を抱くこの手を強めるのか、弱めるのか。
疑似の青春を本物の青春にできるのは、治が下す決断のみ。
勉強の虫が、違う虫になりたがっているのなら。
影を纏って日々を生きるこんな男でも、誰かに必要とされているのなら。
治は、月の住人になろうとした。
「愛してるよ、フジくん」
「…………フジくん?」
「あ、ごめん。ヒロインの恋人役の名前だよ」
抱き寄せようとした手から、するりと力が抜けていった。
「遠回しな表現よりも、ここはストレートに愛を伝えるべきだと思うんだけど、どうかな?」
恥じらいの欠片もない月子の様子に、それが小説の台詞でしかなかったことを把握する。
「返しもシンプルに『俺もだよ、ウイ』って……」「もうとっくに一〇秒経ったぞ、院長」
台詞吟味に割り込んだ治は、月子の背中に回していた両手を下げた。
期待を返してほしい。そう言って頬を膨らませたセレーネの気持ちがよくわかった。
「え、も、もう少しだけ!」
「約束しただろ、もう終わりだ。それとも、院長も嘘をつくのか?」
「……そうだね……でも、私がこのまま黒松くんの上に居座れば……」
「そのときは院長の尻を掴んででもどかさせてもらうからな」
「……あはは、そしたら黒松くん、また謝っちゃうんでしょ」
苦笑いを浮かべた月子は、治から離れて立ち上がる。距離を取ったことで再度眼前で露わになる肌と布をなるべく視界に入れないようにして、治はようやく席を立つことができた。
「協力してくれてありがとう。おかげで執筆に役立てられそうだよ」
月子がいい小説を書けるのかどうかは治にとってどうでもよくて。
「ここまで付き合ったんだから、例の件は絶対に黙っててくれよ」
「もちろん。黒松くんの青春が人形作りの虫であることは、他の人には言わないよ」
「や、全く違うんだけど……まあいいや」
少々誤解をしているようだが、黙っていてもらえるのならなんでもいい。
そのために、こんな教師にバレたら一発停学レベルの口止め料を支払ったのだから。
「ほら、さっさと服着て帰ろうぜ。医者の娘が、風邪ひくぞ」
治はスクールバッグを肩に掛け直し、未だ下着姿の月子に着衣と帰宅を促したのだが、
「……黒松くんは、私の身体を楽しめた? もっと見たいとか、触りたいって思った?」
「お、おい、生々しいことを訊いてくるんじゃねーよ」
「真剣な質問だよ。どうなの?」
「そ、そりゃ男子高校生だったら誰でもそう思うだろ」
クラスメイトの女子の身体を間近で見て、至福を感じない男子がいないわけがない。
「そう。羨ましいな。私も人間の身体をそんなふうに見れたら……友達も、好きな人も、青春も、みんなと同じようにできるんだろうな」
目を伏せる月子に、治は首を傾げる。数秒の沈黙の末、少女は決意を固めて顔を上げた。
「重ね重ねで申し訳ないけど、もう一つお願いがあるんだ」
口止め料は、もう十分すぎるほど支払った。
だからその依頼は、治の事情を知ってなお彼女が口にした、切なる願いごとで。
かつて他人のために腕を振るって生きてきた男の心が、大きく揺さぶられることになる。
「私の子供を作ってよ、黒松くん」
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