第二章 君をあはれと思ひ出でける①

 むき出しになった今上月子は、白かった。

 窓際で夕陽を反射させる素肌は白磁のように輝いていて。

 その華奢な身体が描くなだらかな曲線に、美を感じない者などいないだろう――


「……えっと、ごめん、驚かせちゃったね」


 立ち尽くす治に、少女が口を開いた。瞬間、止まっていたときが流れ出す。


「あ……わ、悪い!!」


 独楽の如く身体を捻って教室を出、蹴り上げるようにして扉を閉めた。

 突如として呼吸が乱れる。心音が響き渡り、頬が燃えるように熱くなっていく。

 ……見て、しまった。男子が決して知り得ない月子の姿を、この目で見てしまった。

 ブラジャーに収まる膨らみは、高校二年生とは思えないほど薄く控えめで。

 ほっそりした腰回りを包み込んだパンツが、直接治の机に触れていた。


「……ッ……や、やば……!」


 なんの心構えもなく、不意打ちで与えられた光景は、思春期を生きる少年には目の毒すぎた。

 身体に異変を感じてしまった治は、必死で抗おうとその場にしゃがみ込む。

 だが、パテが硬化するより遥かに早く、それは完全硬化を終えてしまった。

 セクシー女優の写真集を見ても、美少女フィギュアのスカートの中を見ても、そんなふうにはならないのに。身近にいて身近でない高嶺の花の色香は、破壊力が違った。

 クラスメイトに劣情を抱いてしまい、罪悪感に苛まれる。一方で、別の思いも紛れてきて。

 月子の下着が簡素な白なのはイメージ通りだと。控えめな胸が、より彼女の魅力を際立たせていると。……そんな感想が浮かぶエロス大魔神の頭が、心底気持ち悪いと感じた。


「ごめんごめん、もう服着たから。入っても大丈夫だよ……あれ?」


 扉が開かれ、制服で身を覆った月子が顔を覗かせた。すぐさま足を組む。


「……多分、同じクラスの人だよね? どうしたの、座り込んで。気分でも悪い?」


 体調不良には違いないが、一部は最高のコンディションである。


「大丈夫かな。立ち上がれる?」


 オールレディースタンダップである。手を差し伸べてくる少女から壁沿いに距離を取った。


「お、俺に構うな」

「いや、構うよ。私にできることがあったら……」「いいからほっといてくれ! 頼む!」


 近寄るなと言わんばかりに手を振り、精一杯ごまかす。しかし、人体への理解に長ける医者の卵は、首を傾げながら、やがて一つの可能性に辿り着き、


「あー、もしかして……えっと……知られたくないヤツ、かな」


 把握されてしまった。治の頬が爆発し、羞恥で泣き出したいくらいだった。


「そう。それは確かに、私にはどうしようもないね」

「……だから、一人にしてくれないか」


 縋るような願いに、月子は「うん、じゃあ中で待ってるから」と教室に踵を返した。

 いっそ走り去ってしまいたかった。が、手元にある人形をロッカーに収めなければ下校はできない。治は先程の月子と同じ格好をした葛の姿を思い浮かべ、懸命に昂りを静めていった。

 ようやっと平時の自分を取り戻すと、絶望級の気まずさを抱きながら教室に足を踏み入れる。

 刹那、「もう大丈夫?」と問われ、無言の頷きを返した。


「……本当にすまなかった」


 人形を手近な机に置き、頭を地に付ける勢いで腰を曲げる。


「あなたに非は何もないと思うんだけど、一体何を謝ってるの?」

「院長の……身体を見た」

「どう考えてもこんなところで裸になってた私が悪いよね」

「それから……そういう反応をしてしまった」

「それはまあ、仕方ないんじゃない? 半不随意運動みたいなものなんだし」

「本音を隠さなくたっていい。気持ち悪いでも変態でもエロス大魔神でも、自由に罵ってくれて構わない。引っぱたかれようが蹴り飛ばされようが、どんな罰も受け入れる」


 最悪、同級生へのセクハラで停学まではあると思った。が、月子は小さく息を吐き、


「あのねぇ。私、これでも医者の娘なんだよ?」

「知ってるけど」

「他人の身体の状態のことで、医者が気持ち悪いとか思うわけないでしょ」


 それは、医療従事者が持つ当たり前の職業倫理なのかもしれない。けれど、一介の女子高生がさも当然と言わんばかりに断言したのを聞いて、治は思わず顔を上げてしまった。


「むしろそれは、あなたが男の子として健康だって証だから。私は嬉しいよ」

「……女の子がそんなことを嬉しいとか言ったらダメだ」

「まあ、私なんかに需要を感じてくれたのは、さすがに驚いたけど」


 得心がいかないといった様子で肩をすくめる月子。

この子は自分の価値に気付いていないのかと治は愕然とした。


「……院長に恥ずかしい思いをさせて、謝らないわけにはいかないだろ」

「気遣ってくれるんだ。ありがとう。でも、全然平気だから」


 平気なわけがない。男に下着姿を見られて恥ずかしくない女子などいるものか。

 全校生徒の憧れの的は、決して露出狂や痴女と呼ばれる人種ではないはずで。


「身体を見られて恥ずかしいって思う気持ちが、私にはわからないんだよね」

「……え?」

「だって、人間の身体なんてみんな、裏側は血と肉と骨と脂でできてるんだし。誰かに見られたり、逆に見たりしたところで……ねえ?」


 幸いにして月子は露出狂でも痴女でもなく。しかし医者の娘で、医者の卵だった。


「……冗談だよな?」

「本心だよ。実際に、この目で見てきたんだし。あなただって、一〇人も身体の裏側を覗いてみたら、私と同じことを思うようになるんじゃないかな」


 月子の言葉がうまく認識できず、治の耳を通り抜けていく。

 裏側とはきっと、人間の外見ではなく内面、心や人格のことを指しているのだろう。

 だって、彼女はまだ普通の少女であるはずだ。成績が抜群にいいだけで、医者の家に生まれただけで、治と同じ学校に通っている、ただの高校生であるはずなのだ。


「……あはは。ごめん、真に受けないでね。だからもう謝らないでってことだから」

「……は、はは、なんだ、やっぱり冗談かよ」


 月子が僅かに口元を緩めたことで、治もつられ笑いを返した。

 脳裏によぎった常識外れの想像を、どこかへと笑い飛ばすように。


「ところで――さっきから気になってたんだけど」


 月子が歩み寄る。その視線は、机に置かれたものへと向けられた。


「これ、昼休みに萩くんが黒松くんに直してほしいって言ってた人形だよね?」


 萩の懇願の声は大きく、同じ教室内にいた月子の耳にまで届いていたことに不思議はなかった。

 けれど、彼女が興味を惹かれるような話題だとは到底思えず、治は眉をひそめる。


「ということは、あなたは黒松くんか」

「か、って……昼に一瞬会話しただろうが」


 振り返った月子に、さらに渋い表情を返した。


「……ごめん、まだそんなに声を聴けてなくて」

「声?」

「ああ、えっと……なんでもないよ。とにかく黒松くんのことはしっかりと覚えたいって思ってるから」

「……いや、別に俺のことなんか覚えなくたっていいけどよ」


 身の程は弁えている。治如き下々の存在を、高嶺の花がわざわざ記憶する必要はないのだ。

 ……それでも、数時間で顔を忘れ去られていたのは、少しだけショックだった。


「それで、人形はもう直せたの?」


 なぜか依頼の進捗を問われ、「一応、部活中に終わらせた」と答える。


「へえー、凄いね! 黒松くん、そういうの得意なんだ!」


 途端、驚きと感心が混じった声音で月子が称賛を送ってくれた。

 学校一の美少女に上目遣い気味に褒められ、うっと身じろいでしまう。


「べ、別に、美術部だからできるだけだ」


 謙遜を返したが、月子から敬意の色が消えることはない。人形、それも美少女フィギュアがそんなに気になるのだろうか。ガリ勉少女からしたら縁遠い珍品かもしれないが……。

「それからさ」月子の視線が机へと戻る。「もう一体、同じようなポーズの人形があるけど、こっちも黒松くんが作ったの?」


「は? ちげーよ。それはセレーネが……美術部のヤツが勝手に作り出したんだよ」

「セレーネって、椎竹さん?」

「ああ。俺が作ったんなら、そんな埴輪みたいのよりはずっとマシな――!」


 そこまで言った瞬間、しまったと思った。そして、俺は馬鹿かと自身の口を呪った。

 愚かにも自ら人形作りの腕を暴露した阿呆の顔を、月子は再び振り返って見上げ、


「へええ! 一から作ったりもできちゃうんだ! 凄いよ、黒松くん!」


 夜空に浮かぶ満月のような輝く瞳で、ありったけの感情を込めて褒めちぎってくれた。

 下着姿を見られても変わらなかった少女の頬が、若干の紅潮を見せている。

 わからない。今上月子という女の子のことがわからない。

 だが、彼女への理解よりも、特技を自白してしまったこの状況にどう始末をつけるのかをまず考えなければならない。

 なぜか妙に感動を覚えている様子の月子が、治の技能を周囲に触れ回ってしまったら。

 きっと、少なくない生徒達が噂を聞きつけ、治の元へ依頼にやってくるだろう。

 そんな学校生活は、絶対に避けなければならない。――となれば、逃げ道は一つ。

 いつものように、他人から軽蔑されることだ。

 黒松治など意識するのも憚られるような存在でいればいい。すなわち、下品なことばかり考えている、エロス大魔神。トラブルの火種を消すためならば、治は評判など質に入れる。


「どこが壊れてたのか全然わからないくらい、見事な再接合術だね。黒松くんの凄さが伝わってくるよ。なんだか、憧れるな」

「そりゃどーも。ほら、そのキャラってエロいだろ? だから萩に見せられたときにムラっときて、治しながら色々と堪能させてもらおうと思ってさ」


 月子が上げた株を、全力で引き下げにかかった。


「しっかし、セレーネもわかってないなぁ。俺ならもっと胸とかバインバインにするのに」


 この言い回しであれば、依頼を受けた根底にあったものが邪な欲求だと思わせられる。

 そして月子は治に失望し、他人との会話に治を登場させることもなくなるはず。

 唯一にして最強の言い訳だった、のだが。


「黒松くんは、どこがエロいって思うの?」

「……は?」

「この人形――フィギュアっていうんだっけ? どの辺がエロくて、ムラっときたの?」


 質問が理解できなかった。あの今上月子が、一体何を訊いている?


「……俺が言ってることに引かないのか、院長」

「男の子がえっちなことに興味津々なのは当たり前のことだよ。テストステロンがそうさせてるんだから。あ、男性ホルモンの一種のことね」

「お、俺はエロス大魔神だぞ!?」

「テストステロンの分泌が正常なら、世の中の男性は皆同じですぜ?」


 最強の言い訳が、医学的知見から正論化されてしまった。


「えっちなのが悪いわけじゃなくて、性衝動を抑制できず他人に迷惑をかけるのが問題なんだよ。黒松くんは別に、女性に変なことをしたりはしてないでしょ? だから君は普通の男の子」


 その解説を、絶対にクラスの連中に聞かせたりしないでほしいと思った。

 除け者でいるために積み上げ続けてきた己の悪評が、無に帰すことになるから。


「あはは、黒松くん、ヒョウタンツギみたいになってる!」


 ニコニコと笑う月子。高嶺の花が楽しそうに口を緩めているその様は、初めて見るもので。

 笑った顔も当然のように抜群に可愛いものなのだと、治はわからされてしまった。


「で、どこがいいの? 詳しく教えてよ。参考資料にするから」

「なんだその世界一役に立たない資料は」

「そんなことないよ。私にはあると凄くありがたいな」

「男の性衝動についての医学論文でも書くつもりかよ」

「論文はまだ書かないけど、小説は書いてるから」

「……え?」


 さらりと放たれた言葉に、猛烈な違和感を覚えた。


「小、説?」

「うん、小説」

「英語で言えばノベル?」

「ドイツ語で言えばロマン」

「ギリシャ語で言えば?」

「それは椎竹さんに訊かないとわからないかな」

「書いてるって、誰が?」


 人差し指で自身の顔を示し、「私、私」と言う月子。


「……ああ、あれか。趣味で書いてネットとかで公開してるっていう」

「違うよ。一か月前、三月に本を出版させていただいたばかりの新人作家です。……ぜ!」


 にっ、と月子は白い歯を覗かせた。医学の道を歩むため、勉学に勤しむ姿を目にしてきたクラスメイトが密かに文学者であったと知り、治は驚きを禁じ得なかった。


「……マジかよ。院長、医者になるんじゃなかったのか」

「それとこれとは別かな。作家になりたいと思って書き始めたわけじゃないし」

「だったらなんで書き始めたんだよ」

「んん……強いて言うなら……」


 月子は軽く首を捻って言葉を探す。


「――青春を感じてみたかったから、かな」

「……青春」


 それは、治が人形作りと共に捨てた、身近にあって疎遠な概念だった。


「でね、書いてみたら、なんだかとっても楽しくなってきちゃって! 話を考えるのは大変だったけどわくわくしたし、キャラクターはみんな私の子供みたいに可愛く思えてさ!」


 語る口調は、普段の院長様からは想像できないほど饒舌で、軽やかで。


「この小説の中の物事は全部私が作ったんだって、神様になった気分になれたんだ!」


 神様。その単語は先刻セレーネからも聞いた。媒体は異なれど、月子も創作することに魅力を見出した一人なのだろう。治にも、かつてそんな思いを抱いたことがあるように。


「だから、男の子の心理を取材させてよ。この人形のどこに、どんなムラムラを抱いたの?」

「その言い方だと俺が美少女フィギュアに欲情したみたいじゃねーか」

「さっき自分でそう言ったじゃない」


 ……そうだった。失言をごまかすため、下品なヤツだと思わせようとしたのだった。

 だが、期待したような成果には及ばず。作戦は月子には通用しなかった。

 そもそも、彼女が小説を書いているとか実は作家だとか、いまはそんなのどうでもよくて。

 いかにして月子の口を封じ、己の秘密を守るか。それが最重要事項だった。


「……院長、すまない。俺は嘘をついた」

「嘘?」

「人形を治してやったのは、そのキャラに欲情したからってわけじゃない。萩の妹が、大事なものを壊して悲しんでるっていうから、それで……仕方なく」


 欲情ではなく同情。行動に至った動機を正直に告白していく。


「他人のために行動できるのって、立派なことだと思うよ」

「そんな大それたことじゃない。そもそも俺は断りたかったんだよ」

「どうして?」

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