第一章 医者はどこだ! ④
『別に、俺は医者じゃねーよ』
何人たりとも立ち入れない、自分だけの世界の中で、治は十五夜明離と会話を交わしていく。
『私、手も足も片方なくなって、頭まで取れちゃって、よくこれで生きてるなって……』
『ああ、人間だったら間違いなく死んでる。よかったな、人形に生まれて』
『人形……。そうですよね。この世界の私は、人形なのですよね』
開けた細穴に補強用の真鍮線を通していく。反対側はニッパーで適切な長さに切り落とした。
『こっちには、月の使徒も魔法少女が戦うべき相手もいないんでな。だからオタク達は刺激を求めて、画面越しにあんたが大変な目に遭う様子を楽しんでるんだよ』
『うう……皆さんドSです……』
頭部パーツの破断面にも対となる穴を開ける。深さを確かめながら、慎重に掘り進める。
『でも、あんたが困難に立ち向かう姿が少なくない人の心を掴んだのも事実なんだろうよ』
『それは、二次元世界に生まれた者としては、ありがたいことなのでしょうが……』
『そこから飛び出してきた存在なんだぜ。人形としてのあんたは』
一旦真鍮線を抜き、開けた穴に接着剤を塗り込んでから再び差し入れる。
真鍮線が突き出た胴体に、同じように接着剤を塗った頭部をはめ込み、ぐっと押し付ける。
『だから、きっちりと治ってもらうよ。あんたを本人と信じて疑わない女の子が、友達の帰りを待ってるんだから』
数秒待ってやれば、頭部は何事もなかったように胴体と接着した。
次は上腕部。同様に双方の破断面に穴を開け、真鍮線を入れていく。
今度はそこに、欠けた部分を付け足してやる工程が必要だ。
「セレーネ、防毒マスクを着けろ」
一般的な白マスクの上に、より保護能力が高い防毒マスクを重ねた。
セレーネも同じように顔を覆う。これで二人は有害性物質から守られることになる。
さらに治は、背後で課題に取り組んでいる部員達への配慮をみせた。
「ポリパテ使うから、下敷きで窓に向かって扇いでくれ」
「……なんだと? エゴーに肉体労働をさせる気か?」
治の隣に居座ったのが運の尽きだった。不満の声が返ってくる前に作業を再開させる。
欠けを埋める手段はいくつか考えられるが、今回はポリエステルパテを使うことにした。
机にテープを貼り、その上にチューブから主剤と硬化剤をひり出していく。すると、直接嗅げば気分を害するほどの悪臭が発生してしまう。防毒マスクを着けるのはこのためだ。
白い主剤と橙色の硬化剤を爪楊枝で混ぜ合わせると、黄色いペースト状のパテができる。
食い付きをよくするために破断面を傷付け、適量を盛り付けて胴体と腕を接着した。
『あなたは、神様なのですか? 人形である私と言葉を交わせるなんて』
パテが硬化していくのを待つ中、再び明離の声が聞こえてくる。
『あのなぁ。教えといてやるけど、あんたは、人形は喋ったりしないんだよ』
『ええ? では、このやりとりは一体?』
『俺が作業をしながら脳内で展開してる、気持ちの悪い妄想に決まってるだろ』
『なぜそんなことを?』
『……昔、少しでもいい出来のものを生み出してやろうと思って、手を動かす中でモチーフのキャラと対話するイメージをするようになった。そんな変人の思考回路だよ』
暫く経つと、ペースト状だったパテは掘削ができる程度まで硬くなる。
治はデザインナイフを握り、はみ出た余分なパテに刃を当てた。
『モノには魂が宿るなんて言うけど、俺はモノに魂を宿すつもりで粘土をこねてたんだ』
『素敵な考え方じゃないですか』
『やめろ。あんたが褒めたら、俺が自画自賛してるってことになるんだよ』
絶妙な力加減でナイフを操り、不要なパテを削り取っていく。
『そもそも俺はあんたを作ってるわけじゃない。治してるだけだ』
『そうですよね。ありがとうございます。……でも、こうして私との会話をイメージしてるってことは、修復作業であっても、創作だと認識しているってことじゃないのですか?』
その問いに、治が答えることはなかった。
概ね形を整えれば、あとはパテの硬化待ち。続いて脚部の治療へと移行する。
三度、真鍮線を打ち込むための穴を開けていく。……のだが。
『あっ……! や、やっぱり見てしまうのですね……』
一〇代の少女が、治の脳内で顔を真っ赤にした。
足にピンバイスを当てるために天地を返せば、必然、スカートの中の白が露わとなり。
意識するな、焦点を合わせるなと抗っても、その三角は人間の瞳を吸い寄せてしまう。
『う、ううぅ~……! 視聴者にも見せたことないのにぃ……!』
罪悪感が湧き上がる。せめて早々に終わらせようと、治は処置を急いでいく。
『……あなたは、その部分を作ることに、葛藤はありましたか?』
『……そりゃ、あったさ。ないわけがないだろ。俺は男だ。女の子のそこがどうなってるのかなんて知らない。だけど、頼まれたキャラがスカートをはいていたら、作り込まないわけにはいかない。はいてないほうが問題なんだから』
『スカートごと中を埋めてしまうとか、手はあったのでは?』
『依頼してきたヤツが密かに何を期待してるのかくらい、俺にもわかるんだよ。その期待を、無下にはできなかった。……最高に喜んでくれる顔が見たかったからな』
開けた穴に軸を打ち、破断面にパテを盛り、欠けを埋めて胴体と足を繋げた。
『何度脳内で、変態、セクハラ野郎とキャラクターに罵られたことか』
『……やっていることは確かに、そう言われても仕方ないでしょうが……』
『ま、それでも手を動かし続けたのは俺の意思だからな。結局、同じ穴の狢ってことだよ』
パテが固まりだしたら、ナイフを沿わせて余計なはみ出しを除去していく。離断していた手足は接着剤とパテによって再度一体化し、それだけで一見元通りのようになった。
「よし、あとは硬化待ち。もういいぞ、セレーネ」
扇ぐ手を止めたセレーネは、防毒マスクを外し、疲労困憊の様子で机に倒れ込んだ。
「お疲れさん。サーキュレーターでもあればよかったんだけどな」
「葛部長に頼んで速攻買ってもらう……」
腕や肩を撫でさするセレーネの様子に、ついつい労ってやりたくなる。
「マッサージでもいたしましょうか、クレオパトラ様」
「なに? ……き、気軽に女子の身体を揉もうとするな、このエロース大魔神!」
伸ばした手を払われ、そっぽを向かれてしまった。無遠慮が過ぎたな、と治は反省する。
もっと明離の動画が見たいというセレーネの要望を受け、再びスマホに映像を映した。
「やはり、明離はかわいい。気に入った」
「お前、モンスターだけじゃなくて人間キャラも好きになれたんだな」
「エゴーはかわいいものが好きなだけ。明離はかわいい、だから好き」
「セレーネが一番可愛いよ。……って言うところよ、黒松くん!」
「うわあ! 急に耳元で囁かないでください!」
背後から尾花の奇襲を受け、治は椅子から転げ落ちそうになった。
気を取り直してセレーネと一緒に画面を眺めながら、時折パテの様子に気を配り、硬さを確かめていく。数十分もすれば、次の工程に移れる程度にまで硬質化していた。
「こんなもんか。ヤスってくぞ。マスク着けろー」
再びマスクとゴム手袋を装着する。行うのはヤスリがけ。粉が飛び散る作業になる。
ビニール袋に人形を入れ、テープで封じる。さらに小さな穴を二つ開け、そこから左手と左足だけを露出させた。そして露出部位がズレないように穴をテープで固定する。
先程接着させた箇所から先の手足もテープで隙間なく覆い隠し、人形の保護も完了。
「ヤスリ、400」「はい」
執刀医が助手に向かって手を伸ばすと、その上にスポンジヤスリが乗せられた。
パテを盛った場所が自然なラインになるまで、ひたすらヤスリで磨いていく。
その過程で、パテに気泡の穴が見つかってしまうことがある。
「瞬着」「ほい」
そんなときは瞬間接着剤でしっかりと埋めてやる。固まったら、またヤスる。
「800」「どーぞ」
徐々に表面が整ってきたら、粒度が細かいヤスリに持ち替え、より滑らかに仕上げていく。
『凄い……私の身体、治ってきました! まるで治癒魔法です!』
『人形作りに魔法なんて便利なものはねーんだよ。ひたすら地味で苦痛な反復作業だ』
『あ、いま人形作りって言いましたね。人形治しじゃなくて』
指摘が入り、治は己の発言を削り取るように黙々とヤスリを当てていった。
発生する粉を払いながら、何度も表面を確認する。目視と手触りによる感覚の荒野を行き交った末、大方整えられたと判断したら、待っているのは最後の作業。
「サフ」「エンダクシ(εντάξει)」
スプレー缶タイプのサーフェイサーを吹き付ける。人形本来の肌の色とパテの黄色が等しく白に染まり、処理具合を目視しやすくなる。果たして地道なヤスリがけの成果は、
「んん……これでいいんじゃないか?」
「エゴーもいいと思う」
光にかざしてチェックし合った結果、パテは一切の違和感なく手足の一部となっていた。
「凄い。一発だ」
「捨てサフが少ないに越したことはないだろ。勿体ないし」
ゴム手袋を外し、椅子の上で脱力する。これで治が担当する作業は全て完了した。
「じゃ、あとの処置は頼むよ。どうする、エアブラシを使うのか?」
「ナメるなよ、弟者。これくらい、エゴーなら筆で塗れる」
セレーネは挑発するように十指をくねらせ、準備室へと向かった。
『ありがとうございます、神様! 私、元に戻ることができました!』
明離の弾けるような声に、『セレーネが塗り終わったらな』と返す。
『私は、一からあなたに生み出していただいたわけではありません。それでも、言わせてください。いま私の中には間違いなく、魂というものが宿っています』
『……やめてくれ。俺にはもう、人形に傾ける情熱なんてないんだ』
『そうでしょうか? 私を治しているとき、いえ、作り治しているときのあなたは、とても活き活きとしているように感じられましたよ』
『……人形に、感覚なんてものは備わっちゃいねーんだよ』
『わかりませんよ? 人形だって、見るかもしれない。喋ったり、考えたりするかもしれない。だって、魂が宿っていますから。神様に宿していただいたのですから』
『だとしたら、神様はあんたのほうだ。付喪神っていうんだろ、そういうの』
『ふふ、浪漫のある話ですね。この会話も、もしかしたら妄想なんかじゃなくて、本当に意思疎通を成しているのかもしれませんね』
浪漫を通り越して恐怖だろ、と治は突っ込みを入れた。人形に――いや、自分自身に?
「……セレーネは、人形と会話したことはあるか?」
塗料を抱えて戻ってきたセレーネに、ふとファンタジーな問いを投げかけた。
「当然だ。女子とは皆、人形やぬいぐるみと喋れる生き物である」
なら、男にだって同様のことができるのかもしれない。
人形を引き渡しながら、治は『――お大事に』と患者を労る挨拶を送った。
塗装を託されたセレーネは、シアン、マゼンタ、イエローの色の三原色と、適度に薄め液も加えながら、人形本来の肌の色を再現していく。
塗料皿に色白なスキンカラーが出来上がってくると、
「……ん、エヴリカ」
人類がまだ知り得ぬ原理を発見した学者の如く、探していた色を見つけたようだ。
筆先を患部に向け、サーフェイサー色で染まった肌をゆっくり丁寧に塗り直していく。
塗料の乾燥を待ち、スプレー缶タイプのトップコートを吹きかける。
これで塗装工程も完了。テープで保護していた部分の肌の色と比べてみると、
「……完璧だよ、セレーネ」
治は思わずマスクを外し、吸い寄せられるように十五夜明離の偶像へと顔を寄せた。
見事に治癒した手足は自然で美しく、一度破断したものとはまず気付けない。
「肌の色の再現もばっちりだし、筆でここまでムラなく塗れるとは……俺には無理だ」
「エゴーは色神であるゆえ」
ぶいっとダブルピースサインを見せる少女に、感服と感謝の拍手を送る。
「手伝ってくれてありがとな。そしたら俺、依頼主がまだ帰ってないか探してくるから……」
「――待て、弟者」席を立とうとした寸前、セレーネにエプロンを掴まれて制止された。
「この明離、全部塗り直したい」
言われたことを理解するのに数秒を要した末、「……はあ!?」と大きな声が出た。
「最初から塗りが微妙だと思っていた。エゴーなら、もっと明離をかわいくできる」
「い、いやいやいや! ダメだってそれは!」
セレーネの手によって人形の塗り直しが施されたなら、美少女フィギュアとしての質は間違いなく向上するはず。しかし、今回求められているのはそれではない。
壊れてしまった人形を、元通りに治す。期待されているのはその一点だけだ。
依頼主が唖然とするような整形手術まで行う必要はない。この人形はもう、完治したのだ。
「いやだ、塗りたい。明離をエゴー色に染め上げる」
「ゲーミング明離になんてしやがったらぶっころがすぞ!」
人形を奪い取ろうと手を伸ばしたが、セレーネは身を盾にして離さない。
「なあ、頼むよ。元通りになった明離の帰りを待ってる人がいるんだ」
「エゴーに明離の動画を見せて、着色欲求を煽ったのは弟者だ」
埒が明かない。八方塞がりの治はがりがりと頭を掻いた。
「弟者は、馬鹿なのか?」
「ああ? 馬鹿なことを言ってんのはお前だろ」
「否定はしない。でも、弟者は自分に腕が付いていることを忘れている」
何を言っているんだこいつは、と思いながらも、治は己の両手を見下ろす。
そこにあるのは、一六歳の男子高校生の、何の変哲もない二本の腕。
「もう一体、弟者が明離を作ればいい」
「……なんだって?」
けれど、その腕には、常人には備わっていない力がある。
「エゴーのために、明離のフィギュアを作ってほしい」
真っすぐな緑の瞳で治の顔を見つめながら、セレーネは希望を口にした。
「ふ、ふざけんな。なんで俺がそんなことしなくちゃいけねーんだ」
「エゴーが頼めば、弟者はモンスターのフィギュアを作ってくれた。弟者はエゴーに甘い。バクラヴァス(μπακλαβάς)より糖分過多。だから今回も、思いっきりエゴーは甘える。あま、あま」
人形を胸元で守りながら、セレーネはもたれかかるようにして背中を治の上半身へと預けてくる。その姿は姉どころか、丸っきり妹のようで。
「……いままではモンスターだから作ってやったんだ。人形なら、お断りだ」
「弟者は、人の形をしたものは頑なに作ろうとしないな」
「人形なんて女々しいもの、興味ないからな」
「ならどうして明離を治してやろうと思った?」
振り向き、流し目で問うてくるセレーネ。
依頼を受けるつもりなどなかった。美少女フィギュアになど、もう関わりたくなかった。
それでも、「治せばいいんだろ」と言ってしまった理由は。治療を施してやった動機は。
「……塗りたいなら、同じものを手に入れて、好き勝手すればいいだろ」
「……弟者は、ほんとに馬鹿だな」
溜息をついたセレーネは、がっちりとガードしていた人形を唐突に机の上に置いた。
急な反応に、治は目を瞬かせる。
「他人のものを勝手に塗ったりなんてエゴーでもしない。エゴーが塗りたいのは、弟者が作った人形。弟者がエゴーのために作ってくれた、世界で一体だけの明離だ」
「……お前」
「久々に来て、やっと何かを作る気になったのかと思ったら、人形の修復とはどういうつもりだ。エゴーの期待を返してほしい」
クレオパトラの如く端麗な横顔が、不満で膨らみを帯びていた。
「……悪かったよ。モンスターだったら、いまから作ってやるから」
「あ、か、り、を、ぬ、り、た、い」
「…………正直に言う。俺は、人形――特に美少女フィギュアは作りたくないんだよ」
断るために。逃げ出すために。治はついに偽りのない感情を打ち明けた。
「中学時代、それでトラブったことがあって」
無意識に視線が下がっていく。黒歴史、否、己が犯した罪の重みが、ずっと心を苛んでいて。
その後悔と罪悪感と嫌悪感が、治を人形作りから遠ざけている。
「弟者」
「……なんだよ」
「エゴーは、弟者が作ったものが好き」
腰を前方へと滑らせ、座高を低くしたセレーネは、反り返るようにして治を見上げた。
「だから、エゴーは褒めてやるぞ。弟者はそのとき、たまたま認められなかっただけだ」
重力で前髪が逆さに流れ、稀有な緑眼が普段よりずっと大きく感じられる。
「悩める神様よ。エゴーと一緒に、生みの苦しみ乗り越えよう」
見つめる二つの宝石の輝きは、美しい以外の言葉ではとても形容できそうになくて。
分不相応にも彼女に一目置かれている自分は、間違いなく贅沢なのだと思った。
……だけど、それでも。校内で唯一心を許せる女友達に諭されたいまでも。
「…………ごめん、セレーネ。俺は……人形は、作れない」
治は、粘土を人の形に形成することを拒み続ける。
ふぅー、と長息を吐いたセレーネが身を起こし、隣の席に戻った。
「仕方ない。さすれば、この明離のフィギュア、暫くエゴーに貸せ」
「……は? まさかそれを塗る気か?」
「違う。いまからエゴーが自分で明離を作るから、その資料にさせてもらう」
予想だにしない宣言に、治は驚きで目を見張った。
「エゴーが自由に作って、自由に塗るのだ。何か問題あるか?」
「べ、別にそれなら、俺がどうこう言うことじゃないけど……お前、造形できんのか?」
「粘土遊びくらい誰でもしたことがあるだろう」
技術の程度が透けて見える返答だった。もちろん創作とは自由なものだが、セレーネが「かわいい」と評した明離を、自身が納得できる出来で生み出せるとは到底思えない。
「では、エポパテとスパチュラセットを取ってくるとするか」
「……初心者は樹脂粘土にしとけ。……アルミ線も忘れるなよ」
準備室に向かうセレーネの背中に、つい伝える必要のないことを言ってしまった。
フィギュア作りの最初のステップは、出来上がりの大まかなイメージを紙に描き起こすこと。
だが、今回は目の前にある萩の人形をそのまま複製するつもりで作っていくようだ。
戻ってきたセレーネはアルミ線を捻り、頭や胴体、手足の骨組みを制作する。
棒人間のような骨子に、ひたすら粘土を盛っては削り、盛っては削り。
地道な反復作業の末に、人の形は出来上がっていく。
樹脂粘土の袋が開かれると、特有の酸っぱい匂いが鼻腔を刺激した。
「……なあ、本当に作るのか?」
「エゴーは色神であるが、実はピュグマリオーンでもあるかもしれない」
「誰だよそれ」
「エラダの民が幾千年語り継いできたフィギュアマニアだが」
「知らねーよ。とりあえず、いつまでかかるのかだけ教えろ」
時刻は一六時半を過ぎ、部活動終了時刻まで一時間を切っている。
「さあ? 今日かもしれないし、明日かもしれない。一週間後かもしれない」
「そんなに待ってられるか。さっさと依頼者に引き渡したいんだよ」
今日中に治療を終わらせると言ったわけではないが、萩は明離の退院をいまかいまかと待っているはずだ。長々とセレーネのお遊びに付き合わせるわけにはいかない。
「最終的に納品すれば問題ない話だろう」
「この国で何よりも大事なのは期限と納期と締め切りと五分前行動なんだよ」
「日本人は焦りすぎ。エラダの民はいつものんびり。財政破綻してものんびり」
普段握っている筆やエアブラシをスパチュラに持ち替えて、セレーネは人形作りに没頭していく。そんな彼女の姿を、治は言葉を発することもなく、ただ瞳に映した。
初心者然とした拙い技術に、むずむずと手本を示したくなるような思いを静めながら。
粘土が人の形に近づいていくにつれ、拍動のリズムが時折にわかに跳ねるのを感じながら。
部活動終了時刻のチャイムが鳴るまで、治はセレーネの隣に座り続けていた。
一七時半を過ぎ、葛の挨拶をもって本日の活動は終了となった。
部員達は各々片付けを済ませ、談笑しながら美術室を去っていく。
「ん……これはいい。弥生時代の魔法少女という気がしないか」
「暗黒時代の間違いだろ」
一時間の成果を掲げてみせる少女に、治は冷静な評を返した。
お世辞にも美少女フィギュアからは程遠い人形。しかしセレーネは嬉しそうに己の作品を眺めている。誰だって、自分の手で作り上げたものは愛おしいものだ。
「とはいえ、さすがのエゴーでもこの明離を塗ってかわいくするのは難題だな。もっともっと原型の完成度を高める必要がある。なあ、弟者?」
「……まだ造形を続けたいから、明日も資料用に明離の人形を貸せってか」
「エゴーがピュグマリオーンになるには、いま暫くときがかかる」
治は溜息をつく。既に治療は済ませたというのに、萩に渡せない状況になってしまった。
セレーネは丸板に串を立てて自身の作品を保持し、ビニール袋を被せて埃と乾燥から守る。
「では、これは弟者が保管しておいてほしい」
「は? なんで俺が? 自分の教室のロッカーに入れとけよ」
「女子のロッカーに、粘土を置けというのか?」
真顔で問われ、一瞬の逡巡のあと、治は渋々差し出されたものを受け取った。
セレーネとはいえ、女子高生のロッカーを粘土臭くするわけにはいかない。
「明日弟者がそれを持ってきたら、エゴーは続きを作るとしよう」
「……いつも通り、俺がサボったらどうするんだ」
「別の課題をやる。そして明後日来るのを待つ。明後日来なくても、エゴーはずっと待ってる」
途方もないことを口にしながら、セレーネはねだるように首を傾げていく。
「エゴー、今年は弟者と違うクラスになった。だからその分、たくさん部活に来てほしい」
「……そんな期待、持つだけ無駄だ」
もう二度と、人形作りの虫となっていた日々は訪れない。たとえ、旧友の人形を治してやったとしても。学校で唯一の女友達が造形に挑戦する様に指が疼いたとしても。
「エゴーが一番期待しているのは、弟者がこっそり添削してくれることだ」
「……するわけ、ねーだろ」
この青春に、色が戻ることはないのだ。
治はスクールバッグを首から掛け、右手に萩の、左手にセレーネの人形を持って立ち上がる。
「お互い、悩み多き年頃だな、弟者よ」
「お前に悩みなんかあるようには見えないけどな」
「色神だって悩むことはある。求める色が見つからないときもある。だが、焦ってもいいことはないからな。シガ、シガ。ゆっくり、のんびり、一番いい色を探していくのだ」
幾百幾千の色を見分ける二つの翠玉が、語りかけるように治を見つめる。
「だから弟者も、ゆっくりいこう。しが、しが」
「……生憎、俺は塗装には自信ねーんだよ」
「案ずるな、エゴーが一緒だ。エゴーは色神であるゆえ」
ドヤ顔でダブルピースを掲げる少女が眩しくて、治は顔を逸らして美術室を後にした。
セレーネに塗ってもらうものは、粘土の塊だけでいい。色がないこの高校生活まで、彩り鮮やかに染め上げてもらう必要はない。自分にそんな価値などないのだから。
……けれど、もし。治の青春に色が差すのなら。それは一体、何色なのだろうか。
いつの日か、色付く自分を求めるようになるときが来るのだろうか。
「……桜の花みたいに、ピンクを演じるつもりはねーよ」
独り言ちながら、夕陽が差し込む廊下を歩いていく。完全下校時刻まであと二〇分。部活時間を過ぎた校舎に残る生徒の姿はもうない。三階に辿り着き、二年一組の教室が見えてくる。
両手が塞がっているため、生徒用ロッカーに近い後方扉を足で開けた。
「――――え?」
その瞬間、目に入ってきた光景に絶句した。
誰もいないと思っていた教室の中に、一人の女子の姿があって。
学校一の優等生、今上月子が、治の机の上に座っていた。
制服を全て脱ぎ捨てた、白の下着姿で。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます