第一章 医者はどこだ! ③
「おお、黒松くんじゃないか!」
二年生になってから初めて美術室の扉を開けると、久々に見る二人の先輩の顔があった。
眼鏡の男子は美術部部長の葛。隣の細い目の女子は副部長の尾花だ。
「久し振りね。バレンタイン以来かしら」
バレンタインチョコを恵んでもらえないかと、二月一四日に訪ねてみたのは覚えている。
だが、そこから先は記憶がなかった。春休みも当然全休。不真面目の鑑である。
「二年生になって心機一転、部活を真剣にやる気になったか!」
「残念ながら違いますよ、クズ部長」
「いまちゃんと漢字で言ったよな? カタカナじゃないよな?」
「漢字に決まってるじゃないですか、俺達のクズ新部長」
「新って、部長になって半年経つんだが……」
光陰矢の如し。ときの流れは早いものだ。幽霊部員だけに余計にそう感じる。
「もう仮入部の一年だって来てるんだ。先輩として、少しは真面目なところを見せてくれよ」
「なら丁度いいや。今日来たのは、知り合いから人形の修復を頼まれたからなんですけど、ここでやっても構いませんよね? 活動として」
スクールバッグから患者が入院している袋を取り出す。
「おいおい、美少女フィギュアってヤツじゃないか。神聖な美術室にそんなものを……」
「あら可愛い子じゃない。全然問題ないわよ」
咎めようとした葛を遮り、尾花があっさりと認可を下した。
「お、尾花くん、甘やかしては困るよ」
「ウチも半分オタクの集まりみたいな部だし。漫画ばっかり描いてる子もいるしね」
部長副部長とは名ばかりで、二人のパワーバランスは相変わらずのようだった。
「ぐぅ……ぼ、僕は認めないぞ。そんな大衆娯楽のサブカル文化」
「じゃあ極力視界に入らないように隅っこで作業しますね、クズ部長」
「アクセントォ! いま絶対カタカナで言っただろ!」
(ま、俺のほうがよっぽどクズだよな)
葛は画家志望で美大進学を目指している男だ。先刻の月子の言葉を借りれば、青春を美術の虫となって生きている。
そんな先輩からしたら、半端者の自分は心底不愉快に映っていることだろう。
とはいえ今日は曲がりなりにも活動に取り組む一部員だ。治は美術準備室に入って、作業に必要な道具を探し始めた。浦島太郎状態で棚をあちこち引っ掻き回していると、
「――弟者」
その独特な二人称に、手が止まる。じんわりと、胸の奥が温かくなった気がした。
首を向けると、棚の陰からひょっこりと顔を覗かせている一人の女子。
セレーネ・ヒポクラテス・椎竹。
ギリシャ人の父と日本人の母を持つ、美術部所属の二年生だ。ミドルネームに相当する箇所は彼女の父親の名前があてがわれているため、セレーネ椎竹というのが本人の名前になる。
「……久しぶり、セレーネ」
挨拶を返すと、口元を綻ばせたセレーネがぱたぱたとこちらへ歩み寄ってきて、
「どーん」「いってえ!」
無防備な治の脇腹に指先を突き立ててきた。地味な痛みが治を苛む。
「何すんだよ!」
「スィモース(θυμός)」
「一体何に怒った!?」
「全然部活に来なかった。それと、今年エゴーと違うクラスになった。弟者の不始末を戒めるのは姉者たるエゴーの務め」
「クラスは学校が決めたことだろうが! お前と家族になった覚えもねぇ!」
「そうよね、家族になるなら姉じゃなくて嫁よね、セレーネちゃん」
「横から会話に押し入って話を混沌に導くのやめてください、尾花先輩」
「エゴー、カオス好き。エロース大魔神たる弟者は、カオスの子供」
「俺の親は人間だよ……」
女子二人の絡みに頭が痛くなってきた治。
その隣で、セレーネは自分の頭に手を乗せ、治の頂上と比べていく。
「やはり、エゴーのほうが高い。大きくなれよ、竹のようにニョキニョキと」
「始業式のあとの健診で測ったら、167になってたけど?」
「……測り間違えじゃないのか? どう見てもエゴーのほうが上。今年もお前は弟者」
セレーネの身長が不自然に伸びた気がしたが、別に張り合う気もないのでどうでもよかった。
ギリシャ人女性の平均身長は、出典にもよるが、概ね165~6センチ。半分ではあるがギリシャの血を受け継ぐ彼女の風貌は、日本人のみの遺伝子にはないものを持っていて。
欧州風の彫りの深い顔立ちの中に、丸みを帯びた大和撫子さが混在している。
セミロングの髪はあまり整えられてはいないが、瞳はエメラルドのように輝く緑色。
絶世の美女と謳われたクレオパトラは、実はエジプト人ではなくギリシャ人だという。
和洋折衷の美少女を、男子達は密かに中秋高校の《クレオパトラ》と囁いていた。
だがそれは、セレーネの外見のみによって築かれたイメージにすぎない。実際は、いまこうして唸りながら身長マウントをとってくるような残念系少女なのだと、治は知っている。
そもそも一年前、二人が交流を持った切っ掛けからして異常だった。
己の性質を誘導させるため、クラス中がドン引きする下品な自己紹介をかましたのちに、
『……Dカップは巨乳に入りますか?』
想定外にも、治の求めに応じて仲良くしようとする女子生徒が出現してしまったのだ。
色白の頬をうっすらと赤らめ、もじもじと両手を擦り合わせながら友好を乞う隣の席のハーフ女子。口にしてしまった以上、贖罪のつもりで治はセレーネの手を握ることにした。
帰宅部を決め込むつもりだった放課後を、美術部を志望した彼女と共にする選択をしたのだ。
だから、脇腹を攻められたくらいで、クラスが分かれてしまったくらいで、彼女との縁を切ったりはしない。もしも今年も昼食の誘いに来たときは、応じるつもりだ。
「セレーネ、ポリパテどこにあるか知らないか?」
「あっちの引き出し」
「ん。……お、あった。サンキュー。ついでにピンバイスは?」
求める道具を、セレーネの案内に従って回収していく。
結局幽霊部員と化してしまった治とは違い、セレーネは真摯に部活に取り組んでいる。
彼女もまた美術の虫として青春を過ごす高校生なのだ。弟になるつもりはないが、その姿勢が姉御然としたものであることについては異論はないと、治は僅かに微笑んだ。
「二人ともそんなに接近して、マジでキスする五秒前? てかもうしちゃった?」
この部にはもう一人、残念な女子がいる。激しい落胆を禁じ得なかった。
美術室に戻ると、他の部員達も顔を揃えていたが、特に挨拶などを交わすこともない。
治は机を窓際の壁にくっつけて作業場所を確保し、持ち出した道具を並べる。
すると、「弟者、弟者」とセレーネにエプロンの裾を引っ張られた。
彼女は左手に板を持ち、その上には不自然に膨らんだ布が被せられている。
「この前弟者が作ったヤツ、エゴーが塗った」
(俺、なんか作ったっけ……?)
朧げな二月一四日の記憶を遡ると、確かにその日はチョコをもらって即帰宅というわけではなかった。尾花に、チョコが欲しかったら何か課題を出せと言われたのだ。もちろん人形を作る気になどならなかったが、机に向かって何かを生み出した覚えがある。確か――
「ああ、パルテノン神殿を作ったんだっけ」
作り上げた作品は、誰もが知るであろうギリシャの世界遺産。
なんとなくセレーネが喜んでくれるかなと思い、それなりに気合を入れて粘土をこねた。
「もっと早く見せたかった」
「……悪かったな、サボり魔で」
「では――どぅるどぅるどぅるどぅる、だぁん」
布が取り払われた瞬間、治の口があんぐりと開いた。四六本の柱が並び立った白の神殿、その一本一本が、あろうことか虹の如く多彩な色に染め上げられていた。
「ゲーミングパルテノン神殿」
「歴史ある大国ギリシャに謝れ!」
世界遺産を台無しにしたような暴挙を見せつけられ、即座に突っ込みを入れる。
「パパス(μπαμπάς)は笑って喜んでくれたぞ」
「無駄にいい出来に仕上がってるのが逆に腹立つんだが……」
「出来がいいのは、弟者の腕。エゴーはただ塗っただけ」
そう言うセレーネだったが、治が作った原型だけではここまでの完成度には到達しない。
柱の凸凹を強調する陰影や、自然風化した汚れを表現するウェザリングの表現。
セレーネの塗装技術が加わってこそ、現実にはあり得ないゲーミングパルテノン神殿が、まるで実際に販売されているミニチュアであるかのように存在感を放っていた。
「弟者は、神様だな」
「あ? そこまで褒められるほど凄い出来じゃねーよ」
「出来は関係ない。何かを生み出すことができる人間は、みんな神様だ」
セレーネは美術室に飾られている生徒達の作品の数々を見比べていく。
「葛部長も神様。尾花先輩も神様。エゴーも神様。神様は凄い。だから、偉い」
一つ一つに熱心な視線を送る翠玉の目は、無垢な子供のように煌めいていて。
セレーネとは創作というものを心から愛する少女なのだと、ありありと知らしめてくれた。
そんな彼女に褒め称えてもらえたなんて分不相応で、猛烈に居心地が悪くなる。
なんの虫にもなることなく青春を浪費している男が、神様などであろうはずもないのに。
「……ま、エロス大魔神だからな」
治は下品な返しをして、現状の立ち振る舞いを正当化させた。
「神が作りて、神が塗りしパルテノン神殿。これはもはや、パルテノン神神神殿」
「お前とは絶対に入れ替わりたくないな」
「黒松くん、知ってる? パルテノンって、未婚の女性って意味らしいの。ところで、セレーネちゃんのパートナーになるのはどんな人だと思う? いっそ立候補しちゃう?」
「クズ部長助けてェ! 学校に親戚のおばさんがいるよぉ!」
尾花からの救済を求めて葛の姿を探したのだが、
「おいいいいい誰だよラボルトくんをレインボーに染めやがったのはあああああ!?」
血相を変えて準備室から飛び出してきた男は、震える手でカラフルな石膏像を掲げている。
「ラボルトはエゴーが虹の神イーリスへと昇華させたり」
「これじゃゲーミング石膏像だよ椎竹くんんんん!!」
このカオス極まりない美術部に入部届を出す一年生は、果たしているのだろうか。
そんな憂慮を抱えつつ、治は机に向かい、人形の破損状態を詳しく調べていく。
(頭のほうはぴったり合うな)
頭部パーツは破断面がすんなりと噛み合った。これは不幸中の幸い。
治すのに瞬間接着剤しか思い付かないとかぐやが言っていたが、実際修復に使用するのはそれだ。ただし、それだけでは済まない場合も当然あって。
(……腕と足は欠けちまってるのか)
続いて合わせてみた手足は破断面が綺麗にくっつかない。
こうなると、欠けが生じた箇所を肉付けして埋めてやらなければ、元には戻らない。
穴埋め自体は治にとって難しい作業ではないが、厄介なのはそのあと。
付け足した部分を、違和感なく周囲と一致する色に塗ってやらなければならない。
これがなかなか大変で。造形はともかく、着色にはそこまでの自信はない。
それでも、萩と彼の妹のために、できる限りの治療を施してあげたかった。
「セレーネ、ちょっと手伝ってくれないか?」とイーゼルを用意していた少女を手招く。
「なんだそのフィギュアは」
塗装の腕ならばセレーネは治の遥か上を行く。助力を願おうと、事情を説明した。
「――だから、手足を繋げたあと、この肌の部分の色を作って塗ってもらいたいんだ」
四六時中何かを染めている彼女のことだ。二つ返事で承諾してもらえると思った、のだが。
「お断る。不良部員に貸す手などない」
ぷいっと顔を背けられてしまった。
「それは事実だけど、今回は人助けなんだし、頼むよ」
「それに弟者、エゴーの施しを食い逃げした」
「食い逃げって、バレンタインチョコはあげるものだろ……」
「良識ある男子は、しかるべきときに代金を支払うものだ」
治は察した。施しとはいえ、もらった以上は男として三月一四日に用意すべきものがあった。
「わ、悪かった。購買で何かお菓子を買ってやるから」
「そうだな。素人の手作りなど、購買のお菓子でお釣りがくるな」
「よし、欲しいものを言ってみろセレーネ!」
三倍返しの範疇を越えているだろうが、遅くなってしまった分の利息も含めて身銭を切る覚悟を決めた。セレーネは頬に指を当てながら考え込み、三〇秒後、
「火鼠の皮衣」
「俺は阿倍御主人か」
「もとい、ドラチュウの着ぐるみパジャマがほしい」
大人気ゲームのキャラクターグッズをリクエストされ、治は合点がいった。鼠のような見た目からドラゴンの如く火を噴くそのモンスターは、世界中のファンから愛されていた。
入部後、治が課題として提出した立体作品を見てその能力を知るや否や、セレーネは幾度となくゲームのキャラの造形をねだってきたものだ。
そのリクエストに応えるつもりは当初はなかったのだが、期待に満ち溢れた緑の眼で何度も何度もねだられ、挙句教室でも頼まれそうになったので、ついに治は願いを聞き入れた。
セレーネが頼んでくるのは殆ど可愛い系のモンスターであり、人間のキャラではない。
だから――人形作りをするわけではないのだ。
そう己の心と手に言い聞かせ、治は都度都度彼女の期待に応えてやった。
作り上げたものは、その後依頼者の手によって余すところなく塗装されていった。
「わかった。プレゼントするよ。じゃあ、手伝ってくれるな?」
「それはホワイトデーの分だろう。作業を手伝えと言うのなら、別途報酬をもらう」
さらにグッズを要求されるのかと溜息をついた治に、セレーネは望みを伝える。
「問、ソコラータ(σοκολάτα)の感想を述べよ」
「はあ? そんなモンスターいたか?」
「……エゴーのチョコはどうだったのかと訊いている」
味を尋ねているのだと理解し、治は舌の記憶を辿る。
「ああ、普通にうまかったよ。甘すぎず苦すぎずの丁度いいバランスに仕上がってたし、見た目も華やかで綺麗だった。遅くなったけど、ありがとな」
セレーネから渡されたチョコは食用色素を用いてカラフルに彩られていて、彼女らしいなと思いながらありがたく完食したのだった。
「そうか。……よかった」
「セレーネは料理とか得意なのか?」
「できない。だから、尾花先輩に教えてもらいながら、頑張った」
「へえ、気合入ってたんだな。そしたら、一番渡したいと思った人には渡せたのか?」
「…………ん」俯くように、セレーネは頷いた。
もじもじと両手を擦り合わせる仕草から照れている様子が伝わってくる。普段のやり取りからつい忘れそうになるが、彼女も高校生の青春を生きる女の子なのだと、治は再認識した。
その相手が誰なのかは、わからないが。
「……さすれば、手を貸してやろう」
「え? 追加報酬はいいのか?」
「もうもらった」と一言返されたが、治には意味がよくわからず、首を捻るだけだった。
セレーネはイーゼルを片付けると、机を持ち上げて治の右隣に並べる。
「別に、俺がくっつけ終わるまでは自分の課題をやってていいんだぞ」
「弟者の作業、近くで見たい」
「や、何も面白いことなんてないし。それに……めちゃくちゃ匂うぞ」
「それがエゴー達の青春の香りだ」
「……俺はシンナー臭がする青春なんてごめんだよ」
セレーネには届かない程度の声量でぼやいた。決して彼女の青春は否定しないように。
治はワイヤレスイヤホンを耳に着け、スマホで動画サイトを開き、【十五夜明離】と検索する。
フィギュアとは、モチーフとなったキャラクターの外見に留まらず、性格や考え方、境遇や決意などを色濃く反映させた芸術品だ。
たとえ見てくれが一見美しくとも、顎の引き具合や腕の角度、足の開き方など、ポーズの一つ一つがそのキャラの人物像と乖離していれば、なんかコレジャナイ出来になってしまう。
修復を担う以上、治には十五夜明離への理解をおざなりにはできなかった。
横から「エゴーにも見せろ」とせがまれたので、イヤホンの片方をセレーネに渡した。
隣人がスマホに首を伸ばすと、ふわりとココアのような香りが漂ってくる。
この優しい匂いを、有機溶剤臭で上書きしてしまうのが申し訳なくなった。
一五分ほどのシーンまとめ動画を再生する。
時間効率を考えて二倍速にしようとしたが、それはセレーネに止められた。
『こ、こんにちは。十五夜明離です』と、声優によって命を吹き込まれた少女の声が流れる。
声のトーンだけで、十五夜明離という少女が内向的な性格をしているのがわかった。
大した取り柄のない女子高生が、ひょんなことから月の使徒と出会い、月のパワーを源にして魔法少女として変身。平和のために戦っていくという物語だった。
何事からも逃げていた引っ込み思案の女の子が、徐々に守りたいもののために立ち上がっていく姿は、声優の演技力もあって治にも少々響いてくるものがあった。
「明離、かわいい。これは弟者が惚れ込むのもわかる」
動画を見終えてスマホをしまうと、セレーネが感想を呟いた。
「別に惚れ込んじゃいねーよ。最低限のキャラ知識を得たかっただけだ」
「創作のための下準備ということだろう」
「……作るんじゃない。治すだけだ」
「弟者は、人形は作らないのか?」
その問いに、治は回答を拒否するかのように口にマスクを着けた。
(そんな創作、いくらお前でも、気持ち悪いって思うだろ)
両手にはゴム手袋をはめていく。パチンと裾を弾く音を合図に、術式を開始する。
まずは頭部の処置。ピンバイスを使ってミリ単位の穴を開け、胴体の首部分を掘削していく。
接着剤だけでもくっつきはするだろうが、接着面に補強となる軸を打ってあげるのだ。
『あ、あのう……お医者様。私、治るのでしょうか……?』
そのとき、頭の中に女の子の声が響いてくる。
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