第一章 医者はどこだ! ②

 反射的に顔を向けると、教室の後方出入り口から一人の女子生徒がこちらに駆けてきていた。


「え、やば! なんでこんなところに明離ちゃんフィギュアが!?」

「せ、拙者が持って参ったのでござる」

「おー、萩っちのだったか! 相変わらずのオタっぷりだな、この~!」


 肘の先で萩の腕をぐりぐり突きながら、少女は好奇心に満ちた瞳で壊れた人形を眺める。


「明離ちゃん、いいよね。可愛さと微エロさがマッチした神デザだよね」

「さすが古和殿、お目が高い……!」

「でも、壊れちゃってるから……治に治してもらいに来たってところ?」


 少女の視線が治へと移った。付けまつ毛で強調された両目は一段と大きく見えて。

古和かぐや。その瞳を向けられた治は、どきりとして背筋が伸びた。


「ちょっと、いきなり走り出さないでよ、かぐや」「誰だし、明離って」


 遅れて入室してきたクラスメイトの女子達がかぐやの側に集まっていく。


「そういや《姫》を忘れてたな」「姫なら軽そうだし、俺らでもワンチャンあるかも……」


 またしても治の頭上から男共のひそひそ声が聞こえてくる。矛先が月子や他の女子に向けられていたときとは比べ物にならないほど、治は彼らに強い不快感を抱いた。

 月子が高嶺の花であるならば、かぐやは誰もがその姿を楽しめる花園の大輪だ。

秋の名月のような輝く金色に染められた巻き髪は、竹製の髪飾りと共に、見る者を惹きつけてやまない。整った顔立ちはばっちりと決めたメイクによって一層引き立てられている。

 陽気なテンションで男女問わず打ち解けることができ、既に新クラスの中心人物。

 早速女子のグループを形成し、食堂でランチタイムを共にしてきたのだろう。

 そんな彼女を、一部の男子はこっそり姫と呼ぶ。由来はもちろん、かぐや姫。


「おおー、フリルの造形細かーい。ポーズも決まってる。あ、顔の表情もいい、かわいー」


かぐやはネイルが煌めく手で人形を持ち上げ、じっくり観察していく。


「……かぐやって、そういうものが好きなの? その、オタク的な……」

「だってあたし、オタクだし。オタクに優しいギャルじゃなくて、オタクなギャルだし」

「……噂、ほんとだったんだ」

「なにー、引いた? せっかく仲良くなったけど、エンガチョする?」


 少女達は慌てて首を横に振るが、かぐやを見つめる目は気まずそうなままだ。


「うーん、総じて良き出来かな。――じゃあ最後に、肝心なところを……」


 破損したパーツまで味わい尽くしたかぐやは、人形をぐるりと天地逆転させた。


「ちょっ、かぐや!?」


 人の形を象ったものを逆さにすれば、当然上に来るのは脚部であり。

 その角度から覗き込めば、見えてしまうのだ。服の裏側、スカートの中の構造が。


「なーる、明離ちゃんの変身体はこうなってたのか。これはいい資料だなー」

「や、やめなって、はしたないよ!」「そんなとこまで見たら、人形だって可哀想じゃん!」


 咎める友人の声に、かぐやはふるふると首を振り返し、


「ノンノン。そんなところまで見てこそ、この子の魅力を完璧に理解できるのだ」


 人形の秘めたる場所をガン見していく。


「ふもふも、ごっつぁんでごんす」

「や、やっぱりそういうところまで作ってあるんだ?」

「当たり前じゃん。何もはいてないほうがおかしいし、問題でしょ。むしろここを見たいがために買うまである。立体物だからこその場所だし」


 女子達は吃驚と羞恥を隠せない様子だったが、治は知っている。かぐやだろうと誰だろうと、美少女フィギュアを手にした人間は、例外なくその場所を目視することを。

 衝動のままに速攻でひっくり返す者もいれば、懸命に己を律する者もいるかもしれない。

 だが、そんな聖人気取りであっても、いずれ必ず、ひっくり返すときがくる。

 なぜなら、美少女フィギュアとは、そういうものだから。

 その前提があるからこそ、見えない部分まで作り込んであるのだから。

 全人類をエロス大魔神と化させる、悪魔のような偶像なのだから。


「パンツ見られるより、手足や頭が取れちゃってるほうがよっぽど可哀想じゃん」


 ようやくスカートの中から視線を外したかぐやは、破損パーツを拾い、くっつけと念じるように胴体に押し付ける。ポリ塩化ビニルの塊は、粘土のようにはくっつかない。


「ダメだー、素人には瞬間接着剤しか思いつかん。治、これどうやって治すの?」

「……別に俺だって玄人じゃねぇ」と、治はそっぽを向いてぶっきらぼうに答えた。

「治が治してあげるんでしょ?」

「新しいのを買えって、さっき萩にアドバイスしたところだ」

「……フィギュアが安くないの、知ってるくせに。萩っち、これいくらした?」

「それはプライズ品でござる」

「えっ、ゲーセンで獲ったん!? わー、最近のプライズも侮れんわ」


 感心した様子で、かぐやは再度人形を見やった。


「それなら尚更この明離ちゃんに思い入れがあるよね。萩っちが自力で獲ったんだし」

「無論、その気持ちも少なからずあるのでござるが……」


 萩は俯き加減に、壊れた人形にこだわる理由を語っていく。


「明離たんを壊してしまったのは、拙者の妹なのでござる。一人で人形遊びをしていた妹が、突然わんわん泣き出して、『お兄ちゃんごめんなさい』と何度も謝ってきて……」


 治には、彼の話に耳を傾ける必要はなかった。


「気にするなと言ってもずっと謝り続けてくるのでござる。きっと、罪悪感でいっぱいなのでござる。拙者と、それ以上に明離たんに対して」


 けれど、間近で話をされれば、嫌でも聞こえてきてしまう。


「去年マジカルムーンを一緒に見て以来、妹は明離たんのことが大好きなのでござる。明離たんは二次元世界の住人でござるが、やっと小学一年生になったばかりの妹にとっては、このフィギュアは三次元世界にやってきてくれた、明離たん本人そのものなのでござる」


 治の脳裏に、会ったこともない萩の妹の姿と、自身の幼少の頃の記憶がちらついてきて。


「だから、このフィギュアでないとダメなのでござる。完全に元に戻らなくとも、傷痕が残ろうとも、妹にとって明離たんは世界でこの一体――いや、一人だけなのでござる。入院して、怪我を治して、元気になって戻ってきたよと、拙者は妹にそう言ってあげたいのでござる」

「な、泣かせる話じゃねーか、萩っちぃ……」


 目頭を押さえたかぐやが、身体を震わせていた。

 女子生徒達の瞳も若干潤みを増し、治の頭上からは男子連中が鼻をすする音。


「ですから治殿! この明離たんを、どうか治してくだされ! 後生でござる!」


 同情は、した。けれど、旧友が深く頭を下げる様を見ても、まだ治の心は拒んでいて。


「……そんなの、俺じゃなくたって……」

「あんたしかいないんだよ、治!」


 目を背けて逃げ出そうとする少年の首根っこを、かぐやの鋭い声が鷲掴みにした。


「治が、このフィギュアのお医者さんになるの! わかった!?」

「そうだぞ黒松! いまの話聞いてやらなかったら、男じゃねーぞ!」

「普段下品なことばっかり考えてんだから、たまには人の役にたちなさいよ、エロ松!」


 ついにはクラスメイトの男女達からも次々とけしかけられていき。

 窓際最後列の席で取り囲まれた治に、逃げる場所はもうなくなっていた。


「このまま治らなかったら、萩っちの妹ちゃん、悲しむだろうなー」

「…………わかったよ。直せば……治せば、いいんだろ」


 肺の空気を全て吐き出し、治は観念する。人形の修復依頼が、受諾された瞬間だった。


「か、かたじけのうござる治殿!」

「ただし、治療費は一千万円だ。びた一文まけないからな」

「へあっ!? いっせんまんえん!?」

「……あ、悪い、言い間違った。千円な、千円」


 日常生活で通常使用する桁数を思い出し、すぐに訂正する。


「あっはっはー、闇医者気取りかよ」


 ケラケラと笑う少女におちょくられ、誰のせいだよ、と心の中で強く抗議した。


「つか、金取るん? そういうの、タダでやってあげれば格好つくのになー」「所詮はエロ松かぁ」


 無責任に治を持ち上げた女子達は、身勝手にも治に失望していく。不条理なその反応のほうが治にはありがたかった。が、今度はかぐやがフォローの言葉を発してしまう。


「治すのだって材料費がかかるんだから、お金取るのは当然っしょ。あの明離ちゃん、新品で買ったら二千ま……二千円以上はかかるよ。ね、治?」


 美談に仕立て上げようとする声に、返す言葉は何もなかった。

 萩は人形を袋に回収し、「治殿、よろしくお頼み申し候!」と頭を垂れながら差し出す。

(……ただ、修復するだけだ。俺が一から作るわけじゃない)

 決して昔に戻るわけではないのだと己に言い聞かせ、治は袋を受け取った。

用件を果たした萩は自分の教室に帰ろうとする。と、その背中をかぐやが引き留め、


「萩っち、この前の新人賞、結果どうだったん?」

「うぐっ! ……無念なことに、今回も落選だったでござる」

「そっかー。じゃあ、またあたしが残念賞でヒロインのイラスト描いてあげっから」


 その申し出に、萩は「真でござるか!?」 と顔を輝かせる。


「萩っちなら絶対大人気ラノベ作家になれるよ! 次こそ受かる! 頑張ってこー!」


 声援を受け、決意を新たにした作家志望者は、床を踏み鳴らしながら去っていった。


「かぐや、絵とか描けるん?」


「プロのイラストレーター志望ですけど、何か?」と横ピースを決めながら宣するか

ぐや。


「えっ、すごーい! オリンピックのロゴとかデザインしちゃうヤツでしょ?」

「……や、違う。ゲームのイラストとか、ラノベの挿絵とか描くヤツです」


 一般人のイラストレーターに対する認識に、オタク少女はショックを受けたように弱々しく首を振った。

 肩を落としながら、とぼとぼと自分の席へと歩いていく。

彼女の定位置は治の真横。椅子を引き、腰を下ろそうと座面を見下ろした、その瞬間。


「ん……? ――きゃああああああぁぁぁぁああぁああああぁぁぁ!!」


 絹を裂くような悲鳴が上がった。何事かと顔を向けた治だが、

「ちょ――!?」突如、上半身に衝撃を感じた。

 飛びのくように自席を離れたかぐやが、そのまま治の胸に全身を預けてきた。


「お、おい! かぐやお前、離れろって!」

「いやあ! 虫! 蜘蛛がいる!」


 かぐやは少しでも虫から離れようと身体を押し付けてくる。引きはがそうとしてもびくともせず、逆に治が抱き締めているかのような体勢になってしまう。

 密着すればするほど、弾力性のある何かを胸で感じてしまい。

 震える金色の髪から香る柑橘系の香りが、嗅覚を支配していく。


「治、なんとかして! 早く仕留めて!」

「お前がそこにいたら無理だろうが!」

「いーやー! 早くなんとかしてよー!」


 助けを求めて周囲を見回す。が、その先に救いの手はなかった。女子達は当然のこと、男子連中までもがかぐやの机から距離を置き、椅子を這い回る一センチ超の恐怖から逃れていた。

(……これも、俺がやるしかないのか)

 覚悟を決め、身体を捻ってかぐやと場所を入れ替えようと、彼女の細腰に手を伸ばした。


「――随分と物騒な言い方だね」


 そのとき聞こえてきた声は、静やかなれど、明瞭と耳の奥まで届く不思議なものだった。

 教室のざわめきがぴたりと止む。その中を、一人の少女がゆっくりと歩み寄ってきて。

 彼女が通過した道には、朧ろな月光が残されていく。そんな幻想すら抱かせた。


「古和さん、だよね。仕留めてって、この蜘蛛が古和さんに何かしたの?」


 かぐやの机に近づいた月子が、椅子の上の闖入者を確認しながら問う。


「よく言うでしょ。ミミズだってオケラだって、生きているんだって」

「無理無理無理! あたしほんとに虫とかダメなの!」

「……そう。苦手なものを受け入れるのは、難しいだろうけどね」


 月子は一つ小さな息を漏らしたあと、人差し指を蜘蛛に向けて差し出していく。

 ひっ、とクラス中の女子が寒気立つのも厭わず、指の腹に迎え入れた。

 そのまま指を見つめる。少しだけ口元を綻ばせ、窓に向かって歩き出した。


「でも、覚えていてほしいな。古和さんに宿る命も、この蜘蛛に宿る命も、等しく世界に一つしかない大切なものなんだって」


 治の机のすぐ後ろに立ち、左手で窓を開く。


「虫ってね、いまを必死になって生きている生き物の代表なの。何かに熱中することを、なんとかの虫って言うでしょ」


 外に出した指に吐息を吹きかけた。風圧に流され、蜘蛛の姿は一瞬で見えなくなる。


「あの桜だって、生きてるんだ。いずれ花散るそのときまで、全力で咲き誇っているんだよ。だから、あんなにも色鮮やかで……綺麗なんだよ」


 遠くを見据える月子の横顔を、治は至近距離から見上げることになり。


「いつか終わりがくる人生を私達も過ごしてる。趣味でもスポーツでも恋愛でも、いまこのときの青春を何かの虫になっている人間は、きっと何よりも美しい虫――そう思いますぜ?」


 春風になびく彼女の美しい黒髪が、懸命に何かを伝えようとしているように思えた。


「じゃ、じゃあ、院長はGとかも退治しないの?」

「んん、そう言い返されると困っちゃうね。害虫ってのは確かにいるし、私だって魚やお肉を食べて命を繋いでいるわけだしね。……でも、無駄な殺生をしないに越したことはないでしょ」


 月子はかぐやの机に戻ると、スティックタイプの手指消毒液を取り出し、ティッシュに含ませて丹念に椅子を拭いていった。


「これで気持ち的にも大丈夫かな、古和さん」

「う、うん、ありがとう。院長も、エンガチョする?」

「しないよ。蜘蛛は益虫だから」


 平然としている同い年の女子を、やはりかぐやは理解できない様子だった。


「それにしても……黒松くん、だよね?」


 唐突に呼びかけられ、治は「ん?」と月子を見やる。


「青春だね」


 ただ一言。初めて交わす院長様との会話で、そんな言葉をかけられた。どういう意味だと訊き返そうとした瞬間。吸い込んだ息に含まれた芳しき香りで、その意図を察した。


「お、おい! いつまでくっついてんだよ! もう離れろ!」

「あー、やっぱりあの椅子、まだちょっと気持ち悪いかも。このまま授業受けよっかな」

「ふざけんな! とっとと月へ帰れ!」


 抗議の声を意に介さず、かぐやは治の足を椅子にし続ける。


「……なあ、早くどいてくれよ」

「怖くて腰が抜けちゃった。治、立たせてくれない?」


 茶化すように手を上下させる少女から目を逸らし、「……どいてくれ、頼むから」と願った。

 脳内を無にして、かぐやが自ら腰を上げるまでじっと耐え続ける。


「うわぁ、エロ松、かぐやにセクハラし放題だよ」「結局巨乳じゃなくても見境なしじゃん」

「殺す。黒松絶対殺す」「俺らもエロス大魔神になったほうがいいのか……?」


 人気者の女子と密着し続けるエロス大魔神には、ひそひそとヘイトが向けられていく。


「……さて! おふざけはこれくらいにして、午後の授業も頑張っていこー!」


 いまはとて 天の羽衣 着る折ぞ。

 教室中に宣言するように声をあげたお姫様は、ようやくいるべき月の都へと戻っていった。

 席を立っていた生徒達もつられて着席していき、騒がしかった昼休みが終わりを迎える。


「――随分な言われようだね」


 黒板へ向き直った治の隣から、かぐやの囁く声がする。


「悪く言われるようなことをしてるんだから、当然の評価だろ」

「なら、褒められるようなことをして取り返せばいいじゃん」


 そのロジックは単純明快で、誰にも否定されるものでもない。治当人を除いては。


「治、明離ちゃんを、ちゃんと治してあげるんだよ?」


 念を押すように。有無を言わせぬように。首を傾ける隣人に返すのは、溜息一つ。

 煩わしさの象徴たるその反応も、旧知の仲である少女には違う意味に捉えられてしまい。

 口角を上げたかぐやが、「頑張れ」とエールを送った。

 治はもう一度心に刻み込む。

 ――これは、ただの修復作業にすぎない。


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