第一章 医者はどこだ! ①

 ブレザーのポケットからスマホを取り出すと、桜の花びらが一枚画面に張り付いていた。

 歩きスマホをしながら登校した記憶はない。であれば、風に煽られて東京の空を舞った春の風物詩が、最後の輝きを見せつけたあと、治の制服へと迷い込んだのだろうか。

 摘まみ上げ、しげしげと眺めてみれば、それはハートマークにも似た形を成していた。

 色は当然、桜色。しかし、桜色とは随分曖昧な彩色だと治は思った。

 たとえば、小学生のときの図工の時間。桜の絵を描きましょうという課題に、子供達は皆画用紙をピンクで塗りたくった。治もまた然り。それが殆どの人間のイメージだった。

 だが、こうして花片を観察してみると、その色は白に近い。

 ならば、あの課題は白く塗るのが正しかったのか。……それも、正解ではない気がして。

 視線を窓の外へと向け、三階の教室から正門付近に並び立つ桜の木々を見下ろす。

 咲き誇る桜花は、白い花びらの集合体であるはずなのに。不思議なことに、その色合いはやはり、イメージ通りのピンク色に染まっているように見えた。

(お前、本当は白いのに、ピンクを演じてたのか? 人間達の期待に応えようとして、さ)

 治は椅子を引いて立ち上がり、近くにある窓を開ける。仲間の元へ帰してやろうと、指に乗せたはぐれ桜を差し出せば、柔らかな春風に掬われたハートマークは再び空を舞っていき、


「久方の 光のどけき 春の日に 静心なく 花の散るらむ……か」


 ついに見失った少年が、ぼそりと三十一文字を呟いた。直後、ふと我に返る。


「……俺は、ピンクより白のほうが好きだよ。だって、ピンクは淫乱って言うじゃん」


 らしくない言動を恥じた治は、自嘲するように普段通りの下品なことを口にした。

 窓を閉めて席へと戻り、登校前にコンビニで買ったパンを取り出す。スマホをいじりながら、一人で昼食を食む。それが、この一年間ほぼ変わらない治の昼休みのルーティーン。

 気まぐれに食堂に誘ってくる知り合いがいないこともないのだが、今日その姿はない。

 窓際の最後列。背景と同化するには絶好の定位置で、いつも通り腹を満たしていく――


「治殿おおおおぉぉぉ! お助けくだされえええぇぇ!」


 そんな日常は、突如聞こえてきた悲痛な叫び声によって崩されることとなった。

 中秋高校二年一組の教室に、恰幅の良い男子が駆け込んできた。彼はこのクラスの生徒ではない。土下座をするかのように頭を下げる男、萩の姿に、治は呆気にとられた。


「せ、拙者の明離たんを……昨日、妹が……!」


 言葉を詰まらせ、涙を滲ませながら、萩は懐からエアークッション袋を取り出す。

袋の中から治の机に置かれていくものを見て、思わず眉をひそめた。

 萩の様子に興味を惹かれたのか、「なーに騒いでんだお前ら」と数人の男子が近づいてくる。


「……なんだこれ? 壊れた人形か?」


 置かれた物体は、一〇代の少女を象ったポリ塩化ビニルの塊。俗にいう、美少女フィギュア。

 だが、目の前のそれは無残なことに、左腕と左脚、頭部が欠損してしまっている。

 失われた腕と脚、可愛らしい笑みを浮かべている少女の生首が、胴体の隣に並べられた。

 もしも本物の人体であったのなら、このような惨状を目にして平静を保っていられる者はまずいないだろう。しかし、それは人の形を精巧に模した作り物にすぎず。

 結果、萩の哀傷など理解できない連中の冷めた視線が注がれていった。


「月光戦士マジカルムーンの主人公、十五夜明離たんのプライズフィギュアでござる。つまり、非売品で……」「あーはいはい。大事な彼女が壊れちまって残念だったな」


 萩の解説は軽くあしらわれる。その手の人種とわかり合うつもりはないのだろう。


「その壊れたお人形さんを、なんで黒松に見せてんだよ」

「無論、治殿に治していただきたくお願い申し上げ奉り候!」

「え? 黒松、これ直せんのか?」

「治せるも何も、治殿はフィギュア作りの達人でござるよ!」


 誇るように胸を張る萩に、驚きの表情を浮かべる男子達。


「中学時代は、拙者のようなオタク達の願いを見事叶えてくれたのでござる」

「同中なのか、お前ら」


 ぺらぺらと人の過去を明かすなよ、と治は心の中で舌打ちした。治はもう新しい自分を生きている。己の技能が周囲に知られた結果、また誰かに頼られるような事態は避けたかった。

 だから当然、いまの自分と結び付ける逃げ道は用意してある。


「達人なんてほどじゃねーよ。美術部だったから、課題代わりに粘土こねてやっただけだ」


 まず、謙遜する。立体物など普通の人間は作らない。美術部だからできただけ、と。


「へえ、美術部。いまは?」

「一応、高校でも所属してるよ」と正直に答える。もはや幽霊部員と表現して差し支えない立場だが、高校生の黒松治しか知らない人間を納得させられる、最強の言い訳が使える。

「高校の美術部ともなれば、ヌードデッサンくらいやるのかと思ったんだけどな」


 初めて会話した新しいクラスメイトが「……はあ?」と首を傾げた。


「男子部員のために女子部員が脱ぐとか、顧問の美人教師が身体を張ってくれるとか、そんな毎日を期待してたのに、ウチの顧問ジジイだったしさぁ」

「はは、そんなんあるわけねーだろ」

「……え、黒松ってそういうキャラなん?」

「そうだぞ。一見真面目くんっぽく見えて、こいつは《エロス大魔神》だぜ」


 二年連続で同組となった男子が治の頭を小突いた。


「入学初日の自己紹介とか、ヤバかったぜ。『好きなものは歴史と巨乳です。胸が大きい女子はぜひ俺と仲良くしてください』とか言って、教室を凍り付かせたからな」


 その過去なら明かされても問題ない。補足するように、治は己の性質を喧伝する。


「俺は正直になっているだけだ。男子高校生として、当然の欲求にな」


 これで今年も、黒松治のキャラは確立されただろう。

 それでいい。下品なことばかり考えている、エロス大魔神。そう思ってもらえれば。


「中学までの治殿は、そんな人間ではなかったのでござるが……」


 またも萩が余計なことを言った。いらぬフォローをすぐさま否定する。


「擬態してただけで、俺はずっとそういう人間だよ。リクエストに応えていた理由もいたってシンプルだ。美少女フィギュアがどんなものか、見りゃわかるだろ?」


 十五夜明離の人形を持ち上げ、掲げた。


「エロいよなぁ。太ももとかマジで柔らかそうじゃん。この衣装もちょっと動いたらズレておっぱい丸見えになりそう。いやぁ、これ作ったヤツは相当の変態だよな」


 ありのままの事実を、極力下品に聞こえるように述べていく。


「だから俺も、リビドーをぶつけるように粘土をこねて女体を作った。それだけだよ」


 エロス大魔神の自供に、クラスメイト達は呆れ半分、憐み半分の表情になった。


「……女子からの、動物フィギュアの依頼なども受けていたではござらんか」

「それは……好感度を上げてモテたかったからに決まってんだろ」


 手にしたものを机に戻し、治は会話をまとめるように両手をパンと打ち鳴らす。


「そういうわけだから、俺と猥談をしたいヤツがいたら、いつでも声をかけてくれ」

「や、お前と関わってたら、女子達に俺らも同類なのかと思われちまうだろうが」


 こちらから友好を求めてみれば、後ろに下がって距離を置かれる。狙い通りに。

 治から目を逸らせた一人の男子が、そのままくるりと教室を一望し、小声で呟いた。


「まあでも……たとえ話だけど、このクラスだったらお前ら、誰派よ?」


 ピクリと男達の肩が跳ねる。「黒松じゃねーけどさ」と言い訳するように付け加えられた。


「佐藤は外せないよな、あの胸だぜ」「吉田の尻もなかなかだろ」「高山の笑顔には誰も勝てん」


 焚きつけてしまったのは、おそらく治なのだろう。彼らは普段ひた隠しにしている欲望をひそひそと打ち明け、男の勝手な視点で身近な少女達を好き放題評価し合っていく。

 頭上から次々と降り注いでくる下卑た会話に、治は目を閉じて細い息を吐いた。

(エロス大魔神とは、果たして俺だけなのかね)


「――《院長》は、どうだ?」


 品評の矛先がとある女子に向けられた、その瞬間。お構いなしに動き続けていた男達の舌端がぴたりと止まった。つられて治の瞼が開き、視線が最前列中央の席へと吸い寄せられていく。

 院長――今上月子は、今日もそこで分厚い本を読んでいた。

 彼女に関しては今更品評など必要ないだろう。今年初めて同じ組になった治でさえも、それを理解していた。あの高嶺の花は、いくら褒め称えても褒め足りないのだから。

 まず、容姿。美を司る女神の恩寵を全て賜ったかのような相貌。

 綺麗な二重の目から伸びるまつ毛は長く、歪みのない鼻口が絶妙なバランスで整っている。

 小顔に流れるセミショートは深黒に艶めき、対照的に肌は真っ白い輝きを放つ。

 やや高めの身長と、華奢で細い手足。どこを取っても女子としての魅力が詰まっている。

 抜きん出ているのは見てくれだけではない。その頭脳もまた常人離れしており。

 昨年度の定期試験はぶっちぎりで学年一位。主要五教科に関しては全て満点という。

 才色兼備。今上月子という美少女を形容するのに、これ以上相応しい言葉はない。


「今日も勉強してるぜ。やっぱり医学部に行って医者になるんだろうな」

「俺ら下々の者じゃ見向きもされねーよ。ああ、将来院長の御眼鏡に適う男が羨ましい……」


 勝手に諦め、勝手に羨む男達。なんでいまフリー前提なんだ、と治は内心突っ込んだ。

 とはいえ、あのガリ勉少女が色恋に現を抜かしている光景など全く想像できない。

 いま月子が熟読している本。それは教科書や参考書ではない。漫画や小説、女性誌といった娯楽の類でもない。一般的な高校生が読むには全く分不相応なもの――医学書だ。

 月子の名字、『今上』という文字列から、多くの人が真っ先に連想するものがある。

 今上総合病院。誰もが知る日本一の大病院である。

 年々健康志向が高まる中、テレビや雑誌に健康アドバイザーとして医師が露出することも多くなった。結果、今上病院の名も、その院長の名も、もはや世間が周知するところとなり。

 だから、生徒達も皆知っているのだ。今上月子が、今上病院現院長の娘であることを。

 そして遠い未来の先に、彼女がその座に就くのであろうことを。

 もちろん月子はまだ院長でも医者でもない。抜群の成績でクラス委員長を務める、一介の女子高生に過ぎない。けれど、同級生達は尊敬と称賛の念を込めて、彼女のことを院長と呼ぶ。

 委員長を、たった一文字だけ略して。


「――あの、院長。いまちょっといい?」


 そのとき、一人の女子が月子の机に近づき、声をかけた。

 月子は医学書から顔を上げ、じっと少女を見つめる。五秒ほど経過してから口を開いた。


「……どうしたの? 若田さん?」

「え? あ、その……私、野口だよ」


 名前を間違えられ、野口は苦笑いを浮かべながら訂正した。月子の目が大きく開く。


「……ごめん、若田さんの声に似てたから」

「声……そ、そうだよね。院長が私の顔なんて、覚えてないよね」


 自分が月子の眼中にない存在であることを突きつけられ、野口の表情に影が差した。


「ああ、ええと……なるべく早く覚えるよ。一年間よろしくお願いします」


 高嶺の花が下々の者と会話をする機会は珍しく、教室中の視線が集まっていく。


「院長、私バスケ部なんだけど、春休みの試合で相手と接触しちゃって……」

「怪我をしたのなら、私じゃなくてお医者さんのところに行きなさい」


 間髪を入れず、月子はぴしゃりと言い放った。


「も、もちろんもう行ったよ。処置もしてもらったし。すねの打撲だって」

「そう。軽くてよかったね。暫く安静にしていれば、すぐにプレーに復帰できるよ」

「ていうか、もう復帰してる。それとは別の問題が起きちゃって……院長に何かアドバイスもらえないかなぁって」

「別の問題って?」


 問われた野口は両手の人差し指を合わせ、頬を赤らめていく。


「だ、男バスの毛利くんにね、週末遊びに行かないかって誘われたの」

「おおー、青春だ。でも、それには私はなんの助言もできないよ」

「できるよ! だからその……痣を早く治す方法があったら、教えてほしいの」


 野口の願いに、月子は合点がいったような表情を浮かべた。


「できればスカートをはいて、女の子っぽいところを見せてやりたいのよ」

「それは悩ましいね。……とりあえず、ちょっと見せてみて」


 軽く頷いた月子が隣の席を指差す。野口は腰を下ろし、おずおずと右足を伸ばし

た。

 長めの靴下を脱いで露わになったのは、皮膚の下で血管が損傷し、内出血を起こしたことによる打撲創。女子高生の身体にはあってほしくない紫斑が、痛々しく存在していた。


「ご、ごめん、グロいよね」


 頭を下げた野口だが、月子は「ううん、まったく」と首を振り、受傷箇所を視診していく。


「PRICEはちゃんとしたの?」

「ぷらいす?」


「Protection(保護)、Rest(安静)、Ice(冷却)、Compression(圧迫)、Elevation(挙上)」


「あ、うん。コーチがしてくれた」

「痛みはまだある?」


 本物のスポーツドクターがするかのような問診に、野口は答えていく。


「もうないよ。でも一応、家ではなるべく冷やすようにしてる」

「……それ、もうやめたほうがいいね。むしろ温めたほうがいい」

「え?」


 一日でも早く痣を消そうとケアを続けていた野口は、真逆のことを言われて唖然とした。


「この痣、うっすらと黄色が混じってきてるでしょ。これはもう治りかけの段階なの。こうなったら患部を温めて血行をよくして、内出血が身体に吸収されるのを促してあげて」

「そ、そうなの? 私てっきり、冷やしたほうがいいのかと……」

「最初のうちはね。……これくらい、スポーツのコーチならみんな勉強してることなんだから、ちゃんと教えてあげてほしいよね。特に女の子相手には」


 淡々と、医者の卵は続ける。


「お風呂に入って、シャワーを優しくマッサージするように当てたり、タオルを巻いた使い捨てカイロで温めてあげたり、あとはヘパリン類似物質含有クリームを塗ってあげるとか」


 野口は慌ててスマホを取り出し、アドバイスをメモしていった。


「ありがとう院長! 私、頑張って治すから!」

「お大事に。……でも、もし週末までに治らなかったとしても、隠す必要はないと思うよ?」


 月子の主張に、痣を気にする少女は目をぱちくりと瞬かせる。


「それは野口さんが青春をバスケットボールに打ち込んでいる証だもの。相手も同じ競技に熱を上げているのなら、そういうの、ちゃんと伝わるんじゃない?」

「そ、そういうものかな?」

「じゃあ、痣のせいで今回大変な思いをしたから、もうスポーツはやらないって思った?」

「……ううん、私、バスケ大好きだから。何回怪我しても、やめたりしない」

「その気持ちを伝えてあげるほうが、痣を治すよりよっぽど魅力的に映りますぜ?」


 少なくとも私には、と締めくくり、月子は野口の診察を終えた。


「……すげぇな。心理カウンセラーとかにもなれるんじゃねーか?」


 治の近くで一部始終を見守っていた男子が感服の声をあげる。


「絆創膏貼られてー」「俺は薬飲ませてほしい」「将来は絶対白衣が似合うスーパードクターになるよな」


 雨あられの如く降り注ぐ称賛の声に、治も内心で同調せざるを得なかった。

 彼女は決して医療行為をしたわけではないだろう。医師免許を持たない者にそれが許されないことは、治でも知っている常識だ。

 法には触れない、家庭の医学の範疇で、彼女は一人の人間を健康に導く助言をしたのだ。

 痣程度、放っておいても治るものだが、それでも悩める少女を月子は前向きにさせていた。


「……あのう、治殿。院長殿が妙々たる女子であることは拙者にもわかったので……

治殿も、明離たんのこと、治していただけませぬか?」


 呼びかける萩の声が聞こえ、治は彼がなぜこの場にいるのかを思い出した。……けれど。


「……治すって、俺は医者じゃねーよ」


 そもそも人形は生き物ではない。漢字を当てるなら、〝直す〟が正しい。

 治はひらひらやる気なく手を振り、「悪いけど、パス」と旧友からの依頼を拒絶した。


「そ、そんなぁ! そこをなんとか、お願いするでござるよ!」


 何度頼まれようと、関わるつもりはない。


「治療にかかる費用は当然お支払いいたしますから! 謝礼もするでござる!」

「もっと有効な金の使い方があるだろ。プライズってことは、これゲーセンで獲ったんだろ? なら、同じものをオークションで探してみろ。新品未開封がゴロゴロ出品されてるよ」

「それではダメなのでござるよ! 拙者はこの明離たんを治していただきたいのでござる!」


 新品を拒む萩。壊れたものにこだわる彼の思考回路が、治には理解できなかった。


「とにかく、これは持ち帰ってくれ。昼飯の邪魔だ。スマホでセクシー女優の写真集をおかずにしながら焼きうどんパンを食うのが俺のライフワークなんだよ」

「それ、おかずの意味間違ってねーか黒松」

「治殿のライフワークは、そんなことでは絶対にござらん!」


 萩は真剣な眼差しで治を凝視する。


「思い出すのでござる治殿! 中学の美術の時間、みんながお喋りをしながら適当に課題をこなす中、治殿は一人あんなにも熱心に粘土と向き合っていたではござらんか!!」


(……ああ、もう、やめてくれよ)

 大声を出すなと思った。同級生達に、過去の熱情を知られてしまうのが怖かった。

近距離で叫ばれ、耳がキーンとする。痛い。耳が痛い。両手で塞いで、遮音しなければ。


「……いいから、早く片付けてくれよ。フィギュアなんて、もう俺に持ってくるな」


 耳だけでなく、心にも蓋をする。いまの自分はただのエロス大魔神。利他的な行動などするわけがない。萩がどかさないのであれば、いっそ払い除けてしまおうか。

 そう思って、腕を机の上に乗せた、そのとき。


「――あれぇ? 十五夜明離じゃん!」


 街でばったり知り合いと出会ったような驚き声が聞こえた。

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