05

 吹き飛ばされ、墜落する。

 尻尾による一撃でネイトの体は軽々と飛び、二階廊下の手すりを粉砕してもその勢いは止まらず、そのまま吹き抜けを通って一階の床に叩きつけられた。


 どうにか着地にこそ成功したものの、尻尾の直撃を受けた左腕は骨まで痺れている。真っ先に思ったのは、迷宮に行くための装備をしていてよかったということである。防具を着けていなければ、左腕の骨は無事ではなかっただろう。


 突如として響き渡った騒音に、店主がすっとんきょうな声を上げた。


「な、なんだぁ……!?」


「ごほっ……危ねぇから下がってろ!」


 落下によって砕け散ったテーブルを蹴り、舞い上がった粉塵をかき分ける。剣を引き抜いたネイトが二階を見上げるのと、二階の部屋からそれが見下ろしてくるのは同時だった。


 やはり見間違いではなく、そこにはドラゴンがいる。


 全身は艶のない黒色の鱗で覆われ、こちらを見つめる両目は青。四肢に加えてその背中には翼があり、煩わしそうにバサバサと動かされている。

 シルエットはほっそりとし、顔は緩やかな丸みを帯びている。実際に対面せず絵などで見たとしたら、かわいらしいとすら思ったかもしれない。


「も、モンスター……!? どうしてここに……!?」


 とりあえずさっき見たときからわかっていたが、肉を備えている上に四肢と翼を併せ持っているので、『四足徘徊骨塚』由来のモンスターという線はない。


「わかんねぇけど、頭は引っ込めててくれ。庇いきれなくなるかもしれない」


 全長は四メートル前後というところだろうか。しかしその大半は長い尻尾と首によるものなので、胴体部分だけを見れば小柄な人間サイズといったところ。

 もちろん、その肉体が秘めた膂力が人間の比ではないことは既に身を以てわからされている。


「まったく、何がどうなってんだか……」


 呟いたネイトは直後、ドラゴンが息を吸い込んでいることに気づいた。


「――まっず」


 飛び退こうとしてから、背後には店主がいることに気づく。躱せば彼の命はないだろう。


 即座に瞑想。

 ドラゴンの口から火球が吐き出されるのと同時に、ネイトは左の拳を放った。拳で風を捉え、打ち出すような感覚。


 一直線に飛んできた火球は、ネイトの左腕が放った風の渦によって吹き散らされる。


「うひゃぁあああああああああっ!?」


 爆発じみた勢いで散らされる火球。店主の悲鳴。細かな火が店のあちこちに飛び散ったが、今はそれを気にしている余裕がない。

 火球の着弾を待たず、ドラゴンが飛びかかってきていたからだ。


「ガァッ!」


 喉元を狙った噛みつきを、上半身を反らすことで避ける。

 剣を握る右手に力を込めて、それからためらった。ドラゴンの首を狙うのは簡単だが、果たしてそれはやっていいのだろうか?


「おい、キャサリン!? 聞こえてんのか!? つーか、お前、キャサリンなのか!?」


 問いかけへの返事は横薙ぎの爪。

 即座にドラゴンの首元へ蹴りを入れる。相手にダメージを与える目的ではなく、そこを踏み台にして跳び、いくらかの距離を取る。


「うーん……?」


 こちらを見つめうなるドラゴン。その目つきは明らかに話し合いが通じる感じではない。


「グルルルルル……!」


 間髪入れずに襲いくる爪、牙、尻尾。

 人外の膂力で放たれるそれらは人の命を刈り取るに足る威力があるが、しかし来るとわかってさえいればネイトにとってはさほど問題にはならない。剣と防具を使って片っ端からさばきながら、戦闘に使っていない脳のリソースで考えた。


 先ほどの光景を思い出せば、キャサリンがこのドラゴンにしたというのは間違いないだろう。そして現状、ドラゴンは正気を失っている。


「どうにかキャサリンに戻さないダメなんだろうが……おっと」


 避け損ねた一撃が頬を掠め、鱗の表面によって皮膚がそぎ落とされる。


 問題は、どうすれば戻るのかという点だ。

 まず考えつくのは目の前のドラゴンを殺すという方法。ドラゴンを打倒すること自体は可能だ。しかしもしもドラゴンとキャサリンが同一の存在だったら取り返しがつかない。


 次に思いつくのは、このまま相手が根負けするまで防御に徹するという方法。疲れ果てればこの変身は解けるのかもしれないし、少なくとも後から別な手段を選ぶ余地が残る。ずっと避け続けるというのは厳しい方針だが、まぁ死にはしないだろう。


 魔術的な解析や理解は、残念ながら魔術師ではないネイトには取り得ない手段だ。


「とりあえず持久戦で――」


 言いかけた瞬間、ドラゴンが焦れたようにその翼を広げた。


 酒場にはよくあることだが、この店には通気性をよくするために壁の上部に大きな窓が設けられており、大抵の時間は開け放たれている。それは今もそうだ。

 ドラゴンが羽ばたき、その首を窓に向けた瞬間、ネイトは戦いが始まってから初めての焦りを覚えた。


「――ヤバっ」


 大きな窓に向かって飛ぼうとしたドラゴン。その鼻先を掠めるように、ネイトは二本の寸鉄を投擲した。


 眼前を横切った寸鉄に驚いたのか、ドラゴンの動きが止まる。


「くっそ、そうだよな。ずっとここに留まるとは限らないよな」


 つまり、状況は悪くなった。


 迷宮消失でお祭り騒ぎだろう表通りのことを思う。そこに突如としてドラゴンが飛び出す。間違いなく多くの犠牲者が出て、そして冒険者たちの反撃によってドラゴンは命を落とすだろう。


 今は寸鉄によって動きを妨害できたが、そう何度もうまくいく手ではない。いつかは逃げられてしまうだろう。粘って相手が疲れるのを待つという手も、実質的には封じられたのと同じだ。


 再びネイトを敵と見定めたらしいドラゴンの尻尾を、地面に伏せて躱す。


「どうすりゃいいんだか……」


 怪我がキャサリンに引き継がれる可能性を考えると、迂闊に斬りかかることすらできない。じりじりと防御を続けていると、ネイトに向かって瓦礫の奥から声がかかった。


「は、早くなんとかしてくれよぉ……! どうなってんだ……!」


 カウンター奥で縮こまっているらしい店主の声である。

 事態を把握できていないのはネイトも同じなのに、まるでこの状況がネイトのせいだといわんばかりの言葉に思わず舌打ちを漏らす。


「なんで俺が……」


 そんなことをいわれなきゃいけないんだ。

 文句が口をつきそうになって、不意に思い至った。


「……そうだ。『なんで俺が』だ。おっと」


 閃きに意識を割きすぎて回避がおろそかになりかける。慌てて躱しながらもネイトの思考は勢いよく回り始め、知らずに拾っていた根拠を結びつけ始める。


 そもそもとして、なんでキャサリンは自分の元に送られてきたのだろうか。


 手続き上でいえばそれはキャサリンの身元引受人として、アンジェ――『霜』のアンジェリカ・ベイノンがネイトのことを指定していたからだ。しかし冒険者ギルドは血縁そのものは重視しない。彼女にはネイトに限らず、子供の保護者として指定できる当てはいくらでもあっただろう。

 その動機を信頼であるとはネイトは推測しない。もっと冒険者らしい、利益による動機がそこにはあったはずだ。


『まだ、まだ先だったはず……どうして今……?』


 これはキャサリンがドラゴンへと姿を変える前に呟いていた言葉。


 彼女は自分に起きる異変について知っていた。加えてそれは周期的に起きていた現象であり、保護者であったアンジェも知っていたのだと予想する方が自然だ。


 冒険者であったアンジェはいつであれ死ぬ可能性があった。

 キャサリンの変異は周囲と、そして彼女自身に危害を及ぼす可能性があった。


 つまりアンジェによって指定されたキャサリンの身元引受人とは、アンジェの身に不慮の事態が起きた後、キャサリンの異変に対処できる能力がある人間なのだろう。


「なら……どれだ?」


 再びの火球。今度は背後に店主がいないので、ネイトは転がって回避する。炸裂した火球に肌を炙られながら、視線はドラゴンから外さない。


 ネイトはそれなりに多芸な冒険者だが、こんな事態に対処できる可能性がある手札はそれほど多くない。

 頭の中で次々に取り得る手段を並べていき、それをより分けていく。作業の中で思い出したのは昔、知り合いから聞いた言葉だった。


『天才の私はものを教えることに関しても天才です。無知蒙昧なあなたに一つの魔術を授けましょう。これは「恒常性維持術式」と呼ばれるものです』


 思い出の中ですら腹の立つ声。


『この術式はあなた自身の肉体や精神が持つ「」とする働きを強化します。これを用いればほとんど全ての毒や呪いに強い抵抗力を得ることができますし、何よりあなたがどれだけ無知で毒や呪いの種類を何一つ知らないとしても術式を十全に働かせることができます』


 当時聞いた長話の回想はそこで打ち切った。


「これか……!」


 決断すると同時にネイトは立ち位置を調整。間合いを制御することで、ドラゴンからの噛みつきを誘う。


 そしてドラゴンが口を大きく開いた瞬間、右手に持っていた剣を足下に捨てた。


「こいや……!」


 噛みつきを生身の右腕で受ける。

 決して小柄ではないネイトの体が軽々と宙に浮き、そのまま背後の柱へと叩きつけられる。ドラゴンの頭と頑丈な柱に挟まれる形になり、肺から空気が絞り出された。


 右腕にいくつもの牙が食い込み、血が流れ出す。骨まで軋むような顎の力。痛みをこらえながら、精神を集中させる。


「これで勘違いだったらマジでキレるぞ……」


 イメージするのは自分の内側を巡る生命力と、右腕から垂れ落ちる血。その血は自然と牙を伝い、ドラゴンの口腔内に流れ込んでいる。


 だから今、ドラゴンの体も自分の体につながっている。そう想像する。

 自分だけを対象にした魔術を、無理矢理拡張して使用する。


「『私の血が煮える』『私の血が淀む』『それでも私の血は赤いまま』、だ……!」


 瞬間、恒常性維持術式がその効果を発揮した。


 猛烈な負荷が自分の体にかかるのを感じる。今、ネイトは毒にも呪いにもさらされていない。つまりこの負荷は自分の体ではないどこかで魔術が猛烈に働いている証左である。


「フゥーッ……! フゥーッ……!」


 ドラゴンの荒い息が顔に当たり、酷く熱い。

 本能的な敵意をたぎらせたドラゴンの瞳と向かい合いながら、ネイトは魔術に生命力を注ぎ込み続ける。


 ネイトはゆっくりと秒数を数える。

 五秒を超えた辺りでドラゴンの呼吸が落ち着き始め、十秒を超えた頃にネイトの足が床に着き、二十を数えるよりも前にずるりと右腕から牙が抜けた。


 ドラゴンはまるで急激な眠気に襲われたように、その長い首をゆっくりと振る。そのまま音もなく地面に倒れ、


「……よし、効いたか」


 また裏返った。


 一瞬のうちにドラゴンの姿はかき消え、そこにはキャサリンが丸くなっていた。素早く確認するが呼吸も脈拍も安定しており、ただ眠っているだけのようである。

 台風が過ぎ去ったように荒れ果てた酒場の一階。右腕の傷口に布を縛り付けながら、ネイトは愚痴をこぼした。


「で、なんだったんだよ、これは」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る