04

「いらっしゃいませ……あ、おじさん」


 深夜、迷宮から地上へと戻り、酒場に入ったネイトを待っていたのはキャサリンだった。


 正確にいえばワンピースの上からエプロンを身につけ、両手で料理の皿を器用に運んでいるキャサリンだった。


「……お前、何してんだ?」


「見ての通りです。あ、席はご自由にどうぞ」


 見慣れてきた無表情でそういうと、キャサリンはすぐに歩き出す。客席に顔を向けると同時にうっすらとした笑顔を作るのがなんとなく面白かった。


 冒険者向けの酒場において一人の客というのはどうしても肩身が狭い。パーティー向けのテーブルを使うのを避けるため、ネイトの席はいつだってランプの明かりが届くかどうかの端の席である。


 いつものように席に座って少し待つ。しかし今日やってきたのは見慣れた店主ではなく、キャサリンだった。いくつかの皿とジョッキをまとめて運んできた彼女は、ネイトの対面へと腰掛ける。


「休憩入りまーす」


 と厨房の方に声をかけると、姿も見えないまま店主から返事があった。

 エプロンを脱いで几帳面に畳むキャサリンを見て、ネイトは問いかける。


「で、何やってんだ?」


「お手伝いです。それかバイト」


「それは見ればわかるけどよ……」


「昨日はうっかり、同じベッドで寝てしまったので」


 そんなことを許した自分が信じられない、とでも言いたげにキャサリンは少し口を尖らせる。


「今日寝る場所として使われていない部屋を借りたくて、その代わりに店の手伝いをしていました。今は休憩で、ついでにおじさんのご飯も」


 キャサリンの持ってきた皿とジョッキは、彼女とネイトの前に半々で置かれた。ネイトがいつも頼むメニューなので、店主に聞いたか持たされたかしたのだろう。


「食い扶持を稼ごうってのは偉いな。けど店主に無理いったりはしてねぇだろうな」


「まさか!」


 とこれは別のテーブルに料理を運びながら通りすがった店主。


「むしろ想像以上に助かったくらいだ! 兄さんがうちにいる間は是非雇わせてくれよ!」


「……だそうです」


 キャサリンはなるべく普通な顔をして相づちを打とうとしたようだったが、得意げな感情を隠し切れてはいなかった。


 苦笑いして皿を引き寄せる。皿に載せられているのは皮に焦げ目をつけて焼かれた鶏の胸肉、盛り合わせの野菜に固く重たい黒パン。

 とりあえずジョッキを口に運んで、そこでネイトはむせかえった。


「ごほっ、ごほっ!?」


「どうしました?」


「いや……これ、酒じゃないのか」


 てっきりいつも通りの酒だと思って口に運んだが、舌の上に広がったのは風味豊かな甘さだった。

 慌てて中を見てみれば、そこに揺れていたのは果汁を用いたジュースである。


「あっ、すみません。お酒の方がよかったですか?」


「いや、わざわざ取り替えるほどじゃない。驚いただけで」


 席を立ちかけたキャサリンを、手を振って制する。

 一瞬嫌がらせかと思ったが、どうやらキャサリンはただ普通にジュースを運んできただけらしい。彼女の中で食事の際に選ぶ飲み物として、酒という選択肢はなかったのだろう。


 ナイフとフォークを手に取り、鶏を切り分けていく。気分としてはそのままかぶりつきたいくらいだが、適度に切り分けて肉汁とソースを皿に垂らしておかないと、黒パンを食べるときに苦労することになる。


「迷宮に行ってたんですよね? どんな感じでした?」


 という質問はただの世間話としてだろう。

 今日一日を振り返って、ネイトはシンプルな感想を口にした。


「いつもと変わんねぇ一日だった」


 しばらくの間、食卓には食器がぶつかり合う小さな音だけが満ちていた。

 キャサリンが再び口を開いたのは、ネイトの鶏が半分ほどなくなってからのことだった。


「……おじさんって、どうしてママと別れたんですか?」


 唐突な質問に瞬きをする。

 返事を悩んでいることがバレないように丁寧に口の中の黒パンを咀嚼し、ゆっくりと飲み込んでから答えた。


「お前のママからなんか聞いてないのか?」


「おじさんと組んでいた頃のパーティーの話はたまに聞きましたけど……。一応、その中にはおじさんの話も入ってました」


「聞くのがおっかねぇけど、なんていってた?」


 なぜかキャサリンの頬は、ネイトの質問を受けて赤く染まった。


「……おじさん、それセクハラですよ」


 本当に、一体どう自分のことは彼女に伝わっているのだろうか。


 キャサリンの皿の上にはネイトの半分以下の量の料理しか乗っていない。それでも彼女はまだ食事を続けていて、一口分だけそれを進めてから首を傾げる。


「多分……素敵なパーティーだったんですよね? ママの冒険はずっと続いていて、色んなパーティーを組んだり解散したりしてたみたいですけど、おじさんといた頃の話はその中でもなんというか……特別なんだなって感じでした」


「まぁ、そうだな。しみったれた言い方だが、あの頃は楽しかったよ。後にも先にも色々あったが、一番思い出が色鮮やかなのはあいつらとパーティー組んでた時だ」


「でも、おじさんはママと別れて、パーティーも解散したんですよね」


 ちらり、とキャサリンの目がこちらを窺ってくる。


「どうして別れちゃったんですか?」


「うーん……」


 実際のところ、そこに一口でいえるような理由はない。どうして別れて、どうしてパーティーが解散したのかを語ろうとすれば、ネイトの人生を最初から辿るような長話が必要になるだろう。


 そうした繊細な心情を伝えるのは面倒なので、ネイトはざっくばらんな言葉をため息のように口にした。


「……俺たちは当時、たくさんの冒険をした。大迷宮から大迷宮へと渡り歩いて、数え切れないほどのものを見た。お前がどれだけの話を聞いたかは知らないけど、全部は間違いなく聞いていないだろうってくらいのな」


 記憶から湧き上がってくる感情を、ジュースと一緒に飲み下す。


「でもある日、気づくわけだ。人は永遠には冒険者でいられない。走り続ければ、いつか足を止める日がくる。望むと望まざるとにかかわらず」


「おじさんは冒険者を辞めたくなったんですか?」


「辞めたいかどうかじゃない。いつかは辞めるんだよ。そして俺たちの冒険はいつでも終われた。聖域防衛戦、迷宮『燻る石壁』での魔神討伐、大迷宮『四角を描かない踊り』の最深部到達、人類放棄領域の一部奪還……俺たちの冒険がめでたしめでたしで締められるタイミングはいくらでもあった」


 いくつものトラブルが当時のネイトたちの前には立ちはだかり、その全てを乗り越えてきた。


 とんとん、とネイトは自分の顔の右半分を叩いてみせる。

 そこには醜く引き連れた三本の傷が走っている。


「文字通りに身を削りながら走り続けて、ある日俺は思った。『いつまで?』と。そして――」


 思い出すのは銀色の髪。

 どんな迷宮の中でも、彼女はまるで閃光のように輝いていた。


「お前の母親はいつまでも叫び続けた。『』ってな」


 ネイトの言葉を反芻するように、しばらくの間キャサリンは黙っていた。

 それから彼女は緩慢な仕草で頷く。


「だから、別れたんですか」


「足並みが乱れたパーティーのお決まりの末路だ。地上にいる間に解散できたんだから、比較的穏当な終わり方だな」


 パーティー内のトラブルが顕在化しやすいのは迷宮の中である。そして迷宮内でのもめ事は、往々にして地上でのもめ事よりも悲惨な結末を迎える。


「それで、えっと、おじさんは冒険者を辞めようとしたんですよね? でも今、こうしてまた冒険者をしていますよね?」


「質問は『どうしてお前の母親と別れたのか』だろ? そっから先を教えるっていった覚えはねぇな」


 からかわれたとでも思ったのか、キャサリンが不機嫌そうな感情を目元に滲ませる。ネイトはそれを見ながら固いパンをちぎり、ソースと肉汁をすくって少しでも柔らかくしてから、口に放り込んだ。


「からかってんじゃなくて。俺の人生の話を全部してたら夜が明けちまうし、おっさんの半生なんて聞いて楽しいもんじゃないだろ」


 皿の上のものをきれいに食べ終え、ジョッキの中身を一気飲みする。腹が満たされると、一日迷宮に潜っていた疲労がずっしりと感じられてくる。


「あんまり夜更かしすんなよ。手伝いもほどほどにな」


 そういって席を立つ。そのまま二階に戻ろうとしたネイトだったが、背後からキャサリンに声をかけられた。


「おやすみなさい、おじさん」


「…………」


 ちょっと面食らってしまったのは、ネイトの人生はそういった挨拶とは無縁なものだったからだ。

 なんだかためらってしまって、妙な間が開く。それから不慣れな言葉を、たどたどしく口にした。


「……あー、うん。おやすみ」


 ふと、道を分かってから初めて、ネイトはアンジェリカ・ベイノンのその後のことを想像した。かつて一緒にいたとき、彼女は冒険者らしい冒険者だったはずだ。つまり挨拶なんて口にせず、迷宮や戦いや酒のことばかりを口にしているような。


 だがキャサリンと一緒にあるとき、彼女はおはようとかおやすみとかを当たり前に口にしていた。彼女の過ごした十年はそんなものだったらしい。


「……だからなんだって話だけどよ」






 翌日、ネイトはいつものように昼前に宿を出た。

 慣れた道を辿ってギルド会館を目指す。この街のような迷宮の発生と同時に建てられた街は構造上、迷宮を都市の中心に擁していることがほとんどである。大通りを街の賑わう方へと進めば、初めてこの街にきた人であっても容易に会館は見つけ出せるだろう。


 そして街の中心部であっても一際大きいのがギルド会館だ。


 ギルド会館は多機能な建物である。ギルドそのものの運営事務所であり、冒険者への対応や売買を行う窓口でもあり、魔術および医術を施す機関でもあり、迷宮管理の拠点でもあり、加えて有事の際の防衛施設としての側面もある。

 あらゆる機能を押し込むためのその建築構造は必然的に巨大になり、どんな迷宮の上にあるギルドも要塞じみた印象を帯びている。


 とはいえ人生のほとんどをその建物の下で過ごしてきたのだ。今更どうという感慨もない。ネイトは普段通りの足取りで進んでいこうとして、


「……あん?」


 違和感を覚えた。


 何か妙な気配がしている。背筋を体の内側から撫でられるようなそのざわつきは、冒険者人生の中で何度か感じたことがある。自然、彼の足は早くなった。


 会館の中に踏み込めば、案の定そこは酷く騒がしかった。


 迷宮入り口へと続く階段からひっきりなしに冒険者が駆け出してきている。今まで迷宮にいた冒険者が次々に出てきて、これから入ろうとしていた冒険者が足止めを食らっているものだから、広間は肩をぶつけ合うくらいの混雑模様だ。


「これはつまり……」


 というネイトの言葉に反応したわけではないだろうが、迷宮から駆け出してきた誰かがいった。


「め、迷宮が縮小期に入った……!」


 一度生まれた迷宮は徐々に縮小していく。縮小期が訪れる間隔、一度に縮む規模は迷宮によって様々だが、『四足徘徊骨塚』がもう長くはないことは随分前からはっきりしていた。


 今、再びの縮小期が訪れたらしい。

 それはつまり、とネイトは想像する。


 ざわざわと騒ぎが広がる間にも、迷宮から逃げ出してくる冒険者の数は増していく。最後にまとめて数名の冒険者が吐き出され、


「…………」


 少しの沈黙があった。

 カウンターから慌てて出てきた職員が、階段下をのぞき込む。これまでは迷宮につながっていたその先。ネイトの立ち位置からは見えないが、そこがどうなっているのかは知っていた。


 職員はやや声を張り上げたが、全員が固唾をのんで見守っていたので、ささやき声であっても広間全体に聞こえたことだろう。


「迷宮が消滅しました……! 『四足徘徊骨塚』、閉門です……!」


 瞬間、広間に様々な声が満ちた。

 それは迷宮という人類の敵が一つ消え去ったことへの歓声であり、あるいは食い扶持を失った冒険者たちの嘆きであり、あるいは単に珍しいものが見られたことへの感激である。


 迷宮は徐々にしぼんでいくものだが、実際にそれが消え去るところに立ち会う機会はそう多くはない。これから冒険者たちは次にどこの迷宮に行くか、誰と行くかを大慌てで考えなければならないだろう。


 そうした話し合いが実行されるくらいにみんなが冷静になるよりも前に、ネイトはさっさと会館を抜け出した。


「あちゃー……ついにきたか……」


 いつか『四足徘徊骨塚』が閉まることはわかっていたが、そのいつかが今日だとは思っていなかった。ネイトもまた今後の身の振り方を考えなければならない。


「どうしたもんかな……とりあえず今日は帰って寝るか」


 装備を調えて出て行ったネイトがすぐに帰ってきたものだから、酒場の店主はその目を見開いた。


「どうしたんだ? 腹でも痛くなったか?」


「迷宮が閉まった。すぐにギルドから告知がくるだろうが、あんたも今後のことを考えておいた方がいいぞ」


「うーわ。じゃあこの店も閉め時かぁ。結構気に入ってたんだがなぁ」


 店主が天を仰いでみせるが、決して大げさなだけの仕草ではない。

 もちろん遠からず閉店することになるのは彼も知っていたし、そのための備えもしてあるのだろうが、それでも住み慣れた街を離れるという決断は軽いものではないのだろう。ネイトの人生は定住というものとは無縁だったので、想像でしかないが。


 とはいえいきなり冒険者が全員消えてなくなるわけでもない。すぐにまた仕込みに戻った店主を尻目に、ネイトは二階へ。


「……そういえばあいつにも声をかけておかないとか。さっさと次の街に行きたいが、『一週間』の期限がくるまではここにいた方が楽か?」


 ネイトの部屋の隣、キャサリンが借りた部屋の扉をノックする。


「…………?」


 返事がなかった。

 あまり寝坊するタイプには見えなかったが、昨日は遅くまで働いていたわけだし疲れているのかもしれない。


 そう思って扉を離れようとしたネイトの耳に、ドサリと何か重たいものが落ちるような音が届いた。

 まるで、と反射的に想像する。

 人が意識を失い、無防備に地面に倒れたような音だ。


「おい……!?」


 慌ててもう一度ノック。

 返事はないが、声は聞こえた。小さく弱々しいうめき声が。


「ちっ……! おい、店主! 二階の鍵!」


 吹き抜け越しに一階へと声をかけるも、店主はうろたえるばかりだった。


「えっ、急になんだ……!?」


「もういい、遅ぇ!」


 舌打ち、同時にためらいなく扉に蹴りを入れる。

 扉は蝶番ごと外れ、内側に倒れ込んだ。ネイトのいる部屋と構造は変わらない。元は物置だったのか、少しほこりっぽいくらいか。


 その部屋の片隅、毛布を運び込んで寝床にしていたらしい一角にキャサリンがいた。

 床に倒れ伏し、体を丸めているキャサリンが。


「……はっ、……はぁっ」


 不規則な呼吸が口から漏れている。背中はびくびくと痙攣し、指先は床に強く突き立てられていた。


「な、んで……っ」


「おい、大丈夫か。持病か? 常備している薬はあるか?」


 ネイトはその光景を見て、自然と落ち着きを取り戻していた。命の危機に冷静で正確な対処をしようとするのは、冒険者としての染みついた習性だ。


 彼が部屋に入っていることに気づいてすらない素振りで、キャサリンがあえぐ。


「まだ、まだ先だったはず……どうして今……?」


「とりあえず下に運ぶぞ」


 ネイトは少女の体を持ち上げようとして、


「――ダメっ!」


 キャサリンによってその手を弾かれた。


 思わず一歩下がってから、今起きたことの異様さに気づく。ネイトは老いたとはいえ冒険者であり、キャサリンはただの少女だ。だというのに伸ばした手を無造作に払われた。しかも彼の右手にはじんじんとした痛みが走っている。


 そこで初めてネイトの存在を認識したのか、キャサリンの顔が歪む。


「ダメ……ダメなんです……!」


「おい……?」


 背筋にざわつきを覚える。何か異様な気配を感じる。冒険者としての本能が未知の危険へと警鐘を鳴らしている。何かが少女の体の内側で膨れ上がっている。


 ほとんど泣きそうな瞳がネイトのことを見つめた。


「に、逃げてください……!」


 直後、


 見たままを表現するならば、極微小な一点に向かってキャサリンの体が吸い込まれていき、その入れ替わりのように何かが出てきた。そういった感じに見えた。


 その現象がなんであるかはまるで理解できなかったが、現象の結果は一目瞭然だった。先ほどまでキャサリンがいた場所。そこにもう彼女の姿はない。


 代わりにいるのは、一匹のドラゴンだ。

 そのドラゴンが喉を震わせてうなる。


「グルルル……」


 冒険者として多くの経験を積んできたネイトも、さすがに呆然とした。


「何だ……何が起きて……!?」


 その思考を待つことなく、ドラゴンは襲いかかってきた。

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