02
酒場の二階の部屋はさほど狭くないが、長く暮らすうちに積もったガラクタがあふれかえり、見た目の印象はごちゃごちゃとしている。
そのガラクタに埋もれるような椅子に、今は少女が座っていた。
キャサリン・ベイノン。かつての仲間であり恋人、『霜』のアンジェリカ・ベイノンの娘。
「…………」
ネイトは壁に楽な姿勢で寄りかかりながら、彼女の姿を眺める。
髪の毛は夜空のような黒色。肩にかからないくらいに短く切り揃えられている。逆に両目はよく晴れた夏の日のような青色。目つきは少し悪いが、よくいえば落ち着きと知性を感じさせる。
顔立ちは整っているが、どことなく人形的なかわいらしさだ。澄まし顔は中々様になっているけれど、子供らしく笑ったり泣いたりしているところは想像しづらいし、きっと似合わないだろう。
シンプルな黒いワンピースは喪服の代わりだろうか。喪に服すという文化は冒険者にはないけれど、街の人がそうすることくらいはネイトも知っている。
なんというか……と心の中で呟く。
似ていない。彼女の母親であるアンジェリカ・ベイノンにも、父親であるといわれてしまった自分にも。
まぁ、いつまでも見つめ合っていても仕方がない。
「……あー、お前、本当にアンジェの娘なのか」
少女……キャサリンがこくりと頷く。
「で、俺の娘?」
「……えっと」
初めて聞くキャサリンの声は見た目の割りに低く、少しかすれていた。
「父親が誰か、ママに聞いたことはないです。気にしたことも、なかったので」
「ってことは意外とちゃんと母親やってたんだな、あいつ」
「おじさんが私の父親なんですか?」
『おじさん』という呼称に反応するか迷ってから、とりあえず無視する。
「どうだかな……お前って今、何歳だ?」
その質問を受けて、キャサリンは少しうつむいた。
こちらに視線を戻したときには元の無表情だったが、その瞳には窺うような色があった。
「おじさんはいつまでママとパーティーを組んでたんですか?」
「あ? えーと、確か大迷宮『夕暮れ小道』が発見された年に解散したから……十年前までだな」
いってから自分で衝撃を受ける。
あれからもう十年も経ったのか。
そんなネイトの内心の驚きに気づいた様子もなく、小さく頷いてからキャサリンは答えた。
「じゃあ私は九歳です」
その返答に内心で苦笑する。
とりあえず、いくらか知恵は回るようだった。
「それで、あー……」
言葉を選ぼうかと思ったが、適切な語彙はネイトの中にはなかった。結局、一番直接的な表現をそのまま口にすることになる。
「あいつは死んだのか」
キャサリンは、唇を噛んで頷いた。
「……迷宮探索中に行方不明。帰還予定を二週間超えても、帰ってきませんでした」
「じゃあ死んだんだな」
「でも……」
反射的な反駁。
この子供は自分でも『でも』の先に続ける言葉は知らないだろう。
「冒険者をやってりゃ似たような話は山ほど聞く。そんで未帰還者が帰ってきたなんて話は聞かない。だから死んだってことだ」
キャサリンの顔に浮かぶ悲しみと、諦めきれない希望。それを見てアンジェはこの子供を冒険者としては育てていなかったのだろうと想像する。
迷宮に触れていれば真っ先に失う類いの希望を、この子供はまだ擦り切れさせずに持っている。
ここにくるまでにギルド職員たちと同じような話は何度もしてきたのだろう。キャサリンは断固として首を振ったが、それ以上しゃべろうとはしなかった。
「んで、あー……」
自分の子供かもしれない少女。ギルド協約と養育義務。死んでしまった恋人との過去、それに連なる因縁。たくさんのことが頭の中でごちゃごちゃと巡っているが、ネイトの嘘偽らざる本音は一つだけだった。
どうして自分がこの子供を育てないといけないのだろうか?
そして、そんな疑問を抱いてしまう時点で自分が親や養育者としての役割を果たせないことは自覚できた。
「親をやれっていわれたって、無理だよなぁ……」
「……大丈夫です」
「うん?」
気がついた時にはまたキャサリンは元通りの無表情へと戻っている。
「私はあなたの世話にはなりません。すぐに出て行きます」
「あ、そうなの?」
露骨にほっとした声音になってしまったのが伝わったのか、キャサリンの目つきがちょっとキツくなる。
「私は……しなければならないことがあるので」
それは何か聞こうとしてから、やめた。
キャサリンは助けを求めていないし、ネイトも手を差し伸べる気はない。ならば最初から事情なんて聞かない方がいい。
「それならいいんだ。でも、だからって今すぐその足で出て行くってわけじゃねぇだろ?」
「そう……ですね。できるなら、少しだけ休みたいです」
「じゃあ朝食を取ってきてやるよ。ちょっと待ってろ」
ネイトは壁から尻を離し、部屋から出る。
階下に降りればいつでも食事があるのがこの拠点のいいところだ。物問いたげな店主への返事は手を振るだけで済ませて、仕込みの終わった食べ物をいくつか摘まませてもらう。
適当に盛り付けた皿を持って再び二階へ。足取りは朝よりも軽い。面倒ごとが自分から出て行ってくれるというのだから、それも当然だ。
自室へと戻ってきて、
「……おっと」
そこでピタリと動きを止める。
「…………」
椅子の上に座ったキャサリンの頭が、ぐらぐらと揺れていたからだ。
彼女の体は微妙な角度になり、ゆっくりとしたペースで船を漕いでいる。階下にいた数分のうちに眠気に襲われたらしい。
考えてみれば、元々どこにいたのかは知らないが、彼女は長旅をしてきた後だろう。馬車に揺られているだけであっても疲れとストレスは溜まっていく。まして子供ならばなおさらである。
「全く……」
ネイトは小さく呟いて、片手で彼女の首元を掴むと、ぽいとベッドに放った。彼女はむずがるように小さくうなったが、無意識にだろう、やがて毛布へと潜っていく。
「……なんだかなぁ」
呟いて、ネイトは部屋を出たのだった。
「兄さん、ちょっと質問いいかい?」
そう店主が声をかけてきたのは、開店前の一階でネイトが皿の上を空にした頃だった。
仕込み中につまみ食いをしてしまったことだし、とネイトは素直に応じる。
「なんだ?」
「さっきの子、あんたの子供なんだっけ?」
「さあ?」
「さあって……ギルドが置いてったんだよな? というか考えてみたら、ギルドがどうして孤児を運んできたりしたんだ?」
「冒険者ギルドは冒険者が遺した子供には必ず家を提供する。その家が公営の孤児院か、ギルド経営の孤児院か、里親、あるいは俺みたいな縁のある誰かはその時々による。けど家を提供するのは絶対だ」
「いっちゃあなんだが……なんでだ? 冒険者ギルドは迷宮の探索で儲けている組織だろ?」
肉のすっかりなくなった骨をかじりながら、少し悩む。
この辺りの肌感覚を冒険者ではない人に伝えるのは中々難しいものだ。
「その辺を理解するための前提は二つだな。一つ目はギルドは常に優秀な冒険者を求めていること。高い実力があって、問題を起こさない程度の良識があって、長く冒険者を続けてくれるやつ。これら全てを満たすやつは意外と少ない」
「あー、まぁ、冒険者さんたちは大体荒っぽいし、長続きしない人も多いもんな。冒険者をできなくなるか、やらなくなるかは色々だけど」
酒場の主人としてそれなりに人を見てきたのだろう。主人は深々と頷いた。
「二つ目の前提は、冒険者が子供を作るのは珍しくもないってことだ。明日も知れない仕事だからな。うっかり盛り上がって、うっかり子供が……なんて話はよく聞く」
「それもそうだな。酒場でもちょくちょく聞く話だ」
「で、つまりだ……」
骨をひょいと振って、ネイトは結論を語る。
「もしも冒険者ギルドに遺児をフォローする仕組みがなかったらどうなると思う?」
「……なるほど。子供のことを思って冒険者を辞める人が出てくるってわけか。しかも良識のある人に限って辞めていくことになる」
「そういうこと。ギルドは子供ができたくらいで優秀な冒険者に仕事を辞めて欲しくないんだよ」
だからギルドに登録した時点で、全員が同じ権利と義務を持つことになる。
子供を遺して死んだ場合にはギルドがその子供の面倒を見てくれる権利と、ギルドに指定された場合には遺児を育てなければならない義務である。
正確には「遺児を養育する義務」の方は拒否すること自体はできる。ただし同程度の義務を別で果たすことになるというだけで、それはそれで面倒くさい道だ。しかもその上、ギルドからの心証も悪くすることになる。
「つまり冒険者さんたちは誰かもわからない子供を押しつけられる可能性があんのか。大変な話だなぁ」
「まぁ、この義務の本質は『遺児がまともに暮らせること』だから、縁もゆかりもないやつのところに子供を渡すようなことをギルドはしねぇけどな」
「っていうと……」
「長期間に渡ってパーティーを組んでいた。交際関係にあった時期がある。後はギルドと何らかの特殊な契約を結んだとか……ぱっと思いつくのはそういう感じだ」
店主がちらりとこちらを見た。
「兄さんもそのどれかだったのか?」
ネイトは肩をすくめた。
「全部だよ、全部。あいつとは一番長くパーティーを組んでたし、一時期は恋人だったし、一緒に活動しているときにはギルドとごちゃごちゃした契約をしたこともある」
「そりゃあ、ギルドもあんたのところに子供を持ってくるわけだ」
からからと笑った店主は一度厨房の奥に引っ込み、すぐに戻ってきた。手には大きなジョッキ、なみなみとビールが注がれている。
「ほらよ、兄さん」
「なんだ?」
「知り合いが亡くなったなら酒は必須だろ? それはおごりだ。持ってきな」
ずっしりとしたジョッキを押しつけられ、ネイトの口元は自然、にやりとつり上がる。
「ありがたい。ただ酒はいつだっていいもんだ」
いつまでも居座っていては仕事の邪魔だろう。話が途切れたし、一旦部屋に戻るべきか。
店主のことは信頼しているが、疲労で眠っている少女を放置して迷宮へいくのも不用心か。今日の仕事は諦めた方がいいかもしれない。
自分の予定が誰かの都合で遮られたことにかすかないらだちを覚えながら、階段を上り始める。
三段目を踏んだところで、店主の声がした。
「しかしさすがは冒険者さんだな。なんというか……あっさりしたもんだ。やっぱりこういう状況に慣れてるからか?」
返事の代わりに軽く手を振って、階段を上り続けた。
中で眠っているだろうキャサリンを起こさないように、なるべく静かに扉を開ける。
「さて……」
テーブルの上にビールを置いて、嘆息。
冒険者は決して旅支度を欠かさない。迷宮内で数日を過ごすためでもあるし、いつかどこか別の街へ移るためでもある。
この街に居を構えて長いネイトもまたその例外ではなく、部屋には簡素な鞄が置かれていた。冒険者としての人生に寄り添い続けてきた、目をつぶっても好きな中身を取り出せるような鞄だ。
その蓋を開き、中から取りだしたのは小さな袋だった。
開けばその内側には、小分けにされたスパイスなどが詰まっている。
「えぇと……なんだっけな……」
そう呟いたのは、ある種のポーズだ。
店主がさっきそういっていたように、冒険者は死や別れに慣れきった生き物である。過去の思い出を振り返ることはしないし、あらゆる物事を平気で忘れ去っていく。
だから随分昔に別れたパーティーメンバーと作ったレシピも、埃を被って色褪せていなければならない。
そうあるべきなのだ。
「トウガラシ……シナモン……コショウ……砂糖……クミン……」
呟くたびに適当な量の粉がビールの水面に散らされる。
隠し味というには少し多めに、しかし決して多過ぎはしないように。
「後は、えーと――」
「――ハチミツ」
少女の声がそっと先を続けた。
振り返れば、ベッドからキャサリンが身を起こすところである。いつの間にか目を覚ましていたらしい。
彼女は寝起きを感じさせない目つきで、静かにいった。
「ハチミツ。そうですよね?」
「ああ、そうだ。それそれ」
「……おじさん、本当にママと知り合いだったんですね」
別で保存していたハチミツを取り出して、一匙分を加える。そのまま全てを溶け込ませるようにぐるぐるとビールを掻き回した。
「そんなわけのわからない飲み物を飲む人、ママだけだと思ってました」
統一感もなく様々なスパイスが投入され、ビールの色は少し淀んでしまっている。ジョッキを見つめるキャサリンの目には、かすかな納得がある。
「昔誰かと作ったレシピだっていってたんですけど、その誰かはおじさんだったんですね」
「昔、ケンカしたんだ。甘党と辛党でな。そんでお互い好きな隠し味を混ぜまくって決着をつけようとかいって、結果こうなったわけだ」
「おいしいんですか、それ?」
「なんだよ、アンジェに飲ませてもらわなかったのか?」
「大人の味だからって、毎回断られてました」
ネイトは少し考えてから、部屋に転がったままだったジョッキを拾う。二つのジョッキに半々にビールをわけ、きれいな方のジョッキをキャサリンへと差し出した。
「ほらよ」
「でも……」
「どうあれお前の親はいなくなった。お前はお前の面倒を見なくちゃならなくなって、それはつまりお前はもう大人ってことだ」
キャサリンは迷った様子だったが、それでもおずおずと両手をジョッキに伸ばした。二つの手で包み込むようにして、大人向けのサイズのジョッキをどうにか掴む。
その様を眺めながら、ネイトはビールを一口すすった。
味については、
「……まぁ、思い出の味ってやつだな」
雑多な味になったビールをちびちびと飲んでいく。
ネイトがジョッキの水位を下げる間、キャサリンはただうつむいていた。彼女の表情は前髪に隠れて見えない。
半分ほどにまで減っても彼女はずっとそうしているので、もしかして飲む気はないのかもしれないと、そう思い始める。
キャサリンに渡したジョッキを回収しようとして、そこで気づく。
「…………」
彼女の抱えるジョッキに、小さな波紋が立っていた。
透明な雫が音もなく滴り落ちている。
「……大人になったら一緒に飲もうって、そういってたのに」
小さなつぶやきを、ネイトの耳は捉えてしまった。
しかし冒険者の能力に鋭い聴覚はあっても、傷ついた小さな子供を慰めるための語彙はない。何をいえばいいのかわからないまま、口を開く。
「なぁ――」
ネイトの言葉は、キャサリンによって遮られた。
「――泣いてないです」
彼女の声は冷静で、それがいっそ哀れですらあった。
「泣いてなんて、いないです。大人は泣いたりなんて、しないですよね?」
そうだな、と普段のネイトならば答えていただろう。
冒険者は誰かが死んでも泣いたりしない。死と喪失と別離は、あまりにも日常と近すぎて、それに一々反応したりなんてしていられない。ネイト・リバーだってこれまでずっとそうして生きてきた。
けれど、と手の中でジョッキを揺らす。
そうではない言葉を選んでしまったのはネイトの本音か、少女に対する同情か、手の中にあるビールへの義理か。その内情を必要以上につまびらかにしないよう、慎重に目を逸らしながらネイトは答える。
「……そんなことはねぇよ」
「そう、なんですか?」
「ああ。大人だって、本当は泣きたいさ」
そこから先に言葉はなかった。
少女の薄っぺらい肩が震えるのを見ながら、ネイトはかつての恋人を思い出す。アンジェ。『霜』のアンジェリカ・ベイノン。冬を身にまといながら、太陽のように笑った女。
「……何を死んでんだよ、お前は」
ため息の代わりに、ジョッキを勢いよく飲み干した。
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