第三話
ジェマは首を捻った。今日は、エレナの様子がおかしい気がする。エレナの補佐官に就いてからしばらく経つが、このような姿を見るのは初めてのことだった。
一応、仕事をこなしてはいるようだが、どことなく上の空で、明らかに集中できていない。よく見れば、顔から血の気が引いている。
「どうしましたか? エレナ様。顔色が優れないようですが」
「……ああ、いえ、大丈夫です」
エレナはそう言うが、全くそんなふうに見えない。試しにしばらく注視してみると、明らかに呼吸が浅かった。
それに時折奥歯を噛みしめるように、顔を顰めている。何かを堪えているようだった。
「エレナ様?」
再び呼びかけてみるが、返事はなかった。かと言って、目の前の書類に集中しているわけでもなく、完全に手が止まってしまっている。声すら届かないのは、やはり奇妙だ。
「エレナ様!」
ジェマが強く声を張ると、エレナがビクリと身を震わせた。エレナはハッとして顔を向けた。
「な、なんでしょう、ジェマ」
「……『なんでしょう』ではありません。やはり具合が悪いのでは? 先ほどから明らかに集中出来ていません」
「申し訳ありません。気を付けますね」
「そうではなく」ジェマは語気を強めた。「休んだらどうですか、と言っているのです。そんな状態で仕事をされても、能率が悪すぎます。ご自身でもわかっていますよね?」
「そうかもしれませんが……」
「慣れない仕事を始めたばかりですから、少々疲れが出たのではないでしょうか? 無理なされないほうがよろしいのでは? 悪化しては事ですよ」
「でも……」
歯切れ悪くエレナは目を泳がせる。視線の先には、山積みになった書類があった。しかしその山は、もうかなりの時間、ほとんど高さを変えていない。
ジェマがわざとらしく窓の外に目をやると、つられてエレナも外を見た。
高度を落とした太陽が、赤みが増してきていた。空の青もどこか淡い。
仕事を始めた頃は、まだ天高くから強い光を下ろしていたというのに。
ジェマはエレナをまっすぐに見据える。
「その進捗だと、陽が落ちるまで粘ったとて、今と大差はないでしょう。エレナ様ともあろう御方が、その程度の判断すら出来ないとはとても思えませんが」
ジェマの繰り返しの説得に、ついにエレナは折れたようだ。ペンを置き、息を深く吐いた。
「……そうですね、ジェマの言う通りかもしれません。本日は休ませてもらいますね」
エレナはそう言いつつも、名残惜しそうに山積みの書類に目を向け、そして苦々しげに下唇を噛んだ。
「残りは私が片付けておきますよ」
ジェマがそう言うと、エレナは逡巡した様子を見せたが、やがておずおずと頭を下げた。
「……お願いします。早速ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「いえ。私の仕事でもありますから」
そう言ったジェマは、平静を装いつつも、しかし内心では喜んでいた。それはエレナの身体を案じてのこと――ではない。
実のところジェマは、後から聖女になったくせに、あっという間に自身を抜き去っていったエレナに対し、目の上のたんこぶのような感覚を持っていた。
そんなエレナの仕事を自分が片付ける。
あのエレナであれば、手柄を横取りすることもないだろう。つまり、エレナの評価は下がり、自分の評価は上がる。ジェマはその事実に、仄暗い喜びを覚えていた。
しかしエレナはジェマがまさかそんなふうに思っているなど、考えもしないだろう。執務室を出る今だって、ひどく申し訳なさそうな目を、ジェマに向けていた。
ジェマがエレナにつれない態度をとっていることなどとっくに気が付いているだろうに、それでも積極的に関係を保とうとしている。
そんなエレナの態度は、いつもジェマの心を苛立たせた。人に悪意を持たないお人好しぶりに、つい舌を打ちたくなる。
扉が完全に閉まるのを待ってから、ジェマは上機嫌に鼻歌を鳴らし、仕事を再開した。
◇
私室に戻ったエレナは、修道服から着替えもせず、寝台に横たわっていた。
執務室から戻る傍ら、世話役の者には本日の夕飯は不要の旨を伝えてきた。叙階聖女になってからは何かと忙しく、こういうことが増えてきた。
向こうもすっかり慣れているようで、特に疑問を挟んだりはしなかった。
もうエレナには部屋を出る必要がない。呼びつけない限り、誰かが近づくようなこともない。もちろんジェマだって、わざわざ訪ねて来ることはないだろう。つまり、朝まではこれで完全に一人だ。
ジェマに指摘された通り、エレナの体調は悪かった。昼までは特に問題なかったのだが、時間の経過とともに悪化の一途をたどった。
今こうして横になっていても、楽になる気配など、微塵もない。いっそ病気だったらと期待したのだが、やはりそんなうまい話はないらしい。
夜の帳が降りていた。エレナは寝台から身を起こさず、半分だけ開けた目を窓の外に向けた。
今夜は星が見えづらい。その代わり、煌々と輝く真円が強く存在感を主張している――満月だ。
瞬間、発作的な心臓の高鳴りに、エレナの身体が弓打った。すべてを薙ぎ払う竜巻が如き衝動が、心の中を蹂躙していく。
――あぁ……欲しい…………欲しい…………欲しい……欲しい……欲しい、欲しい、欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい。
どす黒い感情が胸に渦巻く。爪立てられた皮膚から血が滲むほど強く身体を抱きしめながら、必死に目を瞑った。
「ぐ……ぅ、ぁ…………ぁぁあ……あ」
叫びだしそうになり、エレナはシーツを噛んだ。僅かに残った理性が、範囲を前歯に留める。奥歯が擦れ、ギリギリと鈍い音がした。鋭く伸びた、牙のような犬歯に光が反射する。涎を垂らして唸る様は、まるで飢えた獣のようだった。
あまりにも力を入れすぎたためか、先ほどまで閉じていた目が、今は完全に開き切っている。虹彩は、深みを増して血塗られたような深紅に染まっている。瞳孔は、爬虫類のように妖しく縦に割れていた。
鼻息荒く、爛々と目を輝かせるその姿には、もはや聖女の面影など微塵もない。深紫の修道服だけが、ひどく場違いに浮いていた。
――血が……血が、欲しい……!
誰がどう見ても疑いない。最年少叙階聖女にして理想の聖女エレナの今の姿は、水霊教の敵にして魔物の一種――吸血鬼そのものだった。
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