第四話
「朝……」
汗でぐっしょりと濡れた衣服の不快さに目を覚ますと、ちょうど日が昇る時間だった。
真っ先に確認できる口に手をやって犬歯を撫でると、いつもの感触が返ってきた。
耐えきった、とエレナは安堵の息を漏らす。
起きたばかりなのに身体はぐったりと疲れていたが、それでも心は晴れやかだった。
夜通し血の欲求に苛まれた。その度に、エレナは自らを〝理想の聖女〟だと鼓舞した。
普段はそんな麗句は過大で、受け取り難いと思っている。しかし、何も縋るものがないよりは、ずっとマシだった。
ウンディーネ様に吸血鬼の姿を見せることはどうしても憚られ、とても祈りなど捧げられなかったのだ。
聖女としての自分が薄れ、吸血鬼としての自分が存在を強めていく。心が――いや、身体も含め、魔物に塗り替えられていくような恐怖は、尋常なものではなかった。
いつ意識が落ちたのかわからないが、きっと明け方近くなってからだろう。深夜に最大級の強さを覚えた欲求は、月の入りへ向かうにしたがって、少しずつ沈静していった。
「うわぁ……」
エレナは握りしめていたシーツを広げ、顔を顰める。シーツには、大穴が開いていた。もちろん、エレナの仕業だ。最初に噛みつくときには注意して前歯だけにしたのに、いつの間にか犬歯で裂いてしまっていたらしい。
せっかくの気遣いが台無しになってしまった。なんと言い訳しようか。頭が痛くなる思いだった。
しかしながら、ここまでの発作は初めてだった。満月の日に必ず襲われる衝動は弱くなることを知らず、徐々に強さを増している。これまでは何かを噛まなくても抑えられたのに、昨夜はそういうわけにいかなかった。
次からは自分で何か噛むための何かを用意しておいた方がいいかもしれない。本当に、獣にでもなってしまったみたいだ。そう考えると、げんなりと心が沈んだ。
燭台か何かを引っかけたことにしてしまおう。たかがシーツだ。追及などされないだろうし、それでなんとかなるだろう。エレナは衣服を着替えつつ、記憶を反芻する。
エレナが自身の吸血衝動を自覚したのは二年前――〝ウンディーネの聖別〟を突破し、聖女見習いになってすぐの頃に遡る。
この頃はまだ相部屋で、アリシアと同室だった。寝相の悪いアリシアに、毎夜のように布団をかけてやったことをよく覚えている。
その日、エレナは遅くまで窓辺で月明りを借りて本を読んでいた。
満月は貴重だ。深夜に燭台に火を灯すことは、規則で禁じられている。故にこんな日にしか、夜の時間を有効に使えない。エレナは一日でも早く教会の役に立つべく、力をつけたかった。
とはいえ、聖女見習いだって楽ではない。朝から夕刻までみっちりと予定が詰まっているし、特にエレナはわずかな空き時間を見つけては出来ることを探していた。聖女や高位聖女と自分の違いを見極め、差を埋めようとする努力を怠らなかった。
だから当然、疲労は溜まる。ひと月ぶりの満月だと意気込んではみたものの、数刻も経たぬうちに欠伸を漏らしていた。次第に定まらなくなる焦点を自覚したエレナは、さすがにそれ以上の読書を諦めた。
閉じた本を膝の上に載せて窓の外を見上げた。夜空を彩る満月が、エレナの瞳に映しだされた。
満月は不思議な魅力を放っていた。つい先ほどまで抱いていた眠気すら忘れて見惚れていると、徐々に胸の奥に熱いものが芽生えてくるのを感じた。
最初は小さな火種のようだったそれは、次第に大きくなって、エレナの鼓動を早めていく。
疑問を覚え、胸に手をやる。すると今度は唐突に、口内に涎が溢れてきて、喉が鳴った。何を求めているかは、本能的にわかった。
――血だ。血が、欲しかった。
エレナは我に返る。自分が突然知らない何かに変貌したようで、大きく狼狽えた。身が震え、背筋に寒いものが走った。
きっと、疲れているのだろう。そう考えたエレナは、なるべく迅速に眠りの準備を済ませ、布団に潜り込んだ。実際に疲労が溜まっていたこともあり、すぐ眠りに落ちることが出来た。
それから満月が訪れるたびに、謎の吸血衝動を覚えた。不快感程度から始まった欲求は留まることを知らずに上昇し続け、最近では抗いがたいほどまで高まっている。
もし、今でも寄宿舎で相部屋となる聖女以下の地位にいたら、とっくに見つかっていただろう。だが幸いにも発作を見られる前に、個室を与えられる高位聖女への昇格が決まった。ここにきて、さらに他の部屋との距離が広がる浄瀧殿へ引越した。
綱渡りのような日々を送りながらすんでのところで危機を回避し続ける采配は、天運が味方をしてくれているとしか思えなかった。
両親は普通の人間だった。エレナはある種確信を持ってそう考えていた。幼い頃の記憶だが、両親が理性を崩した瞬間を見た覚えなどまるでないからだ。この破壊的なまでの欲求を前にしては、とても正気など保てたものではない。
伝承によれば、かつてとある人間の女性がウンディーネ様と愛し合い、その寵愛を受けて浄化の力の一端を授かったらしい。
残念ながら様々な事情により結ばれることは叶わなかったようだが、その女性こそがすべての聖女の共通祖先とされている。
つまり人間ははるか昔、精霊と交流を持っていたことになる。ならば、魔物とも交流をもっていても、おかしくないのではないだろうか。
きっとエレナの遠い祖先はどこかで吸血鬼と交わり、血を残した。それが密やかに、しかし脈々と受け継がれてきて、エレナの代で先祖返りを起こしたのだと、エレナは予想している。
よりにもよってなぜ自分が、と嘆かざるを得ない。無論、他の人ならよかったのにと言いたいわけではないが、主観的にも客観的にも教義に殉じ研鑽を怠らなかったエレナに、こんな解決しようもない理不尽を課すことはないではないか。
もし、エレナが吸血鬼だと露呈したらどうなるか。
きっと極刑は免れない。すぐに死罪に処されるだろう。
だが実のところ、エレナはそれに対しては諦めがついていた。吸血鬼は魔物を忌避する水霊教の教義とは、相容れない存在だ。特別扱いされようとも、されるとも思わない。
それよりも問題は、大恩ある教会の名に傷がつくことだ。
エレナは叙階聖女の中では圧倒的に年若く、また見目もよい。そのため、教会は代表する聖女の一人として、エレナを衆目の前に積極的に立たせようとしている。
おそらくヴェロニカを除けば、今最も有名な聖女は、エレナだろう。そこに不満を覚えてはいない。
人々に寄り添い、支柱となる。それは教会が絶対に果たさねばならない責務の一つだ。
そんなエレナが実は魔物だったら――それは絶対に許されることではなかった。教会にも、人々の期待にも背く行いだ。
では、密かに死を選んではどうか。
しかし、これも難しい。エレナの自死は教会に何かしらの疑問を与えることになるだろう。
表立って石を投げつける者はいないと思うが、小さな疑念の種はやがて育ち、花を咲かせることもある。そこに正しさは問われない。
――ウンディーネ様、どうか……どうかお導きを。
朝が来て、ようやく捧げられるようになった祈りを、主に向けて強く篭める。
聖女としての自分と、吸血鬼としての自分。
そんな背反する二つの存在の狭間で、エレナは戦っている。
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