第15話

15▼ 憧憬(しょうけい)・司馬遷の史記


 光圀と信吉の二人は水戸藩邸に戻った。光圀の傅役3人は二つの笑顔が帰って来たのできょとんとした。明日のない運命(さだめ)を告げられてきた表情とは思われなかったからだが、しかし〈怖ろしき〉が上に付く剛の者の二人のこと、命の棄て場が定まったことに喜んでいるのかも知れないとも想像した。光圀は傅らの表情にかまわず奥へ入った。信吉があとへつづいた。傅3人は戦々兢兢として連なった。

 光圀が上座に腰をおろす。信吉が光圀の近いところに坐る。3人の傅はそれぞれの位置をさぐって神妙に膝をまげる。傅の身体全体に恐怖があらわれていた。信吉がおもむろに口をひらく。

「武芸は得手、学問は不得手、得手不得手があるのは誰しものこと。得手は大いに楽しみ伸ばされれば善し、不得手は少しだけ努めて補われれば善し。しかし御三家の藩主になる御方がその少しができぬとあれば、藩士も民も貧乏籤(くじ)を引かされたようなもの、心中に不満の種子(たね)が生えましょう」

 そんなことを信吉は光圀にいうというより、中空におわす幻に語った。光圀はその言々(げんげん)に肺腑を衝かれ、見る間に息が荒くなった。

 ――倒れる!

 そう感じ取った小野言員(ときかず)が膝を立てた。他の二人はすでに足を一つ踏み出している。が、信吉が鉄扇を打って3人の動きを止めた。

「ゥワアアアーーー」

 光圀の獣のような胴間声(どうまごえ)が格(ごう)天井に突きささった。光圀はそのまま脇息にもたれて沈みこんだ。3人の傅がふたたび寄って行く姿勢を見せたが、信吉は鉄扇を言員の喉もとへ伸ばして押しとどめ、あたりを睨(ね)めまわすようにしてその視線を若い傅のところで止めた。

「司馬遷(せん)はひとところでも読んだか」

 傅は、この喫緊時に何をいっているのかという表情をした。その若い傅に視線をすえながら、信吉は手で風呂敷包みをまさぐり1冊の典籍を取り出した。司馬遷を読んだかというのは彼の大著『史記』を一瞥したことがあるかという意味だ。司馬遷は古代中国の歴史家で、匈奴(きょうど)の捕虜となった李陵(りりょう)をかばって宮刑(きゅうけい)に処せられつつも、めげず史書130巻をあらわした大丈夫である。

 言員は若い傅に軽く顎をしゃくった。怖ろしき剛の者・備前守が呆(ほう)け事(ごと)をいう筈がない、備前守の問いに答えよという指図を送ったのである。

「書名くらいしか……」

 若い傅は情けない声をこぼした。

「田舎じじいでも少しは読みましたぞ」

 信吉はそう呟いてから、

「この一冊をお一方(ひとかた)一晩で書き写してお三方で三晩、そののち若さまに渡し、共に楽しまれるがよろしい」

 と、いった。信吉が示した一書は『史記』中の「列伝」の簡略版で、それほど厚いものではない。とはいえ一晩で書き写すとなると難儀だ。人員を調えて左右の頁を同時に写すなどの工夫が求められる。そんなきつい指示を平気顔で傅3人に与えると、信吉は光圀のほうへ向きなおった。

「通俗本として楽しめまする」

 光圀は学問が不得手。その人にいくら世嗣修養とはいえ四書五経をくどくどと説いても耳に入るまい。しかし列伝なら好奇心も湧くだろうと考えたのである。列伝とは人物伝の連なったもののこと。司馬遷は

 光圀は沈めた顔をゆっくり上げた。

「分かった、備前には逆らえぬ」

 澄みやかな声だった。だが、人間そう簡単に変われるものでもない。3行読んで飽き、1頁読んで嫌悪をもよおし、火に焼(く)べてしまうかも知れない。光圀ならやりかねない。それならそれでと信吉も覚悟していたが、今度は飽きも嫌悪ももよおさなかったらしい。自身で通読したあと、3人の傅に斉唱して聞かせよと意外なことを求めたという。小野言員からそういう復命があった。

 傅役は打ちそろって子どものように朗誦した。それは2度3度にわたり、ここは一人で、ここは二人で、ここは3人そろってと、光圀は読み方を細かく指示した。何度目かを越えると光圀は寝ころんで聴いた。飽きたのではなく浄瑠璃でも聴くようで心地よいといったそうだ。浄瑠璃でも聴くようでというところが市中を知っている光圀らしい表現だと信吉は苦笑した。

 そのような日々がつづいたあと、光圀は横にしていた躰をおこし、傅らに、

「よし、行ってくる」

 というなり部屋を出た。その足で信吉のところへ行くと、吐露した。

「伯夷(はくい)列伝にやられた」

「それは善うございました」

 信吉は好好爺の頬をほころばせた。

 伯夷というのは古代中国の孤竹国(こちくこく)の嫡男で、二人の弟があった。父は3男の叔斉(しゅくせい)を後継にしたいと遺言して死んだ。叔斉はしかし、長男伯夷がいるのに承(う)けられないと拒んだ。伯夷は叔斉が遠慮しているのだと思いみずから国を出た。すると叔斉も一緒に出た。国はけっきょく次男が嗣いだ。

 伯夷と叔斉の二人は周国(しゅうこく)の文王(ぶんのう)を頼って行き、迎え入れられた。だがその文王も間もなく死んだ。その頃、文王の長男武王(ぶおう)は殷(いん)王朝の暴虐王紂王(ちゅうおう)と激しい緊張関係にあったため父の木主(いはい)を安置しないまま戦さに出ることになった。伯夷は、親の木主をほうっておいて戦さに出るのは仁の道に反すると諫めた、だが武王にはその言を聞いている暇がなかった。武王は、酒池肉林にふけって暴政をかえりみない殷の悪辣な紂王(ちゅうおう)を滅ぼして周王朝を建てた。伯夷と叔斉はどうしたか、いくら暴虐王紂を討つためとはいえ、亡父の木主をほったらかして勝利した者の穀物は食わずといって山にこもって餓死した。そのことが伯夷伝に載っている。

「あのような書物がわが国にあったならば」

 光圀はそういいながら視線を庭のほうへやった。冬のさなかで色といえば枯れた色とくすんだ緑だけだったが、その1ヶ所に蝋梅(ろうばい)がつやのある黄色を輝かせていた。

「若さまなら出来得ましょう、おやりなされ。日ノ本の史記をお作りなさいませ」

「爺、学問も面白い」

 蝋梅の花を眺めながら光圀は晴れやかな声を返した。そのとき、突然うしろで大きな音がした。天井が抜けたかと思われる大音だった。光圀が振りむくと信吉が倒れていた。

「じいィッー」

 喉をつんざくほどに叫んだが、すでに事切れていた。

 中山備前守信吉が死んだ。寛永19年正月初旬、今の暦にして1642年2月の初旬、信吉が死んだ。享年66。怖ろしき剛の者の美事な生涯だった。光圀が15才の頃であり、頼房は40才になった頃だった。

 信吉が鬼籍に入ってから幾日かすぎた。憔悴しきった光圀は独り能舞台にあがった。舞台の天井をしばらく見ていたあと、「実盛(さねもり)」を舞いはじめた。


    貴い人も、貧しい人も、

    群れあつまって、

    南無阿弥陀仏

    と仏の名――


 光圀は独り謡いをすると、脇からポンと鼓が鳴った。しかし光圀は脇目をふらなかった。ただ幻聴のように聞いていた。ポンとまた鼓が鳴いた。


    毎日毎晩、

    説法の場にて――


 と光圀がつづけると、つぎの詞章は幻の声との合唱になった。


    誠に阿弥陀仏は、

    すべての生き物を

    浄土に迎えいれる。


 が、それは幻の声では無かった。父頼房がそこに来ていたのだった。

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