第14話 覚悟・冥土の土産
14▼ 覚悟・冥土の土産
それから数日も経たないうちだった。小野言員(ときかず)ら傅役(もりやく)が止めるのも聞かず、光圀は懲りずまた奇っ怪な恰好で市中へ出た。だが江戸市中で人目に立ったのは光圀のほかにもう一人いた。いつの間に加わったのか、奇妙な老人が光圀のそばにいて、跳ねるとも踊るとも言いがたい態(ざま)で人を騒がせている。
「戦さが無くなって武士が物の麩(ふ)になっちまったぜ」
「世も末ってな、このことよ」
「いいじゃねえか。戦さなんかねえほうがいいんだ。いまの年寄は洒落てていいや」
人々は面白がってそんなことばを交わした。
「だけどサ若え殿さまはあの有名な暴れん坊のようだが、年寄はどこの誰兵衛だい」
「きっと歌舞伎役者でもあろうよ。じゃなきゃーあんな態はできねえ」
「ちげえねえ、傾き者が二人そろって江戸大歌舞伎だ」
その様子を光圀を追いかけて来た小野言員が見て腰を抜かしそうになった。光圀を見てではない、光圀のかぶくさまはすでに知っている。老人を見てだ。老人が中山備前守信吉だったからである。つい先日、古典をもって説諭した人がこの風体(ふうてい)。
――乱心。
言員は堪えきれなくなって地に崩れおちた。信吉の噂は老中はもとより将軍家まで奔った。老中は赤鬼のような真っ赤な顔になって御前にひれふした。
「ほう、備前がか」
それが家光の第一声だった。しかし、将軍の片頬に含み笑いがかすかに見えた。
「引っ立てて参りましょう」
老中の進言に家光は返した。
「誰を」
老中は将軍もまたどうしたものかと惑乱した。が、きわめて冷静にふるまった。
「備前をでございます」
「打首にでもするか」
「御意のままに」
「それで光圀が何とかなるか」
「水戸宰相の御嫡子さまの振る舞いは傅(もり)役の責任を問うことと致しまして、備前は許されませぬ」
「だがまあ、しばらく見ておれ」
将軍の口からそう出れば老中は黙するしない。〈物事は規定どおり、すべて規定どおりだ〉これが口癖の老中も仕方なく腰を低くしたまま退出した。
――備前のやつめ、何かたくらんでおるな。
家光はそう思った。
――こたびは突飛すぎる。信吉が酔狂でやることではない。惚(ほう)けたのでも血迷うたのでもなかろう。
家光が察したとおりだった。信吉と光圀の老若(ろうにゃく)傾(かぶ)き練(ね)りは、信吉が光圀に頼みこんだことだった。
「じつは死ぬ前に一度してみたかったのです、同じ恰好をしてお供つかまりたい」
家光は、老中にしばらく見ておれといったことばとは裏腹に、翌日、光圀と信吉を呼びつけた。二人を詰責しなければ周囲がおさまる風がない。家光は問うた。
「備前も一緒になってどうしたことか、光圀がむりやり年寄をそうさせたのか、備前がみずからそうしたのか」
「この信吉が冥土の土産にと懇願したのでござりまする」
信吉が答えると、光圀が間髪を容れず、おのれが無理じい致しましたと答えた。予想していなかった光圀のことばに信吉は驚愕した。その驚愕が丹田にゆったりと沈んで、これで思い残すことはないと思わせた。
――やはり父君頼房公と同様、ただの傾き者にあらず。義もあれば仁もある。莫迦若さまであるものか。繊細な神経を持った剛の者だ。
「いえ、この信吉めが誘った悪事にござりまする」
信吉はうれしそうに答えた。しかし光圀も引かない。
「いえ、この光圀の性根の悪さがさせた戯(ざ)れ事でございます」
二人のそんな遣り取りをさえぎるように家光が扇子で脇息を打った。
「どちらでも同じことだ。三家の名を汚したのは罪にあたいする。そのことは後で老中に論判させるにして、――備前」
と将軍はいった。
「冥土の土産にとはどういうことだ」
「畏れながら」
信吉は平伏した。
「若さまが傾き者の恰好で市中を練り歩くことにつきましては傅役らが諌言(かんげん)を試みましたが不調に終わったと聞きおよびました。筆頭の言員(ときかず)は公方さまや水戸公を煩わせる前にみずから切腹して陳謝したいとのこと。しかしながら責めの発端はこの信吉にございます。光圀さまを世嗣(せいし)にと進言したのは不肖この備前。であれば、傾き者の恰好をするに至った若さまの心中を推し測っておのれの至らなさを知り、冥土で学びなおそうとの思いでございました。ここに公方さまの最期のお叱りをたまわりたいと存じまする」
家光は黙したままだった。光圀はうつむいたままで少し洟をすするようであった。それに似た音が御座(ぎょざ)からも幽かに、幽かに途切れ途切れに聞こえた。沈黙がつづくなか、浄土から来た鳥のさえずりであろうか、あけ放たれた戸の向こうの梢から優美な音色が聞こえた。家光は扇子を少しひらいて口もとを隠すようにし、ゆるらかな口調でいった。
「光圀、爺(じい)を早死にさせたいか。備前を殺したいか」
それはじつに美しい声であった。梢から届く音色と調和するかのように思われた。将軍家光の温かさがそう感じさせたのであろう。光圀は胸がかきむしられるような思いで答えられず、ただ首を横に振って洟をすすった。家光は席を立って背中にことばを残した。
「備前、そこもとにあずける」
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