第13話

13▼ 不測・光圀かぶく


 梓弓(あずさゆみ) 春立ちしより年月(としつき)の

 射るがごとくも思ほゆるかな


 古今和歌集の撰者の一人・凡河内(おおしこうちの)躬恒(みつね)が詠んだように歳月は人を待たない。幼児が育つのも疾(はや)い。光圀はいつしか10代になっていた。が、その頃から行動に異変があらわれた。傾(かぶ)きはじめたのである。傾くとは素人が歌舞伎役者のような派手な恰好をすることをいう。

 光圀には3人の傅役(もりやく)があてがわれていたが、そのうちの一人が光圀の様子を見てと評した。

「血だな、仕方ない」

 父の頼房も若い時分かぶいていた。それを伝え聞いていて血と表現したのであろう。その言いざまが信吉の耳に入って脳天に突き刺さった。信吉は刀を左に持ちかえた。

「血だから仕方ないなら傅役は不要。まちがいもあるから傅役があてがわれている。たしかに主君頼房公もそのような時期があった。その折この備前は切腹覚悟で臨んだ。それがそなたらときたら血だと暢気(のんき)なさまだ。その言を頼房公にいえるか、若さまにいえるか、血だから仕方ないといえるか」

 信吉は持った刀を傅役の前に叩きつけた。信吉がこんなにも激昂するのを誰も見たことがなかった。老人に残された命を燃えつくすような激しさがあった。傅役の筆頭格・小野言員(ときかず)が蒼白な顔で答えた。

「責任はわたくしめが……腹を召して」

「そうさせたくないからだ、ばかやろう」

 信吉は型どおりに謝るその心根に腹が立って、怒りをバカヤロウというナマのことばであらわした。この人が、こんなふうな言い方をするのを何度もなかったから、言員(ときかず)の世代では聞いたことがなかったろう。信吉は言員一人に顎をしゃくりあげた。

「ついてこい」

 もし傅役らの暢気を見逃していれば、風聞は老中へ伝わり3人はまちがいなく切腹になっていた。血だという雑言を吐いたのは言員とは別の傅役であったが、同僚の雑言を聞いても筆頭格として忠告しなかったことを叱るつもりだった。だが二人になるとそのことが消え、おのれ自身の若い頃の失態が思い出されて、みずから思わぬ苦笑を洩らした。

「われら、もう叱っていただく価値もございませぬか」

 言員は信吉の苦笑をそう取ったようだった。

「いや、おのれ自身の失態が浮かんでナ。そなたはもう分かったろうから、先ほどの件は終わりにしよう。だがこの機会に、今後の役に立つかも知れぬゆえ老いの繰り言を許されよ」

「繰り言などとおっしゃらず、是非お聞かせ下さい」

 小野言員は平身低頭の姿勢をくずさなかった。信吉は遠くを見つめるような目をした。関ヶ原の合戦が終わって40年、大きな戦さはなく、幕府も第3代将軍家光公の時代が長きにわたり、武術より学問が尊ばれるようになりつつある。

「お蔭でそなたらも四書五経に通じ、武張(ぶば)った年寄を嘲笑うほどの知見を得たろう。だがその知見の中身は如何に。おーっと、やはり下作(げさく)の繰り言になる」

 信吉は自虐した。

「いえ、どうぞお続け下さいませ」

 言員は誘い水をむけた。信吉はぼそぼそと話した。

「わしは親爺(おやじ)が戦さで討死し、貧乏したから四書など知らなかった。大権現家康公から有難い石高をたまわったが、八王子城の戦さで孤児となった者や手足を失った者に分けあたえると余裕はなかった。幸運なのは権現さまや本多佐渡守さまに直(じか)にまなぶことができたということだナ。権現さまはわしのために、〈性(せい)相近(あいちか)し、習い相遠し〉ということばをさずけて下さった。それは御(おん)みずからご苦労あそばされた御方の実感であったろう。佐渡守さまは〈犂牛(りぎゅう)の子も騂(あか)くして且つ角(つの)あらば、用うることなからんと欲すといえども、山川(さんせん)それ諸(こ)れを舎(す)てんや〉と教えて下さった。わしには難しかったが、そなた小野殿におかれては容易であろう。理屈では解る筈だ。問題はその心根、心根がそう理解するには容易なこっちゃない」

 そこで信吉はまた若い者を責めてしまったと自嘲して、フーと嘆息にまじらせて吐いた。

「こうして権現さまや佐渡守さまの御薫陶を思い返してみると、そなたらに嫌味を申すわけではないが、人間、血ではないことが分かる。命の捨て場をまちがうことなかれじゃ」

 そういって腰を上げかかった信吉に、言員が、

「しばらく」

 といった。

「われら傅(もり)は今後いかがしたら善うござりましょうや」

 信吉は浮かせた腰をまたおろし、ことばを板の間にしみこませるように落とした。

「若さまがかぶくのはすべきことが見つからぬゆえでござろう」

 光圀は文武の武のほうは滅法強いが文のほうはとんと弱い。肝もすわっていて、夜半、川向こうの刑場から首をかかえて泳ぎ渡ってきたこともある。このときは傅役は仰天して始末に困った。光圀はそのように〈怖ろしき〉が上に付く剛の者だった。

「であれば」

 と言員(ときかず)はいい、光圀の得意な武術の試合を催すのはいかがかと提案した。信吉は首を横に振った。得意なものではおのれが前に出たがり、他の者を圧倒してすぐに飽きる。

「それに」

 と信吉はつづけた。

「武(ぶ)の士(し)であるから武を尊ぶのはむろんだが、藩主になるための修養は文のほうにも足を置かねばならぬ」

 信吉がそういって息を継ぐと、言員も、

「で、ございますれば――」

 と重ねて信吉の目を凝視した。

「得手に帆ではなく、こたびは弱いほうを勧めてみてはどうか。世の中には若さまよりもっと立派な方がいることに気づいて戴かねばならぬ」

 信吉のことばに言員はウッと息を呑んだ。中山備前守信吉という人は、若さまより立派な方がいることに気付かせるなどと平気で口にする、この人もまた、剛の者の上に〈怖ろしき〉が付くと言員は思った。

「矩(のり)を超えて申し訳ないが、わしに最後のご奉公をさせてくれまいか」

「いかなることをお考えでござりましょう」

 それへの返答はなかったが、現藩主頼房公の傅(ふ)を務めた御仁が考えることである、悪いことはなかろうと、言員は 何の疑いもなく頭を垂れた。

「従いまする」

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