第12話

12▼ 焦燥・中納言いまだ


「千代松君がよろしいかと――」

 信吉は将軍家光の御前で復命した。家光自身の声があった。

「分かった」

 それで正式に千代松が水戸藩の世嗣(せいし)と認められた。この子が長じて第2代水戸藩主となり、光圀と名のり、水戸黄門の愛称を得ることになる。実父の頼房は世嗣が決まったことについては何もいわなかったが、内心うれしかったようだ。

「善い後継になるであろう。備前は苦労人だから人を見る目がある」

 近習にそう洩らした。

 江戸で光圀の世嗣修養がはじまった。世嗣修養は文武両道にわたる厳しいものだ。水戸城下でのんびり育った幼少の子どもには堪えがたいこともあった。だが世嗣となったからには泣き言は許されない。

 ――民(たみ)百姓(ひゃくせい)は血のにじむ粒々辛苦(りゅうりゅうしんく)を重ねております。

 それが信吉の口癖だった。光圀の傅役(もりやく)は別にいたが、信吉は自分が選んだ責任を感じて即(つ)かず離れず見守った。

 水戸徳川家の世嗣・千代松は8歳で元服の儀をむかえた。その折、将軍家光の「光」の一字を偏諱(へんき)として享け光国と名づけられた。偏諱とは偏(かた)ほうの諱(なまえ)ということで、千代松は家光の偏ほうの諱「光」をたまわったのである。ちなみに光国が、則天武后が作った「くにがまえ」の中に「八方」と書き国の拡がりをあらわす圀の字になるのは、ずっと後年のことだ。しかし拙稿では混乱するのでその使い分けをせず、全体に光圀を用いる。

 世嗣が元服を迎えたのに併せて父頼房自身にも喜ばしいことが起こった。徳川姓がさずけられたのである。そして、ここに水戸徳川家が誕生する。

 光圀のほうは、寛永17年、父頼房が23歳でうけた従三位(じゅさんみ)に13歳にして昇った。晴れがましい出来事だったが光圀は信吉に不満を呈した。

「中納言ではない、中将だ」

 位階は従三位になったが官職は、

 ――権中将(ごんのちゅうじょう)、元の如し――

 と変わらなかったのである。中将は近衛府の次官、中納言は太政官の次官、どちらも次官格は同じだが中将は三位ではなく四位相当だったのである。位階は昇らせたが官職はお預けにされた恰好だ。中納言は令外官(りょうげのかん)とはいえ、対象者の年齢、家格、何代目かなどによって判断され、かんたんに叙任させるわけではなかった。たとえば父親が何かの都合で早くに就任した場合は、その子の同等就任は送らせて全体の均衡を図った。これは個の眼からすると割をくうということになるが、家を基準にして考えると公平だったのである。

「元服の折、爺は申したではないか。父上と同じように中納言になる日も遠くない、と。中納言に昇ったあかつきには水戸の黄門と名乗れると……」

 信吉も覚えている。たしかにそういったのだった。黄門とは中納言の唐様(からよう)の言い方である。このことについては前にも触れたが、日本の漢字文化は古代中国から取り入れたものだから、鎖国状態にあっても唐の国は畏敬の対象であった。その唐では古くから色を以って位置をあらわす風習がある。四神相応といって、東は青(青竜)、西は白(白虎)、南は朱(朱雀)、北は黒(玄武)が守るとした。その中央には坐するのが黄である。つまり黄は天子の色だ。よって宮中の門を黄門ともいう。称号の黄門は黄門侍郎(じろう)という官職名の略。

「ですがお上も都合がありましょう。父君も20代半ばの権中納言、若君にはまだ10年もございます」

 信吉がそう執り成すと、光圀は不安そうにいった。

「爺はそのときまで生きているか」

 信吉は虚をつかれた。生き死にのことを直截(ちょくせつ)に訊かれたからではない。忙しさのあまり死ぬことを忘れていた、と気づいたからである。そのとき信吉は60を超えていた。信吉は冷汗をかくのをみずから打ち消すようにして力強く返した。

「生きておりましょう、水戸の黄門さまになるまで生きておりましょうぞ」

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