第10話

10▼ 思案・世嗣(せいし)をえらぶ


 秀忠は慶長10年春に神祖家康から将軍職を受けつぎ19年背負って、元和9年夏に家光に渡した。翌年、元号は寛永に変わり諸制度が厳格になる。まず、キリスト教排斥が激しさを増した。豊臣時代の禁教令はまだ緩やかなところがあった。しかし秀忠の治世になると、吉利支丹の徒党は「商船を渡し資財を通ずるのみに非ず、みだりに邪法を弘め正宗を惑わし、以て域中(いきちゅう)の政号(せいごう)を改めんと欲す、これ大禍の萠(きざし)なり、制せざるべからず」(異国日記)と領土まで奪おうとする邪宗だと明言し、それが家光の治世になると一層厳しさが加わり信者の良心を楯に取った踏み絵という手法で心の中をえぐりだすに至る。

 武家諸法度も改定された。2代秀忠が成した武家諸法度(元和令)の第1条「文武弓馬の道、専(もっぱ)ら相(あい)嗜(たしな)むべき事」という一般論を、寛永12年、家光は「大名小名在江戸交替、相定むる所なり」(寛永令)とした。在(ざい)とは国元のことで、国元と江戸とを交替して勤めよ、いわゆる参勤交代を制度化したのである。

 同12年には鎖国令も改められた。それまで貿易船の渡航は老中から許可が得られていたが、「異国へ日本の船遣わすの儀、堅く停止(ちょうじ)の事」といかなる船も渡航禁止とした。神祖家康が方向を示し第2代秀忠が幕府の屋台骨を堅固にしたのをうけて、第3代家光は細部に目をこらし武家ばかりでなく公家や親族にも厳しく当たった。駿河大納言とまで称された実弟忠長を行状不調法として、寛永10年に高崎の寺で自刃させたのもその現れである。

 その寛永10年の某日、中山信吉は3代将軍家光の御前に呼ばれて質(ただ)された。

「水戸はどうするのだ」

 水戸藩主頼房の跡継の見当はついているのかという意味だ。信吉は詰責されるのは覚悟で虚言は用いず奉答した。

「いまだ」

「そこもとの胸の内にもないのか」

「水戸公のお許しを得ておりませんので口に出すのは――」

「備前!」

 家光の鋭利なことばが飛んだ。

「水戸の叔父上の許しというが、将軍家の予が質しておるのに、その言い種はあるか」

「滅相も、滅相もないことでござりまする」

「そこもとはそうやってどこまでも叔父上の楯になる。東照大権現さまがそのような性根を可愛がったという話は父君からも伝え聞いておるが、厭なやつじゃ」

 と家光はそっぽを向いた。その顔をまた元に戻すと、今度はこんなことをいった。

「どうだ、いちど幕閣の面倒を見てみるか」

 厭なやつと貶(けな)しておき、一息入れてから幕閣の面倒をと覆いかぶせる。幕閣の梃入(てこい)れをしたいからその下支えに千代田の城へ戻ってくる気はないかという暗示であった。たとい世辞にしても譜代でもない2万5千石程度の者に幕府中枢に興味はないかというのは青天の霹靂(へきれき)、信吉は何をいわれたのか分からなかった、というより、むしろ奥深い叱責をうけたような気がして混乱した。家光はその表情を見て取って、そのことにはそれ以上触れず話を戻した。

「叔父上に、直截(ちょくせつ)心模様をたずねたことは……」

「ございますが、そのときは御返答をさずかることは叶いませんでした」

「そこもとに焦燥はないのか」

「ございまする」

「なれば、どうする」

「鳶(とんび)が空高く舞い、雀が鳴きはじめる前に決めるが肝要かと。また令息方が小さい内に決めませんとお世継ぎさまとしての性根が育ちませぬ。それには――」

 とまでいって信吉はあとを吞みこんだ。世継ぎが決まらない状態がつづけば、側室や取り巻きが自薦他薦を細工して争いの種をつくるのが常。高位の者は将軍家に甘口をもって近寄り、下位の者は我田引水の言をばらまくであろう。鳶と雀は高位と下位の暗喩(あんゆ)である。家光はウフと片頬で笑んだ。

「そういえば鳶が大廊下を歩いていたな。であれば備前、進めィ」

 頼房は当てにできないから、将軍の名のもとに信吉が世嗣を決めてこいとの指示である。信吉はハハアと額を下につけた。とはいえ主君頼房の諒承を得ないで事を運ぶわけにはいかない。

 信吉は家光の憂慮をやわらかに頼房に伝えた。

「世嗣を早くお決めなさるようにとの……御忠告でございます」

 だが頼房はお見透しだった。

「御忠告ではあるまい、御下命であろう。忠とは公方さまがお遣いになる言辞ではない。下の者が用いさせてもらうことばだ。爺(じい)、心中に賊がいるのではあるまいな」

 信吉の脇の下にツツッと冷たいものが奔った。情動の激しさと神経の濃やかさを併せもつ殿であるのは重々承知していたが、これほど鮮やかさを内包しているとは――と、おのれの浅薄を恥じた。信吉は素直に詫びた。だが頼房はそれにはもう取り合わなかった。

「好きにしろ、任せる」

 そのとき室を微風が通った。見ると、すでに頼房はいなかった。見ていたのに何も見ていなかった、信吉はそんな悔恨におそわれた。そう、頼房は風であった、烈風のこともあり、ときに狂風じみたこともあったが、決して蛮風ではなかった。

 信吉は自室へ戻る途中、庭の草木を見、流れゆく白雲を眺めた。庭園の大樹の枝葉がゆっくりと揺れて幾つかの野禽(やきん)が飛びかっていた。

 ――これも見ようとしなければ見えぬ、目の前にあるからといって見ているわけではない。

 信吉は厳粛な面持ちになって考えた。

 ――水戸藩主の世嗣をえらぶ、それはいかなることを本居(もとい)にすればよいのか。民のことを考えられること、藩士を信頼できること、それがひるがえって初代藩主頼房公の偉大さを示すことになるであろう。

 そんなことどもを頭にめぐらせながら、それらを一つにまとめたら何となると思ったとき、「政(せい)とは正(せい)なり」という章句に帰結した。孔子が魯(ろ)の国の宰相季康子(きこうし)に政(まつりごと)について問われたとき、臆することなく答えたのがこの短くして壮大なことばだった。

「よし」

 信吉は丹田を引きしめて筆を執り、水戸の国家老へ丁寧な手簡を送った。

 ――某月某日、主君頼房公の名代としてお世継ぎさま選びにおもむく。よって公のご子息を一堂におまねきしておかれたし。このことは将軍家と藩主の命を併せうけて行うものである。未だご幼少の若さまもあるであろうから憤(むずか)ることのなきよう図るとともに準備万端を期するよう願う。

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