第9話

09▼ 上意・水にされる命


 元和(げんな)9年、秀忠は将軍職を次男家光にゆずった。元和10年は2月に寛永に改元され、その寛永3年、頼房は従三位(じゅさんみ)権中納言(ごんのちゅうなごん)に叙任される。23歳だった。

「黄門さまになられたわけでございますな」

 信吉は言祝(ことほ)いだ。黄門とは中納言(なかのものもうすつかさ)を唐様(からよう)に称したことばである。中納言の頭に付いている権というのは定員外のという意。

「そうか、ならばこれからは水戸の黄門としゃれるか」

 頼房は上機嫌だった。しかし頼房は水戸の黄門さまと呼ばれることはなかった。水戸黄門というそれが特定の人物の愛称のようになるのは、頼房の子・光圀(みつくに)が権中納言になるまで待たなければならない。人には似合いというものがある。巷間(こうかん)、大師は弘法に奪われ太閤は秀吉に奪わるという。大師や太閤の敬称は何人もに与えられているのだが、大師といえば弘法大師、太閤といえば太閤秀吉の独擅場(どくせんじょう)である。同様に中納言も何人もいるが黄門といえば水戸黄門光圀を指す。

 頼房がなかのものもうすつかさになった2年後の寛永5年、頼房の側室久子が二人目の子を懐妊した。久子はうれしさと怖さが入りまじった思いですごした。一人目の子を身ごもったとき、

「水にせよ」

 と頼房が苦もなく命じたからだ。

 水にせよとは堕胎せよということ。それを救ったのは頼房の元乳母で水戸藩士三木之次(これつぐ)の妻となっていた武佐女(むさじょ)だった。武佐は度胸があって主君の命に白化(しらば)くれてあらがった。わが家で堕ろさせると偽って、城下の自邸で出産させた。生まれた子は京都の寺院とも江戸の某屋敷ともいわれる所へ送られて、いまも隠し育てられている。のちに認知されて讃岐高松藩主となる松平頼重がその子である。

 久子が二人目を懐妊したと知ると、頼房は判で押したように、またも水にせよと命じた。久子が二人目を身ごもる前に、別の側室が懐妊したときは障りなく産ませているのにである。

 ――なぜわたくしの子だけ……

 久子が恐れおののくのは当然だった。堕胎をせまる理由がまったく知らされないのも恐怖感をつのらせた。だが、いかなる理由であれ主君がいったん口に出したことはくつがえらない。ところが武佐女はまた白化くれて逆らった。以前同様、自邸で久子に出産させた。頼房の子としては3男であるこの子は遠くへやらず三木邸で隠し育てることにした。長じて光圀と名乗るのはこの子である。ちなみに別の側室が産んだ第2子も男子(おのこ)だったが、生まれたときから具合が悪く数年で死んだ。

 こうして頼房の子は、ひそかに生まれた子、許されて生まれた子、合わせて男子だけでも9人ほどになった。そのうち早くに死んだ子もいるので何人が成長したのかつまびらかではないが、それでも隠し育てられた長男の頼重や3男の光圀など何人かは衆目の前に出てくることができるようになる。

 そうなると今度は別の問題が浮上する。頼房が正妻を持たなかったために嫡男と呼べる子がなく、世嗣(せいし)決定に厄介な風をはらむことを予感させた。しかし当の頼房は世嗣には関心を示さないどころか、捨て鉢なふうさえ見えた。穿(うが)った見方をすれば、尾張や紀伊の兄と差がつけられたことに気鬱を深めていたのかも知れない。たしかに歩み出しは義直も頼宣も頼房も同じようなものだった。だが長ずるにしたがって差は明らかにひらいた。いま義直は尾張藩、頼宣も紀州藩、それぞれ大まかに60万石、55万石をさずかっている。一方、頼房は水戸藩25万石に封(ほう)ぜられたのち加増をうけて28万石になっただけである。

 それよりもいちばんの差を感じたのは尾張と紀州は徳川姓をうけているのに水戸は松平姓のままだという点であった。

 ――であるならば、尾張や紀州のような責任もなかろう。水戸の世継(よつぎ)などいようがいまいが……

 幕府の紅葉山文庫や昌平坂学問所などの蔵書を引きついだ内閣文庫の資料に、頼房が自身を卑下する述懐が残っている。

 ――世に尾州紀州水戸を三家というが、真の三家は公方家、尾張家、紀州家をいう。われら水戸は一門の越前や越後と同じ家格にすぎない。

 越前や越後と同じとはこういうことである。越前福井藩には家康の次男秀康が入って60数万石をさずかった。秀康は戦さの講和対策として豊臣秀吉のもとへ養子に出され、次に下総の結城家へ養子に行かされて結城秀康と名乗る。関ヶ原の大戦後、越前に移封(いほう)されるのだが、結城から松平への改姓は許されたものの徳川姓にはなれなかった。越後高田藩には家康の6男忠輝が約60万石で入った。しかし姓は松平のままで、のち改易になったから徳川姓など話にものぼらなかった。

 頼房も松平で一生を終わるかに見えた。兄秀忠の代になっても徳川姓のことは口の端(は)にものぼらなかった。頼房自身が述懐しているように、徳川三家はは公方家、尾張家、紀州家であり、水戸は眼中におかれなかったのである。

 しかし、3代将軍に家光がつくと風向きが変わる。戦さの時代はおわり、幕府は一層高い権威をもって天下を睥睨(へいげい)しなければならなくなった。となると、いくら血を分けた兄弟が祖とはいえ、徳川宗家である公方家が尾張徳川家や紀州徳川家と同格の三家などと呼ばれているのは望ましくない。将軍家を別格上位としなければ諸大名に威厳を示せない、と家光は考えた。

 その家光と江戸に定住している叔父頼房とは頼房のほうが年が一つ上だけということもあって、家光は親近感をいだいていた。それらがちょうど時宜(じぎ)を得た。家光は頼房を水戸徳川家の祖とさだめ尾張と紀州にならべて三家とし、将軍家は更なる上と位置づけたのである。

 かくして頼房は念願の徳川姓に列せられた。されど長年卑下しつづけてきた男の内面が、短日月(たんじつげつ)のうちに平らかになるなどということはなかった。水戸が徳川になったからといって、今更、正妻をめとってこの家をどうするこうするなどという意欲は頼房には湧かなかったのである。

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