第7話

07▼ 霹靂(へきれき)・水戸藩附家老(つけがろう)


 傅役(もりやく)は誉れだが命がけの職である。歴史上、この仕事に真っ向から当たったのが織田信長の傅役・平手政秀だ。奇っ怪な信長の振舞いに往生した平手は切腹してそれを諫(いさ)めた。このような役だから小利口な者は傅役に任じられるのをさけた。だが信吉は難事であればあるほど逃げなかった。家康に拾ってもらった時から命はあずけている。

 1万石のあるじとなった信吉は家康の許可を得て、八王子城でよく戦った者の子息10数人を八王子孜々(しし)として家来にした。孜々とはせっせと励んだという意味である。ふつうの主君なら旧敵の子息を一挙にそれだけ多く雇い入れさせるのは躊躇する。謀叛の芽が育たないとも限らない。だが家康は、信吉をかえって褒めた。

「故旧(こきゅう)、大故(たいこ)なければ棄てず――だ」

 これは古代中国の周公旦(しゅうこうたん)が任地におもむく息子に送った一節である。古くからの知己は大罪人でないかぎり見棄てるなというのが大意で、この訓えは信吉をまた一まわり大きくした。

 1年後の慶長14年、家康の11男頼房は6歳で水戸に封(ほう)ぜられて水戸徳川家の祖への歩みをはじめる。祖としてではなく、祖への――とは、頼房には徳川姓はさずけられなかったからである。家康はどの子にも徳川姓を与えたわけではない。徳川姓をさずかったのは2代将軍秀忠と、尾州徳川家の祖となる9男義直、紀州徳川家の祖となる10男頼宣、その3人のみ。11男頼房が水戸藩主になった当初はまだ松平姓だった。他の兄弟は病死、自殺、改易、他家相続、あるいは父親への反抗だったりで徳川姓は貰えなかった。頼房も徳川姓を得るには家光の時代まで待たなければならない。

 頼房が水戸藩主になったことについては都雀(みやこすずめ)が風説を飛ばした。義直と頼宣はまともな性格だから、義直は尾張、頼宣は紀州と大藩を預けて西方大名の動きを牽制させる。しかし頼房は何を考えているか分からないから目の届く水戸藩にすえたのだ、という風説だった。信頼の差は尾張や紀州が50万石、60万石と高いのに、水戸は20数万石と低いことにも現れていると雀らが補説した。だが冷静に考えれば、義直も初めは甲府20数万石、頼宣も水戸20数万石だった。頼房が格段の差をつけられたわけではない。むしろ、頼房には破天荒な才があるのを買って江戸近くに置いたという説もなくはなかった。破天荒とは誹謗語ではない。称讃語である。

 頼房には奇異なところは確かにあったようだ。駿府に隠居した家康が末の3人を呼んで共に暮らしたときの逸話がある。家康は幼年3人を伴って高殿に登り、下界を眺望しながら、ここから飛びおりたら望む物をやると冗談をいった。二人の兄はたじろいだ。が、頼房は本当に何でも呉(く)れるのかと問い返した。家康が訊く。

「何が欲しい」

 頼房が答える。

「父上――」

 それを父上のような人間になりたいという子どもなりの表現だと解した家康は、胸をくすぐられる気持ちで、父上が欲しいとはどういうことかと重ねて訊いた。頼房は即座に返した。

「天下だ」

 家康は虚をつかれたが、そのときはまだ頼もしいと思わないでもなかった。しかし、次のやりとりで痛烈な危うさを感じる。

「天下を貰っても飛びおりて死んだら元も子もないではないか」

「天下人になれれば砕け死んでもよい」

「なぜそんなに天下人になりたいのだ」

「兄上らの上になれるではないか」

「でも死んでしまって仕方なかろう」

「名が残ればよい、武将は名だ、名を残せと誰かがいっていたぞ」

 頼房は61歳も離れている父親を説得するかのように顔色一つ変えなかった。それに末子の甘やかしも手伝って口調ががぞんざいだから、絡繰り人形のような奇妙な怖さがあった。家康は目のふちを指先でこすった。

 ――この子の吉凶は分からん……、わしもどこまで生きられるか。

 そんなことがあって間もない慶長14年、家康は6歳の頼房を水戸藩主にした。すでに将軍は秀忠であったから大名人事は秀忠の手にあったが、重要案件は駿府の隠居老人が口を出した。家康は頼房を水戸にすえつつ将軍を輔弼(ほひつ)するための勉学という名目で江戸に定住させた。要するに定府(じょうふ)である。さらに末子の危うさを思い中山信吉を附家老にしなければと脳裡にえがいた。

 徳川一門の者を藩主として送りだす場合、幕府は幕府指名の家老を附属させた。これを附家老という。藩経営の補佐が仕事だが、善からぬ芽が育たぬよう藩主や取巻きに目配りすることも含まれている。附家老はまた、一大名の家臣となるので幕臣から陪臣に異動する。幕府派遣ということで一目置かれはしたが、何かの折に陪臣扱いされる。よって、それへの就任は敬遠された。というのは附家老ともなると任命されるのは大名格の者だったから、そんな厄介な職務に就かなくても体裁は充分保てたのである。

 重要案件は家康が握っていたが、将軍の面目をつぶさぬために秀忠にたずねた。

「頼房の附家老は誰に」

「あの暴れん坊には中山が適任でございましょうが、中山を父上のもとから引き剥がしては寂しくなりましょうなァ」

 秀忠も父親の腹中を読んでいる。家康はなるほどとうなずきながら、真に中山が適任と考えるかと問うた。

「御意」

「将軍が隠居に御意はない、アッハハ」

 家康が気持ちよく咲(わら)って、水戸藩への附家老は中山信吉に決まった。信吉の禄高は1万5千石になった。附家老というのは国もとの家臣から煙たがられる存在であったが、信吉は国家老を前面に立てて信頼を得た。江戸の邸で使う物資もできるだけ水戸領から調達した。そういう心遣いを地元の人たちは喜んだ。

 慶長19年、家康にとって仕上げの時期がおとずれた。大坂の陣である。最初の冬の陣では大坂は落ちなかった。だが翌年、夏の陣を敷いて淀君秀頼母子を自刃させ、江戸は盤石となった。この大坂の陣の折、頼房は11、2歳になっていて初陣の栄に浴してもよい年齢であったが駿府の守備に置かれた。幼年期のことではあったが、天下人になれれば砕け死んでもよいと答えた頼房である。さぞかしモヤモヤしていたであろう。それを信吉が蔭になり日向になって落ちつかせた。

 大坂を落とした翌年、家康は太政大臣に昇格する。このとき家康は信吉の昇格についても朝廷に推挙し、信吉は従五位下(じゅごいのげ)備前守(びぜんのかみ)に叙任された。しかし禍福はあざなえる縄のごとし、1カ月後、信吉を悲哀がおそう。家康が逝去したのだ。その遺体を久能山に葬ったと思ったら次の悲劇が待っていた。本多正信も死んだのである。信吉は置いてきぼりにされたような寂寥をおぼえた。

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